月別アーカイブ: 1月 2007



氷点


私の枕もとにはいつも何冊かの未読本が積まれている。
とっとと片付けてしまおうと思うのだが、新しい本を購入するペースの方が早く、以前からずっと積まれたままの本は相変わらず積まれて下に埋もれたまま新刊の方を先に読み始める。

三浦綾子という作家、以前からクリスチャンであるという事は知っていた。
この『氷点』を購入したのもだいぶ以前の事である。
ひょっとして大昔に読んだのではなかったか、と思いつつも何故か本屋の書棚から引っ張り出して購入してそのままだった。

昨年末にこの『氷点』のドラマ化をしたものが放映される、というので録画予約をして、本を読むより先に見てしまった。ドラマを観てやはり昔に読んだものではない事がはっきりした。

録画の時間を間違えたので全ては観られなかったが大筋は理解した。理解してそしてついバカ笑いをしてしまった。

幼い娘が殺害された病院長が、殺害した犯人の娘を養女として引き取り、その養女を育てさせる事で娘が殺害された時に男と逢引をしていた妻への復讐をしようとする。

いずれその事実を知った妻が今度はその養女を苛める。

学芸会の時に一人だけ衣装を揃えてやらなかったり、給食費を渡してやらなかったり。
卒業式の答辞を読むにあたってその答辞の原稿を抜き取ってしまったり・・
いったいどこまでいくんだ!あぁー!って、その滑稽さに笑いまくってしまったのだった。

だからなおさら、本への手は伸びなかったのだが、何かの拍子で本の山が崩れ、現れ出でたるのがこの『氷点』だった。まるで読んでちょうだい、とでも言う様に。

ドラマで大筋を知ってしまっているだけに読むスピードは速かった。

しかし読み始めてみるとどうだろう。ドラマを観た時に感じた滑稽さなどは微塵も無い。
なんともシリアスな話なのである。
このシリアスさを理解するには昭和20年代という時代背景を考慮に入れなければ成り立たないであろう。

近年はもっぱらレトロブーム。昭和の時代は良かった。あの頃は夢があった・・と。
現代日本人が失った何かを持っていた時代。
そしてその何かの中には「恥」という概念も含まれているのだろう。
そしてその何かの中には「寡黙」というものも含まれているのかもしれない。

妻が浮気をしているかもしれないというのにその事を妻に直接尋ねるも出来ないこの啓造という病院長。

この平成の時代にあっては妻が浮気をしようがしまいがどうでも良いと思う夫はざらにいるだろう。
逆に気になる人は夫婦喧嘩をしてでも問い詰めるか。
今を時代背景として考えると啓造というキャラクターは成り立たない。
だからこそ余計に現代人が演じるドラマなどで観てしまうとその行為は滑稽を通り越して異常としか言い様が無い。
いや昭和20年代であったとしても異常である事には違いは無いのだろうが、そういう事を問い詰める事そのものに対する卑しさの様な気分的なものを残していた時代なのかもしれない。
それにしても学生時代からの恩師の教えである「汝の敵を愛せよ」を実践する、という言葉と裏腹に自分の妻を許すどころか一番陰険な復讐方法を考え、それを実践してしまう感覚はどうだろう。

いずれにしろ「恥の美徳」や「寡黙の美」を日本人がまだ持っていた時代は同時に己の美徳からはずれる者に対して陰険で暗い粘着性の様なものも前時代から引き継いでいた時代なのかもしれない。

この本が出版と同時にベストセラーとなったという事実はそういう時代背景の引きずりがあったからではないか、などと思ってしまうのである。

それにしてもこの養女となった陽子の明るさ、強さ、性格の良さはいったいなんなんだ。
小学校に入った頃に隣に座っている子はどんな子?前の子は?後ろの子は?と聞かれる場面があるが、どの子に対してもいいところを見つけて褒める。
人を悪し様に言う事を決してしない。
真実を知った母親からどんな目に合おうと告げ口をしない。
常に明るく明るく振る舞い、逆境を逆境と思わない強さを持っている。
この子こそ、神の子なのでは無いのか。
子供というもの、わがままなのが当たり前な生き物である。
子供の心は清く正直だ、などと言う勘違いを耳にする事があるが、子供だって嫉妬心もあれば嘘もつく。正直だというのはその嘘のつき方が下手だというだけだろう。
陽子はわがままという一般的な子供が持っている特性を持たない。
この養父養母は「血」というものへのこだわりが強いが、子供の育つ後天的要素についてはどうなのだろう。

子は親の背を見て育つと言われるが、給食費をくれない母親に文句を言う代わりに牛乳配達を始めるという発想はまさか「血」ゆえではあるまい。この両親のどこからそんな要素が受け継がれたのか。

幼い頃より父の膝に座る事さえなかった子供がここまで明るく他人に対して優しい性格を持ち得るのか。

今のご時世、親は子供から無視をされるご時世。
子供にとって父親は外で金さえ稼いで来てくれればそれで良く、ウザくて近寄ればオヤジ臭さが移りそうで、近寄るのも話をするのも嫌。
また母親は賄い婦であり、掃除婦であり、買い物に走らされる雑用一切をすれば良い家政婦の様な存在。

少子化のこのご時世の中では子供はこわれものの宝物の様に育てられ、家の中で一番偉そうにしているのが子供。
そんな家も多いのではないだろうか。

有り得ない様なありがたい「神の子」の様な子を授かりながらそれに気が付かない憐れな養父母の姿。

作家が描こうとしたのはクリスチャンならではの「許し」であり、生きている事そのものの「原罪」なのかもしれないが、読む側にしてみればどうしても平成のこの時代の現実を重ねて読んでしまう。

