読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



花の鎖/境遇


二冊の別々の本なのですが、ひとまとめに書いてみました。

「花の鎖」
三人の女性が主役になって交互に登場するのだが、繋がりがさっぱりわからない。

なんだか、全体のストーリーが全くわけがわからなくなって行くのだが、たぶん繋がるんだろうな、という予感は当然ながらある。

それでも全然繋がっていかないので、途中で投げ出そうかと思ったほどだ。

それがなんとまぁ親子三代に渡って繋がって行くとは。

あとになって考えてみれば、ふしぶしにそんな布石が打ってあったようにも思えるが、まさかだったなぁ。

こういう作りもあるんだなぁ、と感心した。

浅田次郎なら親子三代のそれぞれの若かりし頃を描けば、必ずやその時代ならではの空気を出して来るだろうから、こんな「まさか」にはならないんだろうな。

「境遇」
赤ん坊の頃、同じような境遇の女性が二人登場する。
二人共、赤ん坊の頃に施設に預けられる。
方やは養女として迎え入れられ、何不自由なく成長し、その後代議士の息子と結婚。
親の代議士が亡くなって代議士夫人となる。

方やそのまま施設で育ち、社会へ出、新聞記者となる。

成長してから知り合った二人なのだが、無二の親友同士となる。

二人の願いは本当の親はどこでどうしているのか。
本当の親を知りたい、ということで一致。

代議士夫人の書いた絵本がベストセラーになるところから物語は始まる。

その絵本の思い出は新聞記者をしている友人から聞いたもの。

そのエピソードを読んだ本当の親が現われるのでは?という淡い期待が読者を終盤まで引っ張るのだ。

そう子供を施設に預ける親には親の理由があった。

最後はちょっと話が出来過ぎているわなぁ、と思わなくもない。

なんでも、もうドラマ化されたのだとか。

確かにドラマにするにぴったりの物語かもしれない。

それにしてもまぁ、湊かなえさん、「告白」で衝撃デビューして以来絶好調だなぁ。

昨年の2011年だけでも「花の鎖」に続いてこの「境遇」。

そして出版してすぐにドラマ化か。

ホント。乗りに乗ってますねぇ。

花の鎖 湊 かなえ著 文藝春秋 / 境遇 湊 かなえ 著 双葉社



ヒア・カムズ・ザ・サン


同じような設定で登場人物が若干変わり、同じ登場人物も少しキャラクターが変わっていたりする。

一作目では、編集者に勤める主人公は、幼い頃より感が強く、触れた物からその持ち主の思いが伝わったりでする。
編集者という立場で小説家と向き合うにはかなり有用な能力だろう。

同期入社のカオルの父親が20年ぶりにアメリカから帰国する。
ハリウッド映画の脚本を手掛けた人なのだという。

その人の手紙の書いた手紙に触れた瞬間、主人公氏は衝撃を受ける。

もう一作が、ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel。
パラレルワールドというわけではない。
設定そのものが異なる。

こちらの主人公も同じ名前の人物で同じ様に編集者。
こちらの主人公は、どうやら能動的にみようとしてはじめて触れたものからその物の過去の風景そのものを見ることが出来てしまう。
こちらもカオルという女性が登場するが、こちらは主人公氏の婚約者として登場。

同じようにカオルという女性の父親が同じく20年ぶりにアメリカから帰国するのだが、こちらの父親は一作目の父親と違って、大法螺吹きの男。

・主人公は30歳。編集者。
・物を触るとそれに残された人間の記憶が見える。
・同僚のカオルと共に成田空港へ行く。
・カオルの父が20年ぶりに帰国する。
・父はハリウッド映画の仕事をしている。

そんな設定(具材)を与えたなかで、作家が料理をするという趣向らしいのだが、無理に設定を与えるということは作家の自由な発想転換の機会を逸してしまい。
そんなものの書か方というのはいかがなものなのだろう。

無理やりストーリーをはめて行く中でどうしても無理が出て来てしまう。

一作目にしたって、無茶苦茶優秀、芸術的なほど激烈で・・とはいえ、脚本家という仕事だ。
脚本を書く人間が20年放ったらかしの娘の気持ちを読めないような有り様で優秀な脚本など書けるのか、などと思ってしまう。

