月別アーカイブ: 9月 2009



RANK 真藤順丈 著


近未来小説。
2019年の近未来社会。
2010年に都道府県が廃止され、道州制が施行される。

その州の一つである関東州が物語の舞台。
道州制と言えば、もちろんその議論ははるか前からあったのだが2008年頃がその議論のピークだったのではないだろうか。
2009年秋、民主党政権になって原口総務大臣は真っ先に国の出先機関の廃止を宣言し、地方分権への方向性を打ち出した。

2009年5月が初版のこの本はその時流をまさに的確に掴んだ近未来小説なのだろうか。

道州制、地方分権をシュミレーションするという冒険的な一面もあるのだろうか、と要らぬ期待を抱いてしまったが、道州制だからどう・・という類の小説ではない。
今一、道州制を設定に入れてみたその目的が良くわからなかったのであるが、さような事はこの小説の中では些事でしかないだろう。

関東州は日本の首都東京の一極集中の後衛として人口集中。
企業の本社機能を抱え、あらゆる産業分野で世界の最高水準を維持する。
かつての東京、埼玉、千葉、神奈川、山梨が含まれる関東州、という説明書きがあるが、茨城県は何州に?って、どう括ったって茨城は関東以外の何者でもないだろうから、説明書きから省かれただけだろう。では群馬、栃木は?やっぱり省かれただけだろうが、案外東北の南部ってことで関東からはずされてたりして・・。

それはさておき、関東州の人口が1億2千万人。
それって今の日本の人口とほぼニアリーではないですか。

日本人は全部関東に集中したかと言うとそれでも日本人口の6割が関東州へ集中したとあるので、わずか数年で日本の総人口2億人に跳ね上がったと言うことになるんでしょうね。

民主党の子育て支援政策、恐るべし。
まぁそんな冗談はさておき、人・モノ・金・機能が集中する反面、犯罪も劇的に増加する。
その犯罪抑止と生産性向上に寄与するのが至る所に備え付けられた監視カメラ。

所謂監視社会というやつである。

監視カメラは犯罪抑止のためのみならず、全住民の行動を監視し、その監視結果から人々を評価し、順位(ランク)を査定する。
その順位の圏外になった人間を特別執行官と呼ばれる人たちを処分する。
”会議資料をコピーミスした”それだけでも順位が落ちる。
”ボランティアでゴミ回収をした”→順位UP。
順位がダウンしてくると仕事をせずに鳩に餌をやっていた行為が続いただけでも圏外=ランク外に落ちて、執行官に処分されてしまう。

江戸時代でも士・農・工・商の下に「えた」を作り、その最下層の人が優越感を持てるように更なるランク外の非人を作ったと言われる。
非人は所謂犯罪者なので、他のランクの人たちのように代々の身分では無く、ほとんどが一代限り。なので最下層になったとしても自業自得なので仕方がない、と諦められる。 なんともまぁ非常に良く出来た制度(システム)だったと言われる。

ここで言う圏外の人々は言わば江戸時代の非人と言ったところか。
非人は生きていてこそ、その上の最下層の人が優越感を持てるのであって、処分してしまえば、非人ではなく、死人になってしまっては意味がない。

それにしても24時間監視されて、一つ一つの行為を判断されて順位をその都度決められてしまうシステムとはどんなものなのか。
これまでにも監視社会を描いた本をいくつか知っているが、その行動一つ一つで一々ランクの上げ下げをするなんていうのは無かったのではないだろうか。
1億人の一つ一つの行動を監視するなど到底人間に出来る技ではないので、カメラから取り込んだ画像からプログラムが機械的に判断せざるを得ないんだろうな。
一体どんなシステムになるのだろう。
相当な事例画像、事象画像をマスターとして取り込んでいたって、至る所不完全な、もしくはバグだらけのシステムになるんだろうな。などとついつい考えてしまう。
ゴミをポイ捨てした行為と落ちていたゴミを拾ってゴミ箱へ捨てようとしたが誤ってそのゴミを落としてしまった行為。これをシステムは画像からどう識別して処理してしまうのだろう。

そして監視社会やら報道規制やら、と言ったってそんな新ルールを振りかざしているのは関東州だけ。
他の州と言ったって車や電車で移動に1時間もかからない。
関東州の中だけのランク付けなので、他の州では取り締りようも無ければ、取り締まる必要も無い。
ランク落ちの積み重ねは、他の州では軽犯罪にすら該当しないケースが多々あろうから。

