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名もなき毒


世の中にはいろんな毒があるが、もっともやっかいなには人間の毒。

結構な長編である。

主人公氏は金目当てで結婚したわけではない。
結婚相手がたまたま超巨大コンツェルンの総帥の娘だった。
結婚は当然反対されるだろうと思っていたら、すんなりとOKをもらえ、条件としてその企業の社内報の編集部に配属となる。

その編集部へアルバイトの補充で雇った女性が来るのだが、とんでもない毒女だった。

経歴は詐称しているわ、仕事は出来ないわ、注意すれば逆ギレしてアルバイトだから差別するのか、と怒りだし、怒鳴り出し、泣き出し、しまいには物を投げつける、とんだトラブルメーカーだ。

88倍もの応募があった中で選んだというんだから選考者の人の見る目を疑いたい。
前任者が明るい人で、その人の穴を埋めてもらうんだから、当然書類選考だけで選ぶはずはない。
面接をしてこの人なら、と思わせる何かがあったのだろう。
だとしたら、この毒女、相当に演技がうまかったのか。

編集長に向かって、あんたは人の上に立つ資格がない。無責任で無能だ。などと言い捨てて帰った後に出社しない。
そのまま、おとなしくやめるのかと言うとそんなやわなタマじゃなかった。
しばらく無断欠勤の後に現われたので編集長がクビを通達すると、編集長に向かって据え置き型のごついセロハンテープを投げつけて怪我をさせ、その上に、コンツェルンの総帥である会長宛てに編集部のあることないこと書き連ねた手紙を送りつける。
差別をされた。給与を払わなかった。クビだと脅された、セクハラをされた・・・。

これは物語のほんの序章にすぎない。

この本、シックハウス症候群、住宅地の土壌汚染、青酸カリによる無差別殺人事件、老人介護に悩む青年・・・など盛りだくさんのテーマを綴っているのだが、やはりなんといってもこの毒女の存在が一番強烈だ。

彼女、前職でも無断欠勤を心配して自宅まで来た小出版社の社長をストーカーだと訴え、その会社の信用を失墜させるのに成功している。

もっと前には兄の結婚式でスピーチを求められ、泣きじゃくりながら、兄から幼少の頃から性的虐待を受けていたなどと語り、花嫁を自殺に追い込み、親も兄も仕事を失わせるほどのことをやらかしている。

自分だけ幸せになって行く兄が許せなかったのだそうだ。

嫉妬や妬みだけでこれだけのことを成し遂げられるものだろうか。

そのバイタリティーを仕事に活かすなり前向きな事に活かせば、相当優秀なキャリアウーマンになれただろうに。

いや、結婚式場に居た全員を凍りつかせるほどのその演技力、やはり女優が向いているのか。

こんな極端な例はまず実在しないだろうが、人間、生きていれば多少なりともこれの縮小版みたいな毒を浴びることもあるのだろう。

シックハウスにしろ、土壌汚染にしろ、青酸カリにしろ、ずれも「毒」がキーワードなのだが、人間の持つ毒が一番恐ろしい。

そんなことを無理やり考えさせられるような本なのでした。

名もなき毒 宮部みゆき 著



ルポ資源大陸アフリカ


アパルトヘイトに関しては小学生時代に徹底的に学んだ覚えがある。日教組の先生方が教材に使いたかったからだろうか。
表現に語弊があるかもしれないが、あまりに見事な白人と黒人の区別化。隔離化。
子供が通う学校は別々。
乗り合いバスも別々。
住む場所も座る場所も遊ぶ場所も学ぶ場所も鑑賞する場も全部別々。
海岸(ビーチ)に至っても別々なのだ。
あそこまで徹底すれば、それはそれで一つの秩序というものが生まれるだろう。
アパルトヘイトの制度さえ、無くなれば南アには明るい未来が、と若き日の筆者は本当に考えたのだろうか。

あの制度はいずれ、無くなるだろうとは思ったが、これだけの差別を超越した完璧な分別という秩序は、よほど緩やかな是正でない限り、急な制度廃止は無秩序を生みだすのではないか、という懸念は、誰しもが思い馳せたのではないだろうか。

