黄落


59歳からまもなく還暦を迎えようという主人公。
その父母は各々93歳、88歳にて健在であるが、当然のことながら、老いはやって来る。
この本を「壮絶な物語」などというすっとぼけた表現で取り上げている書評を目にしたが、何が壮絶なものか。
これこそが現代日本の縮図であり、近いうちにほとんどの日本人が体験する道のりだというのに。

それにしてもこの主人公は作家という職業柄、自宅に居ることも多く、比較的自由に時間を使える。
世間一般の男達にはこんなまめに親の面倒など見れるものではない。

それでもまだ足りないと自身で思っているところが驚きである。
妻に親の面倒を見てもらうほど心苦しいものは無い、その意識が尚のこと、彼にそう思わせるのだろう。

息子が親の面倒を見る、という一昔であれば当たり前だったことも、それを真っ正直に現実のものとして取り組んでしまえば、息子の家は崩壊の一途を辿る。

なんと言っても息子は外で仕事をして稼がなければならない。

そのしわ寄せは必ず妻に行き、妻は一家の家事と親の介護で疲れ果て、それだけならまだしも、老人は時にわがままで強欲であったりする。
「感謝されない」などということでもあろうものなら、「なんでそこまでして私が!」と怒り狂うのは自明のこと。

ならば俺が世話をするから、と仕事を辞めてしまっては収入が絶たれ、いずれにしても崩壊の道へまっしぐら。

介護施設の完備された有料老人ホームにて面倒を見てもらうことで、親を捨てたなどと陰口をたたくご時世ではないだろうし、そんな声を無視してでも自らの家庭を維持する方を優先するしかないのではないか。

確かに赤の他人様に親の面倒をみて頂くこと、お金を支払っていたとしても心苦しいことこの上ないに違いない。
それでもそんなことよりむ寧ろ自らが生きることを最優先すべきなのだろう。

有料ホームに入れられる人は、そんなことを気にするよりも自らにそれだけの資金的ゆとりがあったことに対して感謝すべきなのだろう。

完全介護の有料ホームだって、なかなか預けっぱなしというわけにはいかない。
週に一度やそこらは見に行かなければ、ならないものだという。

以前、ニュースの特集のような番組で、そういう介護施設で働く、若いヘルパーの女性たちの仕事ぶりを映していた。
テレビは非常に献身的に働く彼女らの仕事ぶりを放映した後に、スタジオ生出演してもらったヘルパーさんたちに直接インタビューを行う場面があった。
「ご自身が老人になった時にはどんな介護を求めますか?」の質問に
若い方のヘルパーさんは思わず答えてしまった。
「私が歳を取ったら、介護される状態になる前に死にたいですね」

番組としては
「私が歳を取った時にこんな介護をしてもらって良かったという介護をしたいと思います」的な回答を段取っていたのではないだろうか。
そうそうにインタビューを打ち切ってしまわれてしまった。

そんな一例を持って、介護の現場を語る気はもうとうないが、
「介護される状態になる前に」というのは若いもの誰しもの考えなのではないだろうか。
そういう意味ではこの小説の中に登場する母の生き様、いや死に様は、未読の方のために詳細は書かないが、新たな可能性を与えてくれたような気がする。

完全介護のホームではなかなか同じように出来ないかもしれない。
その手前での判断が必要なので、なまなかな人には出来ないことだろう。

黄落 佐江衆一 著 (新潮社)