近未来SF小説。だから荒唐無稽だって、現実味がなくたってSFとして面白ければ確かにOKだろう。

ただ。この近未来。
あまりにも近すぎて・・・。日本の行政のあり方を変えるのにどれだけの時間と忍耐が必要なのか。

道州制もしかることながら、国民総背番号にしたってずっと反対し続ける国民が、あまりに容易く総ランク付け制度を容認してしまう。

1万歩譲って総ランク付け制度が容認されたとしたって、そんな数年でどれだけの人の行為が初期データとして蓄積出来るか。

生まれてからずっとその制度で生きて来た人が8、9割になる頃でなければまだまだデータ蓄積期間で実運用にまで至らないだろう。

直近の近未来を描いたと言えば、村上龍の描いた『半島を出でよ』がそうだろう。
年代だけで言えば、あまりにも近未来過ぎるし、物語の一部は今現在では既に過去になってしまっているかもしれないが、それでも彼の話は物語の年代が既に過去だろうが、いっこうに構わないのだ。
この日本の姿、形が変わらぬ限りはあの物語の中の危機は常に現在進行形の話であり、日本の政権が変わろうが変らない。否、寧ろ、今のあやふやな連立政権下の方がもっと危うい。
設定年代は2011年だろうが、2009年だろうが、2006年だろうと構わない。
設定年代が近い方が現実味があるし、出版後過去の年代になろうと構わない。
まさに明日、いや今日、北が福岡へ上陸したって日本はこの物語をかなりの部分でなぞってしまうだろう、ということは龍氏の中では起こるべくして起こり得た事実をなぞらえたに等しい。
また彼の読者の大半はその意識を共有したのだと思う。

現実味が少々薄かろうが構わないのだが、ある一面のリアリティの裏打ちがあってこそ、SFというもの深みを増すものだと思う。

とにかく突っ込みどころは満載なのだが、SFは突っ込みを入れる読み物ではない。

酷評したように思われるかもしれないが、とんでもない。これだけあげつらえるほどに、楽しく読ませてもらったということなのだ。
とにかくその先はどうなるんだ?最後はどんな終わり方をするんだ?この本は?と、何が何でも最後までページをめくりたくなるような本なのですよ。

ただ、少し書き足りないところがあるとすれば、もう少し他の州のあり方や関東州の上の存在である国家のあり方にもふれて欲しかったという欲求は残る。

RANK 真藤順丈著 第三回ポプラ社小説大賞特別賞受賞作



傷はぜったい消毒するな 生態系としての皮膚の科学


何かの比喩なのかと思ってしまうようなタイトル。
しかしながら比喩でもなんでもない。
まさにタイトル通り。
傷はぜったい消毒するな!について述べられている。

世間での一般的に常識と思われていることが実は大きな誤解だった間違いだった。
世の中まだまだそんなことが溢れているのかもしれない。

消毒は傷口に熱湯をかけるような行為だという。
乾燥させて早くかさぶたを作ることが傷を直す早道だと考えられていたが、筆者は細菌とは共存するものであり、かさぶたはミイラである、と切って捨てる。
乾燥させないことで、痛まず、早く、きれいに治るのだという。
傷口のジュクジュクこそ傷を治す最強の武器なのだ、と。

今の医学会に傷治療ややけど治療の専門家は実はいない。
先輩医のもしくはベテラン看護師のやって来たことを見習って来ただけで、誰もそのやり方に疑問を唱えなかっただけなのだ、と。

「湿潤療法」という言葉を最近耳にすることが多くなったが、医学会ではまだまだこの筆者の治療法が認められていない。
反対を唱える医者は筆者のように自らの皮膚で実験を行ってみるべきなのだろう。

筆者は自らの身体に傷を作り、その部位を分けて従来の治療法と自身の治療法の結果の違いを証明して写真して見せている。

そして過去の常識を覆す難しさを天動説と地動説を例に引いてまでして説明している。

それだけの抵抗と闘って来た、ということなのだろうか。消毒薬に関しては、薬品名まで掲げられているので、薬品会社には困った存在なのかもしれない。

また、筆者の矛先は化粧品にも及ぶ。

化粧をする女性の皮膚は老化現象著しい、と。

化粧品の界面活性剤がその原因なのだという。

多くの女性は一日の大半をその肌を界面活性剤に覆われている。

そして、化粧を落としてさらに老化した肌を見る都度、またまた肌を若返らせるという謳い文句の化粧品を買い求める。

化粧品業界にしてみれば、「カモがネギを背負って鍋に勝手に飛び込み、おまけに自分でコンロに火を点けるようなものだ」という比喩はおもしろい。

だが、筆者がいくら化粧品の害唱えても、いまさら化粧品がこの世からなくなるとは思えない。
顔を化粧品で塗りたくるのが身だしなみだ、という常識に溢れているからばかりではなく、いまさら、すっぴんの顔など人前に出せるか、という人があまりにも多いだろうから。