それにしてもこの筆者は偉いなぁ。

何故?をとことん取材という形で解き明かそうとして行く。

辿りついた結論は、皆が皆、貧乏なら犯罪はおきない、というもの。
方や南アの高度成長の波に乗れた若い世代。
方やアパルトヘイト時代の教育の無い世代は新しい南アの中にあって高度成長の波に乗るどころか、取り残されてしまっている。
このロスト世代の人達による犯罪。
また南アの急成長に取り残されたのはロスト世代ばかりではない。
モザンビーク、スワジランド、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエといった周辺国から流入する労働者達。
国境は賄賂さえ払えば無いも同然。
不法入国などは当たり前。
まともに労働しても大した賃金にならないから手っ取り早く儲けようと、強盗になって行く人が後を絶たない。
また、周辺国の田舎町で美少女コンテストを開き、優秀者は南アでスターに、の言葉に乗せられて集まった少女を軒並み南アへ連れて来て売春宿へ売る男達。

ありとあらゆる犯罪の巣窟を丁寧に犯罪者にまでアポを取って取材する筆者。

中でも一番の悪はナイジェリア人だと聞いてナイジェリアへ足を運ぶ。
そこで見たものは、資源国ならではの悲哀だ。
ナイジェリアは屈指の石油産出国だ。
ならば、国民は働かずとも豊かなのか、というとこれが真逆なのだ。
あろうことか、石油を採掘しているその近隣の村には電気が無い。
漏れる重油によって、川も畑も汚れ、農業も営めない。

そうやって筆者は南アを拠点にモザンビーク、ナイジェリア、そして内戦中のコンゴ、スーダンと取材の足を運ぶ。

コンゴの内戦もすさまじいが、スーダンなどでも国家が民衆を虐殺する。
アメリカの大学で銃乱射があれば、日本の秋葉原で無差別に何人かの人を刺す若者が現われれば、新聞はTOPでそれを扱うが、アフリカのある国で何千という命が虐殺されていても、その扱いの小ささはほとんど報道されていないに等しいと筆者は、日本でのアフリカのウェイトの低さを嘆く。

いずれの国でも、資源というものが元凶になっている。
下手に資源大国だからこそ、外国企業はもしくは外国政府は触手を伸ばして来る。
その外国企業とは一昔前なら欧米の企業なのだろうが、今やあまりにも人権をないがしろにしている、ということで、欧米は手を出さない。
平気で触手を伸ばしてくるのが中国企業だ。

政権は資源を求める国、中国に協力を求め、中国企業に賄賂を要求する。中国企業は資源を独占する見返りとして賄賂という形の軍資金を与える。
それを持って政権は反勢力になる芽を摘むために、反勢力でもない無辜の人民を殺戮していく。

そんな構造をこの筆者は見つかれば殺されるという中、密入国をしてまでして取材に入って行くのだ。

第五章は圧巻だ。
無政府状態のソマリアへ取材へ赴く。

暫定政府が出来たってその大統領は国に入ることすら出来ない。
いたるところで武装軍団が居て、道を通るものから、通行料を強要する。

なんと言っても無政府だ。
信号機の名残りはあっても信号機は点灯しない。

交差点では通常は譲り合いだが、武装勢力が通るときだけは、彼らの優先道路となる。
力あるものが支配する世界。

そんな中ソマリアへ潜入して、筆者は驚く。
通貨は、民間が中央銀行の代わりとなって紙幣を刷っている。
ラジオ局から発信する人がいる。
インターネットカフェもある。通信企業もある。
だが、国はいくつもの武装集団が分割統治というよりも縄張りを持って、闊歩しているという状態。

そんなソマリアの中でもほんの一勢力に過ぎなかった「イスラム法廷会議」イスラム原理主義の勢力が瞬く間に国を勢力圏内に治める。

この「イスラム法廷会議」という勢力。アフガンでのタリバンとかなり似通っていないだろうか。
この急速な勢力拡大。
その勢力拡大とともに、各所で通行料をふんだくるような武装勢力は無くなって行く。いわゆるひとつに秩序が生まれようとしているわけだ。

