月別アーカイブ: 2月 2007



DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件


DEATH NOTEのノベライズもので、西尾維新がどんな切り口でDEATH NOTEを切って来るのか、楽しみでした。
この本にはデスノートというノートは出て来ません。
主人公は DEATH NOTE の本編では脇の脇役にすぎなかった美空ナオミ、とL。
内容は、デスノートがこの下界へ現れるより以前に発生した「ロサンゼルスBB連続殺人事件」。
デスノートとは全く関係の無い、Lとワイミーズハウスの物語と言ってもいいでしょう。

キラに関しては
「単なる恐怖政治を敷こうとした殺人鬼」
「馬鹿馬鹿しいほど幼稚極まりない」
と切って捨てただけでまるで相手にしていない。
賢いヤツほど自らの力を隠すのが当たり前なのに、キラはそういう力がある事を公開する自己顕示欲の塊で、ノベライズに値しないほどあわれなヤツと言うわけです。
ほどんど同感ですね。
私こそが新世界の神だ、と言うあたりはもう壊れちゃったのかな、とも思いますよね。
それに、ひっそりと悪人の名前だけ書いていればまだしも、自分を捕まえようとする人間まで殺そうとして、どんどん捜査の輪を自ら狭めてしまうという愚かさ。

また、人が人を殺害する、という事は大変な事なんだ。人はそう簡単に死なない。
それをノートに名前を書くだけで行ってしまうという事がいかにルール違反か・・・。
という記述には殺人に対するルール違反の裏に推理物を書く人間にとってのルール違反、「つまり人が人を殺害するについていかに綿密な計画作りをし、根拠付けをし、どうやったらそんな事が出来るの?というところを最後に種明かしして行く、逆に言えばそれだけ緻密に考え抜いた結果である、というのに、それをたったノートに一行名前を書くだけでというのは書く立場からもルール違反」と作者は言いたいのかもしれません。
実際にこの「ロサンゼルスBB連続殺人事件」は実に緻密な組み立てがなされています。
『クビキリサイクル』という見事な推理もので世に出て来た西尾氏ならではの作品だと思います。

あと、「本当の名前」というものへの問いかけもあったのではないかと考えるのは考えすぎでしょうか。
デスノートへ書く名前は偽名ではいけない。という決まりがありますが、本当の名前とは一体なんなんでしょう。Lはあるときにはエラルド・コイル、ある時にはドヌーヴ、ある時には・・・と探偵の名前を使い分け、それはエル・ローライトという名前よりもよほど名前として通っていた人なのですよね。
本当の名前とはいったい何か。
戸籍上の名前?
つい先日、20歳になるまで戸籍を取得していなかった男が逮捕された。
彼には書かれる名前が無いのか?
また世界には戸籍登録されていない人なども大勢存在するでしょう。
彼らには書かれる名前は無い?
名前とはその名前を聞いてその人を特定出来るもの。秀吉は木下藤吉郎か羽柴秀吉か豊臣秀吉か、どれもその時々で全部正式な彼の名前でしょう。
ではLはどうでしょうか。世界の大半の難事件を片づけたとされるL。
この時点ではLと名乗っている以上、Lが本当の名前では何故いけないのでしょうか。
別にコミック相手に熱くなっているわけではありません。
このノベライズはノートに書いただけで殺人を犯すという手段と同時に「本当の名前」を書くという行為、あたりも併せて指摘したかったのでは?
だからこそ、BBという「名前」というものに拘った殺人事件を描いたのではないでしょうか。
この作品は言うまでも無く推理小説です。しかもかなり緻密な。これを書く事で殺人事件というものはこういう緻密なものなんだよ、というお手本というより挑戦としてのノベライズ、ととらえるのは少々うがった見方でしょうか。
西尾氏自身が『DEATH NOTE』の一ファンだとどこかに書いていたのを記憶していますので、やはりうがちすぎですよね。

最後に死神の目(人を見るだけでその人の本当の名前と死ぬ日が見えてしまう目)を持ったBBには美空ナオミの死ぬ日はいつに見えていたのでしょうね。
言わずもがな、デスノートも死神の目も死神の道具。
デスノートで殺される日が見えていたなんてことがあったとしたら・・・

やめておきましょう。
Self-contradiction の世界に陥ってしまいます。

DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件  西尾 維新 (著)