やはり平成のこのご時世に置き換えて考えて見る事そのものが滑稽な行為なのだろう。
なんとも言えない異質な気分が残る。やはり違和感はぬぐえない。

氷点 三浦 綾子 (著)



×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル


アニメが原作でテレビドラマ化、これ結構あるパターン。
原作小説をアニメ化、これも結構あるパターンでしょう。
原作アニメを出版。併行して同じ話を小説の単行本として出版する、というパターンもままあるパターンかもしれません。
この本の場合、原作は「xxx HOLiC」というコミック本です。
原作者はCLAMP CLAMPというのは女性4人の創作集団なのだそうです。

「アヤカシ」が見えてしまう高校生、四月一日(ワタヌキ)君と、どんな願いも叶える代わりにその人から同等の対価を貰う店の女主人壱原侑子(ユウコ)さんが主人公のお話。

四月一日はユウコさんの店で「アヤカシ」が見えない体にしてもらう為にその対価としてユウコさんの元でアルバイトをする。
炊事洗濯掃除の家事その他雑用一切。
特に炊事に関しては専業主婦も顔負け。
家に一人四月一日君が欲しいなぁ、と考えた人は私だけでは無いでしょう。

方やユウコさんは謎めいた雰囲気を持つ美女で
「この世に偶然は無い。あるのは必然だけ」が口ぐせのワガママで気紛れ、そして朝から晩まで酒を飲む大酒豪。
酒のあてやあれが食べたい、これが食べたいと事あるごとに四月一日をこき使う。

それをそのまま小説化するのではなく、同じ舞台、同じキャラクターを引き継いで、別仕立ての小説を起そうという試み。なかなか珍しい試みではないでしょうか。

「×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル」なんと長ったらしいタイトルですね。

それに西尾維新というペンネームも凄まじい勢いを感じますね。
ローマ字で書くと前から読んでも Nisioisin 後ろから読んでも Nisioisin なのだそうです。

本の構成は、第一話アウターホリック、第二話アンダーホリック、第三話アフターホリックの三部作。

一話は完璧に原作を踏襲した類似の物語を一作。

二話は原作を踏襲しているのですが、少し塩味を聞かせている。携帯電話の文章入力を省力化した変換記憶機能を利用した話などは、アニメではちょっと表現しづらいでしょうから。

三話目は前二作とはちょっと違います。違うと言うよりもここが一番この作者の言いたかった事なのかもしれません。

ここでは化町婆娑羅という原作には無いキャラクターが登場します。
化町は自分にも「アヤカシ」が見えると言います。
そして四月一日に何故その才能を活かそうとしないのだ、と詰め寄ります。
ここらあたりから原作の「×××HOLiC」そのものを否定してしまいかねない話に繋がって行くのです。
「アヤカシ」が見えてしまう地獄から逃れるためにユウコさんの店で働く四月一日に対して、
「何故その解決を他人に委ねるのか」
「責任は自分で取るものだ」
「才能は捨てずに使いこなせ」
と詰め寄ります。

また化町は壱原侑子についても痛烈で、
「人間の心の弱さに付け込む、人間の心の弱さを食い物にする怪物だ」
と毒舌します。
「何かを得たら何かを失う。それが正当な対価」についても
「この世に等しいものなど無い」とばっさり。

化町は眼球地球論という自らの説を唱えて四月一日に語りかけます。
・眼に見えるという事は即ち眼球の中にある影が網膜に投影されているという事。
・実際に眼の前に何かがある訳ではなく、眼の中にあるものが見えている。
・「アヤカシ」が見えるという事は眼球の中にある物体が見えている。
・「アヤカシ」は四月一日の眼の中にいるのだと。
つまり今見えている風景はこの世界は眼球の中の風景だと言う理論なのです。
その理論で言えば、眼球のある数だけ、それぞれの世界があり、極論すると眼球はその中に世界を含んでいる、という事になるのだそうです。

逆説めいていますが、確かに網膜に投影された風景を人は見ています。また投影されたものを見て感じる事は人それぞれ千差万別でしょう。
しかしそれはあくまで現実を投影しているのに対する考えであってその眼球の中に世界があるなどと言う発想は聞いた事も無いですが、新鮮で面白いと思います。

四月一日にとっては、眼球地球論よりも化町の指摘したこの「×××HOLiC」の世界即ち
ユウコさんの世界に対する辛らつな指摘はかなり説得力があるものだったのではないでしょうか。

もちろん、四月一日がそれを肯定してしまえば、原作はぶち壊されてしまう事になるので、さすがに原作をノベライゼーションする、という立場からしてそういう結論には持っていけないでしょう。

第一、四月一日はこき使われている、と言いながらも現在のユウコさんとの関係に満足していると多くの読者は思っていると思います。
筆者はCLAMP先生と自ら書いているぐらいですから、原作を否定したり揶揄したりするつもりでは無いでしょう。
100円ショップを「小さな価値の集う店」などと言い換えてしまうあたりは原作の表現の仕方と似通ったものを感じますし。「小さな価値の集う店」っていいですね。今度から私も100円ショップをそう呼ぶ事にしようかな。

ですが、一読者にしてみると、これだけの強烈な指摘を受けてしまった四月一日は今後ユウコさんと同じ関係であり得るのだろうか、浴びせられた言葉が頭に残っていないはずがないのでは?とも思えてしまいます。

いずれにしても視力検査では上下左右の答えしかない「ランドルト環」も見方を変えれば違うものにも見えるのですよ、という事なのでしょう。
タイトルに付されているのもそういう意図かもしれません。

この西尾維新という人、もう一つの人気コミックである「DEATH NOTE」も小説家したそうです。

これはこれから読んでみますが、今度はどんな視点で「DEATH NOTE」を切ってくるのか、と楽しみです。

×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル  西尾 維新 (著)