寧ろ音楽家だったり、画家だったりという本来の芸術家の方が激烈な個性に当てはまるのではないか。

もう一つは語学の壁。
役者なら、まだ語学の指導も付けられるだろうが、脚本家に語学の指導など有り得ないだろう。
成長期をとうに過ぎて、結婚して、子供までいる年齢になってから、身につけた語学で脚本などという肝が書けるだろうか。
大人になってからのビジネス英語ならなんとかなっても、言葉のやり取りの機微など表現し切れるのだろうか。

この二つの話、文芸雑誌かの一章として書かれているのを、たまたま見つけたとしたら、あぁ、いい話を読ませてもらった、とすごく得した気分になるのだろう。

ところが、「有川浩の単行本」として読むと、もっともっと期待していたのに・・という感はが残ってしまう。
まぁ、いい話ではあるのだが・・・。


ヒア・カムズ・ザ・サン 有川 浩 著 (新潮社)



テロル


イスラエルの病院に勤めるアラブ人の外科医。
ベドウィン族の出でありながらも苦労してイスラエルの国籍を手に入れ、富裕層の暮す一帯に住宅を構え、妻にも何一つ不自由をさせていない。

ある日、勤務先の近所で自爆テロがあり、彼は運びこまれる怪我人に治療を行うのだが、死者数十名。
その大半がファミリーレストランでパーティを開くはずの子供達だった。
そしてその死者の中に彼の妻が居た。
あろうことか、警察は自爆テロを起こしたのは彼女だという。

そうしてこの医者の真実を巡る旅が始まる。

実際にこのテロを起こしたのは彼の妻であることがわかってくるのだが、彼にはどこまで行っても納得出来ない。

この本、方や強制収容所で殺されたユダヤ人達の悲惨な過去を生き延びた老人の口から語らせ、方や民族の国家を失われ、戦車で蹂躙されるパレスチナの人達のからその苦渋を語らせる。

主人公の医者はベドウィン族でありながら、イスラエルに帰化した者として、アラブ側から言えば裏切り者であり、背徳者であり、神を持たない者であり、嫌悪するべき存在。

方やイスラエル側には親しい友人は居るとはいえ、至る所でアラブの犬ころやろう扱い。
まして妻が自爆テロを起こした、ということで自分の家を一歩出れば袋だたきにあう。

ヤスミナ・カドラのもっと後の作品「昼が夜に負うもの」の中に登場する主人公はアルジェリア生まれのアラブ人でありながら、西洋人の行く学校へ行き彼らと親しく育つが、アルジェリア戦争が本格化すると中途半端な立場に立ってしまうのと立場的には若干似通っている。

この主人公医師は怪我人を治す立場としても、何の罪もない子供達を自爆テロで殺していい理由などあるはずがない、と思い続けるが、自らの土地を奪われた側にすれば、彼の妻は聖女となり、彼は自らのアイデンティティを失った憐れな男となる。

訳者は「あとがき」の中で作者はユダヤ側にもイスラム側にも肩入れをせずに淡々と書いている、と言うが、主人公医師が「何故だ」と嘆く中、それを批難する形で徐々にヤスミナ・カドラは、イスラム側へ肩入れしているように思える。

第二次大戦の中で、最も無策中の無策と言われる神風特攻隊。

その無策であるはずの神風方式を受け継いだのが、アラブ系のムジャヒディン達。

この本でも自爆テロのことを「カミカゼ」「カミカゼ」と呼んでいる。

確かにテロの惨劇を起こしたからと言って、土地を奪われた人々にメリットがあるわけではないだろう。

だが、自分から起こした戦争で負けて奪われたのでもなんでもない。
ある日突然、ユダヤがやって来たのだ。
ある日突然、ユダヤに与えられたのだ。
自分達の先祖父祖の地が。
彼らには他人の蔑視や自己嫌悪の中で細々と生き永らえることを良しとしない。
品位か死か、尊厳か死体か。
彼らにはかつて無策であるはずの「カミカゼ」こそが、最も彼らの心情にフィットするものなのかもしれない。

憎しみの連鎖は止まりそうにない。

テロル  ヤスミナ・カドラ/著 藤本優子/訳 早川書房<br />” width=”63″ height=”90″></P></p>
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