ひとり日和


芥川賞受賞作なのです。
石原慎太郎氏はじめ芥川賞選考委員の村上龍さんも絶賛。
なんなんですか、それ。
小説家は小説家なりの評価方法っていうのがあるのは良くわかりました。
確かに駅のホームの片隅から描いているその借家の風景だの描き方は見事ですし失点は無いでしょう。
でもいつから芥川賞は減点主義になったのですか?
この小説、失点は無いかもしれませんが、逆に言えばそれまででは無いのでしょうか。
河野多恵子さんの評には唖然!ですね。
よい小説の書き方だとおっしゃる。
あーた方プロから見るよい小説と言うのは失点の無い小説という事なのでしょうか。

正直、この小説を読んで素直に面白いと言った人が居たら驚きですよ。
選者も誰一人このストーリーを面白いとは思わなかったのではないでしょうか。
芥川賞と言うのはこれから育つ人を選考する賞だというのはわかっていますが、そう言う意味ではこの人はもう熟成しているのではないのでしょうか。

なんなんでしょうね。このだらだらとしたストーリー。
主人公に魅力が無い。
手くせも悪い、性格も悪い、こんな女性に感情移入できますか?
主人公に感情移入するどころか、去って行った男達の方に感情移入してしまいますよ。

だいぶ以前にもうそろそろ芥川賞なんてやめてしまえばいいのに、と思った事があります。
正直面白く無い。意味がわからない。それは読んでいるこちらの読力不足なのですか?
でもいくらプロ受けしたところで小説なるもの読者があってのものでしょう。
『限りなく透明に近いブルー』あれはおそらく賛否両論あったのではないでしょうか。
でも私にとっては、あれが芥川賞の最終回だった。
活字メディアが衰退している今日この頃ですから、やめてもらうのは困りますが、河野多恵子さんばりのよい小説の書き方をしている人を選考するぐらいなら、いっその事、賞のタイトルを変えたらいい。
「減点の無い良い小説を書いた人賞」と。
太宰は芥川賞を受賞していない。
おそらくその素行故に。
この青山七恵氏の「ひとり日和」より太宰の作品が劣っていると思う人がいるのでしょうか。
居れば会ってみたい。ウソ。会いたくも話したくも無い。
芥川賞受賞という冠なしにこの「ひとり日和」に出会っていれば別の感想になったかもしれません。
でもそもそも購入してまで読もうとは思っていないか。
という事は出会わなかったでしょう、という事になるのかな。



卒業


重松清続きとなります。
哀愁的東京の評は「なんとももの哀しい」の連発で終っていますが、哀愁的東京はもの哀しいだけの話ではなく、やはり重松さんならではの心優しい視点がある様に思います。
まだ幼稚園のかわいい女の子が父親に遊園地へ連れて来られて楽しい思いをする。
その遊園地へ行ったその日に覚醒剤で錯乱状態になった父親に殺されてしまう。
あまりにも可哀想なその話を取材した後に主人公のルポライターは殺されたあかねちゃんという女の子を主人公に描いた『パパといっしょに』という絵本で賞を取り、絵本作家としてさぁこれから、という状態であるにも関わらず、幸せな事の一つも無かったあかねちゃんを題材にした本で賞を取り、しかも事もあろうにそのタイトルは『パパといっしょに』そのなんとも残酷な事をしてしまった思いがトラウマとなり、『パパといっしょに』以降、一切新作の絵本が描けなくなってしまう。
それはもの哀しい反面、人の不幸を書いてその文章を切り売りするルポライターにしてはあまりにも繊細で優しさを持った主人公が浮かびあがります。ですから主人公はフリーのルポライターでは無くやはり絵本の描けなくなった絵本作家が正しいのでしょう。
重松さんの書いているものの底流にはいつもこの優しさがあると思うのです。