彼らは親米をとことん嫌うので、親米国からも情報を取り入れ、親米国とも連絡を絶やさないソマリアのジャーナリスト達は彼らを恐れ、嫌悪する。、

アメリカも国連も自ら手を下すことを回避してしまったソマリアに対して、アメリカはエチオピアに代理戦争をさせる。
タリバン勢力を払拭させるのに北部同盟を使ったが如く。
今度は国どうしなので、アメリカは完全に影になっている。

その代理戦争さなかになんとかソマリアに潜入しようとするこの筆者。
すさまじいほどのジャーナリスト魂だ。

だが、この本、終章でのまとめはいかがなものなのだろう。
これだけの取材をした結果の結論が、「格差社会が暴力を生む」なのだろうか。
そんな単純な話ではあるまい。

筆者も反省があったのか、文庫化に向けてのあとがきではそんな単純なものではなかった、と語っている。
但し、論を全て曲げたわけではない。日本の格差社会をみるにつけ、格差の拡大は決して暴力を生んだわけではない。格差社会はインターネット上で繰り広げられる言葉の暴力を生んでいる、と。
やはり、格差社会は暴力を生むという持論は曲げたくないらしい。

明治時代だって大正時代だって今の何千倍もの格差社会だったろうに。

この本のテーマは資源というものが生み出す、途轍もない暴力であったり、反イスラム原理主義に対抗する暴力だったり、秩序の崩壊による暴力だったり、筆者は自らの取材で教えてくれたのではなかったのか。

とはいえ、すごい本であることに違いはない。
アフリカ大陸でも南半分となると、ほとんど日本では知られていないし、報道もそうそうされることはない。
南アのワールドカップのときに南アの事情が報道されたのが唯一か。

インターネットを検索すれば転がり込んでくる情報とはわけが違う。
命がけの取材で得た生の情報ばかりだ。
文庫化によってではあるが、これだけの情報量を詰め込んだ本がたったの830円+税というのはちょっと安すぎるだろう。



終活ファッションショー


就活ではなく終活。
人生の終わる時に向けての事前準備だ。

自分のお葬式をどのようにして欲しいのか。
何を着て棺桶に入りたいのか。
そんなことを遺書にしてしたためたところで、遺書が読まれるのは大抵、お通夜も、お葬式も終わった後。
では口頭で伝えておけばいいか、と言うと、これもまた、「やだぁ、縁起でもないこと言わないでよ」と聞いてもらえない。

ならば、と主人公の30代独身女性の司法書士は企画を考える。
ファッションショーというイベントに遺族となるはずの人達を呼んで、それを見せてしまおう、そんなお話。

就活ファッションショーの準備を進める内に、舞台に上がる人たちは考え、悩む。
どんな衣装で、を悩むわけではない。

これまで自分はどう生きて来たのか。

自分の終わりはあと何年後と仮定するか。

その時に残っている人は誰だと仮定するか。

その時に呼んで欲しい人は誰か。

そのために未来の年表を作り、何年後には○歳で、息子は○歳、家族構成はこう変わっているはず、そして自分はこんなことをしているはず。

一見、死ぬための準備のように話は進みながらも、残りの人生を如何に生きるのか、に命題が変わっている。

『最高の人生の見つけ方』という映画があった。
余命何カ月を宣告された二人の老人が生きている間に、やり残した楽しい事全てをやりつくしてしまおうという話。
あれはいい映画だったなぁ。
あれも如何に生きるかの一つだろうが、ちょっとだけおもむきが違うか。

それよりも寧ろ『エンディングノート』という映画に近いものを感じる。
いかに死を迎えるのか。
残った家族に何を残すのか。
いざ、という時にどうして欲しいのか。
残された者に伝え忘れていることは無いか。
世の中、そんなテーマの話がやけに多くなった気がする。

団塊の世代の方達が定年を迎える年になって来たことと無縁ではないだろう。まぁこれは日本だけのことだが・・。

この作者、巻末にプロフィールが載っているが、現役の司法書士なのだという。
そして、「終活」の普及に務める、と書いてある。

確かに、この本、小説の体裁はとっているが小説を読んだという実感よりも、残りの人生をいかに生きるかを考えよ、と教え諭されている実感の方が強く残る。
そんな本なのでした。

終活ファッションショー 安田 依央著 集英社