筆者に言わせれば化粧品ばかりかシャンプーもよろしくないのだそうだ。
シャンプーを使わずに頭を洗う。
正鵠としてもなかなか広まりそうにない。

筆者はこれまでの常識と思われていたものが常識でなくなるまでの経緯をパラダイムフトという言葉を使って説明している。

読み手としては今問題の温暖化対策はどうなのか?これは筆者の専門外か。

ならば、この春から話題のインフルエンザの対策はどうなのだろう。
ふれていないか、と期待したが、この本の初版は今年の6月、原稿はもっとだいぶ前に書き上がっているだろうから、今年の春以降からのインフルエンザ対策には間に合わなかったか。

外から帰ったら必ずすることとして
・うがいをすること。
・手を石鹸で洗う。
・手を洗った後に水分拭き取り、消毒薬を塗る。

などは、家庭で出来るインフルエンザ対策としてはあまりに一般的である。

「うがい」とは口の中を消毒することだし、手に消毒液を塗ることも著者の提唱する「消毒するな」から言えば、「よろしくないこと」なのかもしれない。

著者は本書のなかでも「手の洗いすぎに注意」を章立てにして述べている。

確かに日本人は少々潔癖にすぎるところがある。いや、そういう人が多くいる。と言った方が妥当か。

電車の吊り革を素手で持つ事を嫌う人や、インフルエンザが流行らなくとも、何かにつけこま目に手を洗う人も結構いる。

いや、そういう行為こそが、身体に悪いんですよ!と著者なら言うかもしれない。

いずれにしろ、目からうろこが落ちるような、とはこの本の読後のようなことを言うのだろう。

傷はぜったい消毒するな 生態系としての皮膚の科学 (光文社新書)



立ち向かう者たち


ショート・ストーリーが八篇。

「立ち向かう者たち」
知能障害のある男の裁判の風景が舞台である。

容疑は女子高校生の背中から火の付いたタバコをポイっと入れた事。
被告はその前にもエスカレーターの前に居た女子高生の足をカッターで傷つけるという事件を起しており、今回の事件はその執行猶予中のこと。

被害者の父である主人公は裁判所に呼び出される前から、そんな大したことなのか、という思いがありながらも妻と娘の前では言い出せず、証言台でもそういう場面での台本どおり、
「娘のショックなどを目の当たりにすると・・・・
       ・・・・・厳正なるお裁きをお願いしたい」
などという言葉が自然に出てしまう。

そして、自分の語った言葉に「本当か?」「本当に自分はそんなことを考えていたのか」と自問する。

主人公はこの裁判を通して、容疑者と自分を重ねてしまう。
五十前まで生きて来て、ものわかりが良く、腰が低く、怒りがないわけではないが、怒る前に「怒ってもはじまらない」という諦めることが身に付いてしまっている自分を自覚している。

被告は永年勤めた家具工場は倒産し、障害者センターの掃除の仕事をわずか月給800円で行っている。時給でも日給でもなく、月給が800円。バングラディシュだってそこまで賃金が低いことはないだろう。

被告は何故そこに自分が居るのかさえ明確には理解していないのだろう。
全て人からこう言え、ああ言え、と言われたことを自分なりに理解したつもりで応えている。

このストーリーのタイトルが何故「立ち向かう者たち」なのか、読者はなかなか理解に苦しむところだろう。

その答えは「相手が若い女性でなく、男性だったらそれは悪いことだと思っていますか?」に対する被告の応えに表れる。

被告は、不公正な世の中で、存在を全て自分で引き受け、他人のせいにするでもなく、ただ淡々と自分なりのやり方で、過酷な世界に立ち向かっている・・・。とそう思える主人公は真摯な生き方をして来た人のように思えてならない。
またそれを著す作者も。

何より「生物兵器ってライオン?」と聞く弟を楽しいヤツと思えるこの被告の兄とその家族はつくづく包容力の大きさに人たちなのだろうなぁ。

他の七篇ふれてみようと思ったが、これ以上書くとあまりにも長文になってしまうのでこのあたりで筆をおきます。

立ち向かう者たち 東 直己 著