読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



いにしえの光


初老の男がひたすら50年以上昔を回想する。
15歳の少年だった彼は親友の35歳の母親から誘惑され、欲望の赴くまま彼女と結ばれ、そしてその関係を続けていく。
しかも大都会ではない。
ほんのちょっとしたことでもすぐに噂が広まってしまうような田舎町だ。

15歳の少年は時に友人の母に拗ねてみせたり、わざと周りに気づかれそうにさせて困らせたり、それでも彼女は彼を許してしまう。
記憶はところどころが断片化されていて、はっきり思い出せない場面もある。

してはならない恋に落ちた少年時代。

その語り手は少年時代の彼ではなく、初老の男だ。

エロティックに思えるようなシーンにいやらしさがないのは初老の彼が振り返っているからかもしれない。

主人公の男は役者をなりわいとする。
役者というにはあまりに文学的な人なのだ。
こんな文学的な表現をする役者がいるだろうか

本の帯を見る限り、娘を亡くした老俳優と父親を亡くした女優の物語のように見えてしまうが、そんな話ではなかった。

現実の話は確かに進行して行くのだが、常に主人公の頭は追憶の中の彼女にある。

この本の感想は本当に表現しづらい。
これまで読んだいずれのタイプにも属さない、そんなタイプの本だった。

いにしえの光 ジョン・バンヴィル 著



黎明に起つ


なんだか、歴史の教科書の副読本を読んでいるような気持ちだ。

北条早雲の生き様を描いた本なのだが、応仁の乱の前後の描写は教科書副読本のように日野富子だの細川勝元だの山名宗全だのとかつて詰め込みで覚えたような懐かしい名前がいくつも登場する。

そういや、東京都知事選を賑わせている細川さんの家柄はこんな時代から世の中を賑わせていたのだなぁ、とあらためてあの家の家柄のすごさを思い知らされる。

この本の主人公はもちろん北条早雲なのだが、その名前では登場しない。伊勢新九郎や伊勢盛時や宗瑞と言った名前で登場する。
その若き日の早雲である伊勢新九郎は足利義視に半ば人質をとして仕えるのだが、人質とは言え主従関係。
上洛し、義視を捕縛する側に実の兄達が居るのだが、親兄弟よりも主従関係の方に重きを置き、実の兄を斬り殺してしまう。

また、「明応地震」のことも興味深い。
この地震がどれほどの大地震で大津波をもたらしたか。
その途轍もない大きさは、本来純粋な湖だった浜名湖を海とつなげてしまうほどで、現在の浜名湖も海につながったままである。
その津波の混乱に乗じて早雲(宗瑞)は敵を打ち取ってしまう。

そういう話はなかなか楽しめるのだが、名を伊勢宗瑞としたあたりからだろうか。
武士の為でも公家の為でも朝廷の為でも幕府の為でも無く、「民のために生きる、戦う」という話になって来る。

大抵の歴史上の人物に「民のため」と言う大義名分のを持ちだすことは可能だろう。
「民のため」という大義を大上段にかざした途端、せっかくの歴史ものの値打ちが下がってしまう気がする。

税負担を「五公五民」から「四公六民」にしたことなどはさすがに何かの史実として残っていたのかもしれないが、他の行いについてはどうなんだろう。
何らかの出典を文中にでも出しながら話を進めてくれれば、同じ「民のため」の行いを書くにしても、読み手からは全く違ったイメージのものになっただろうに。

それにしてもこの作者、ご自身では歴史上の人物を良く覚えているから気がつかないのかもしれないが、主人公周辺はともかく、他のちょこっとした登場人物は皆、毎回フルネームで書いて欲しいものだ。

初回登場時はフルネームでも次には姓を省いて下の名だけで書かれてしまうと、これは何氏の人だっけ、とページをめくり戻さねばならなくなる。

信長、秀吉級になればフルネームの方が煩わしいが、下の名前だけで、すぐに何氏と思い浮かぶほどには、この時代の人物を覚えちゃいない。

北条氏と言えば、大ヒット映画「永遠のゼロ」の主人公の岡田君が大河ドラマで演じている黒田官兵衛に滅ぼされるわけだが、この創業者が健在だったなら、うまく関東で所領を安堵し、生き延びたかもしれない。

なかなかに調略上手なのだ。
北条早雲という人は。

黎明に起つ 伊東 潤 著



島はぼくらと


なんて読後感のいい本なんだろう。

瀬戸内海にある冴島という架空の話が舞台。

島にある学校は、小学校と中学校まで。
高校に進学するには本土へ渡らなければならない。
それでもまだ高校なら本土で一番近い学校ならフェリーでの通学も可能だが、それでもフェリーは決まった時間での往復しかしておらず、島へ渡る便は夕方の早い時間が最終。
やりたいクラブ活動があってもほんの出だしだけしか参加できない。

高校後の進路、進学するにしても就職するにしても、島には産業と言える産業がないので、自然と島を出ざるを得なくなる。

島では母親は15歳になれば離れ離れになることを覚悟の上で子育てをする。

主人公は島から本土へフェリーで通う朱里、衣花、新、源樹という女子二人、男子二人の高校生4人組。

彼らの友情もさることながら、島のおばさん達やおじいさん、おばあさんたちの絆も半端じゃない。

島では男は同じ島の住人の誰かと兄弟の契りを結ぶ。
その契りを結んだ相手がだれかと兄弟の契りを結べば、その人も兄弟になる。
一旦、兄弟の契りを結べば、もう親戚同様。冠婚葬祭のみならず普段から助け合う。

そんな兄弟の風習が描かれているが、兄弟の契りなどなくても皆助け合っていそうなのだ。
子供は皆で育てるもの。
都会どころか地方都市にすらなくなってしまった昔の村社会の良さがそのまま残っている。

もちろん、そんなにいい話ばかりじゃない。村には病院が無い。
急病になった時に霧でも発生してしまえば、本土へ行くフェリーさえ動かない。
本来なら助かる命も助からない。

この物語、そういう島での生活や高校生たちの友情を描くだけでも充分に読みごたえがあるのに、かなり盛りだくさんにいろんな話を詰め込んでいる。

島へのIターン者の女性の中の一人に元オリンピックの銀メダリストが登場する。

彼女はメダルを取った途端に変わってしまう周囲についていけなくなったのだ。

そんな彼女をこの冴島は温かく包み込んでしまう。

その元メダリストの話だけでも一冊の小説が書けてしまいそうな話が織り込まれているかと思えば、Iターン者の積極的な受け入れに関する前向きな取り組みと揉め事、地方活性のコミニティデザイナーとして島にやって来て、1年中島の誰かの家に泊まり込み、なんでそこまで出来るの、と皆に思われ、島の誰からも愛される女性の話。

話題もテーマも盛りだくさんなのだが、一つにだけ絞るならば、月並みなようだが「友情」じゃないだろうか。
祖母の世代の友、母の世代の友情、元メダリストとコミニティデザイナーの友情。
買いかけていたパンを子供連れが買ってしまうのだが、その時に朱里は言う。
「あー良かった。パン買わないで」
「だってあんなに喜んで買って行ったんだもん」

それを聞いた衣花がつぶやく。

「この子が親友で本当に良かった」と。

この一言に集約されている。

島はぼくらと 辻村 深月 著