『卒業』重松さんらしい四編がおさめられています。
「まゆみのマーチ」、「あおげば尊し」、「卒業」、「追伸」

「あおげば尊し」
ガンに冒され、長くて2ヶ月と宣告された父の最期を自宅で看取る事にし、病院から自宅へ連れて帰るところから始まります。
父は元高校教師。主人公は小学校の現役の教師。
父は厳しくて冷たい教師だった。生徒に好かれたいなどとはこれぽっちも思わず、素行に問題のある生徒は容赦無く切り捨てる。従って卒業生からは顧みられず、同窓会の案内も来ない。教え子の結婚式に呼ばれた事も教え子が家を訪ねて来る事も無く、年賀状すら教え子からは一枚も来ない。38年間教師をしていながら見舞いに来る教え子はもちろんゼロ。それでも自分ほど「あおげば尊し」を歌われるに相応しいと思っている父。
方や主人公も教員生活18年。火葬場へ出入りし、死体に興味があると言う生徒から「何故死体に興味を持ってはいけないのか」の問いに対して返す言葉を持っていない。
「あおげば尊し」を歌われる事に自分は相応しくないと思っている。
話す事も満足に出来ないが最期まで先生であろうとする父と死体に興味がある生徒との出会いを描く。

「卒業」
学生時代の親友の娘が突然職場に訪ねて来る。
親友はその娘がまだ妻のお腹にいる時に、突然飛び降り自殺をした。
なんとも身勝手で無責任な人だった訳ですが、成長してその事実を知らされた娘が父の友人訪ねて来て、なんでもいいから父の事(いや、父親になる前に自殺をしたのだから正確に言えば父親では無い)その人の事を教えて欲しいと。
主人公は学生時代の記憶を辿り、毎日その子の作ったサイトの掲示板へ思い出を書いて行くのですが、親友と言っても20年前の話。2週間も書けばもうネタは尽きてしまう。
『哀愁的東京』の中の「ボウ」という短編にも出てくる話ですが、大学時代の同級生が久しぶりに面会を求めて来たかと思うと「学生時代の自分の事を思い出す限りしゃべってくれ」と言われ、思い出す限りにしゃべってみても5分もすればもうネタが尽きてしまう。こちらは親友という訳では無いのですが・・。
実際にどうでしょう。学生時代、社会人になってからでも構わない。「親友」と呼べる人の事をいざ思い出して書いてみろ、と言われたら果たしてどれだけの事が書けるでしょうか。
2週間もよく書けたという方があたっているのではないでしょうか。
この物語は、苛め、自殺、リストラ・・などなどの重たい課題を背負っている話なのですが、ここでは敢えてそういう重たい課題から焦点をぼかして書く事にしました。

どうも長編でない本の感想というのは物語そのものの紹介になってしまいがちでいけませんね。
「まゆみのマーチ」と「追伸」については内容の紹介はやめにしておきましょう。
この四編の中で私個人として好きなのがこの二編。
特に「まゆみのマーチ」がピカ一ですね。
親の限りない愛情の表現にはいろいろな姿があるものです。
まゆみのマーチの母親はわかっていながらすっとぼけるのが得意な人なんでしょうね。
歌の大好きな娘に、所構わず歌ってしまう娘に対する周囲の苛立ちなどどこ吹く風。ひたすら愛しつづける。
成長しても一箇所に落ち着く事が出来ず、いわゆる世間一般で言うところのはみ出した娘も性根がはみ出しているわけでもなんでも無く、この母娘を理解してしまうと、一般の「普通」という概念がゆらいで来そうです。
主人公(優等生だった兄)が学校へ行けなくなった子供に対して取った行動は決して無茶なものでも何でも無く、ごく普通のもの分かりの良い父親の行動だったでしょう。
ですが、母の死を前にして妹が学校へ行けなくなった時の母親の行動を妹から聞いて、優等生だった兄も読者も「目から鱗」状態では無かったでしょうか。
母の行動はまさしく「まゆみのマーチ」そのものなのです。

ここには余分な事かもしれませんが、2/10のサンケイ新聞の夕刊に重松さんの小編が載っていましたので、それも簡単に紹介しておきます。

『季節風 バレンタイン・デビュー』
21歳になるまでバレンタインデーで義理チョコを含めて一つもチョコレートを受け取った事の無い父親が、高校生になる息子のバレンタインデーをまるで落第確実の受験の発表日の様に扱い、妻や娘にとにかく「その話」をしないように、と厳命し、やきもきしながらその息子の帰りを待つ、という微笑ましい話です。

いいですね。こういう軽いタッチ。
重松さんの作品にはイジメ、自殺、殺人、離婚、哀しさ、はかなさ、トラウマ、人の死、・・・などなどがこれでもか、と散りばめられていますから、そういうものの一切無いこの話、新鮮でしたし、読後ににっこりとする事が出来ました。

卒業  重松 清 (著)