月別アーカイブ: 11月 2009



絶望ノート


思ったよりかなり読み応えのある本だったのに驚いた。
冒頭から読み始めた時には、うーん、中学生のいじめに関する日記を延々と読むことになるのだろうか。などと嘆息してしまったのにも関わらず。

本の半分以上は中学生の日記、都度都度でその周辺の人たちが語り部になっている。

その半分に及ぶ中学生(主人公)の日記だけでも充分読み応えがあるのだ。
中学生の日記というにはあまりにも饒舌で表現豊かで、ってそれだけでもぐいぐいと引っ張られる。
ストーリーの合い間に書かれている世の中に対する批判めいた文章もなかなかに切れ味が鋭い。ビールの消費量を東京ドームの何杯と表現するメディアについて何杯分と言われたって実感が無いじゃないかと。それを不思議に思わない連中も無自覚だと。
そりゃそうだ。

ジョン・レノンと誕生日が同じで育った境遇が似ていて、ジョン・レノンをそのままCOPYしたような生き方をしようとする父。
母の名は瑶子。そして息子である主人公の名はなんと照音(ショーン)。
苗字が太刀川なので、あだ名はタチション。

バンドとして成功しなかった父は音楽の才能ばかりか、こつこつと働くという才能も無かった。
だから、仕事を辞めてまたまたジョン・レノンを真似てハウス・ハズバンドとなっている。従って父の収入は0。そこはあくまでもCOPYであってジョン・レノンではないから。
おかげで一家は貧しい。

照音の家にはゲーム機も無ければパソコンも無い。携帯も無い。照音は同級生から執拗ないじめを受ける。
なんかよくありそうな話だ。

方や「夢を持て」と言いつつ、将来なりたいものが小説家なら、もっと現実を見ろ、という教師。何の期待も持てない教師。これもよくありそうな話だ。

そのよくありそうな話がよくありそうでない話にどんどん展開して行く。

照音は、石を拾って来て、自ら作り出したオイネギプトという神が宿っているものとしてひたすら祈る。

その神である石がこの本の表紙に使われている石なのだろう。

絶望ノートとはいじめられている中学生の日記なのだが、ある意味デス・ノートの様な側面を持っているのだ。
それ以上突っ込むとネタバレになってしまう。

教訓その一。
言葉で言い表すよりも文章、しかも隠れて書いている日記という文章には説得力がある。
本当かなぁ。日記ってそんなに信憑性のあるものなのかなぁ、などと思ってはいけない。
いじめをひたすら隠す子の日記には真実があるものなのだ、あるものなのかもしれない。
いけない。いけない。
この本をネタバレ無しで紹介するのは非常に難しい。

教訓その二。
「中学生はこわい」
ぐらいの言葉でしめさせてもらおう。

絶望ノート 歌野 晶午 著



筆に限りなし - 城山三郎伝


この本を見つけた時、もう伝記が出てしまっているのか。
亡くなった報道を聞いたのはほんのつい先日のような気がしていたのだが・・。
と思ったのが実感。

城山三郎さんには、もちろん本を通してであるがずいぶんお世話になった気がする。

『百戦百勝』では山種証券の創業者が描かれ米相場のことや、仕手戦のことなどこれまで知らなかった世界を教えて頂いた。
『雄気堂々』では渋沢栄一の志というものを教えて頂いた。
今や世の中デフレの時代。あちらこちらの業界で価格破壊が起きつつあるが、安売りの先駆であるダイエーの中内社長の行動力を描いた『価格破壊』。
『落日燃ゆ』ではそれまで知りもしなかった広田弘毅という文官では唯一A級戦犯となった人の潔い生き方を教えて頂き、
『風雲に乗る』ではモデルは日本信販の創業者だと思われる人が日本で初めて「月賦販売」という販売方法を行ったチャレンジ精神が描かれ・・・。

などと書いていくと切りがないほどに昭和史、もしくは昭和の経済史を教えて頂いたような気持ちがある。

これは昭和ではないが、圧巻はやはり『鼠』。
米騒動の発端の米の価格暴騰の最大の悪役とされ、焼き討ちにあった「鈴木商店」を大正時代の当時を知る生き残りの証人を見つけだして徹底的に調べ直し、「鈴木商店」の潔白を小説の中で証明してしまう。
これなどは歴史をひっくり返した作品と言っても良いのではないだろうか。

そんな城山三郎さんの生き様を、「城山三郎」と名乗る前の杉浦英一の時代から描いているのがこの「筆に限りなし」である。

城山氏が十代の若かりし頃、軍国少年であった事は折に触れ、本人が発言していた。
そのご自身の体験は『大義の末』を読むことで、戦前・戦後の正反対になってしまう価値観、またそこでうまく世渡りをして行く人間への軽蔑、憤り、というものを描いたことで、一読者としては一段落したものとばかり思っていたが、この伝記を読む限りそうでは無い。
城山氏は生涯を通じて「大義」を信じた時代と、「大義」を信じた自分と格闘していた。

また『輸出』に始まり『神武崩れ』、『生命なき街』、『大義の末』、『総会屋錦城』、『辛酸』、『乗取り』・・・などとそうそうたる作品を仕上げながらも、大学で教鞭をとることとの二束の草鞋を履き続けてまだ作家だけで飯を食うことには不安を持っていたなどと、後年の城山氏の読者にはにわかに信じがたい事が書かれている。

経済小説というものを書く事で文壇からは異端と言われ、足軽作家と言われた城山氏の心情を読者は知らない。

この作者、伝記といいながら城山氏をべた褒めしている訳ではない。
『落日燃ゆ』などは主人公に傾注しすぎであるとか、あの金解禁政策に賭けた名宰相浜口雄幸を描いた『男子の本懐』をして、踏み込みが足りない、執筆の熱気が薄まっている、とかなり手厳しい。

明治以前の日本の歴史は司馬遼太郎を師と思い、大正・昭和の歴史の師を城山三郎と思っている一読者にしてみれば、『男子の本懐』を貶されたのみならず、司馬遼太郎の作品が無自覚で、上から見下ろした俯瞰した視点で書いている、と切られる記述があるのはいささかショックであるが、やはりやむを得ないのではないか、と一読者としては思うのである。

真田幸村を主人公に描く人が徳川家康より真田幸村を魅力的に描くのは当たり前であり、広田弘毅を描く人が吉田茂より広田弘毅を魅力的に描くのは当たり前。

司馬遼太郎作品などは明らかに主人公が魅力的に書かれていることを承知の上で司馬遼太郎を読んでいる。

いずれにしろ、中には手厳しくもあるが、城山氏が如何に勤勉に自分の足を使った人であるか、自らの立脚点であった「大義」との決別を生涯風化させることなく持続させた人であるかを、この作者はあまりにも早い伝記にて教えてくれるのである。

城山三郎伝 筆に限りなし 加藤 仁 著



狼と香辛料


特定の場所に店を構えず、商品を持ち歩いて売り買いをし、さやを稼ぐ。
ここで登場する主人公も北から南へ西から東へ塩を運び、麦を持ち帰る、というような行商人である。
麦を仕入れに行ったとある村で、麦の豊作を司る神の化身である狼を祭ったお祭りに出くわし、その帰りになんと「麦の豊作を司る神」の化身である狼のさらなる化身である少女が旅の道連れとなる。

この物語、冒頭より麦の先物買いだとか、先物だの為替だのという用語が出て来る。

為替取引の起源に近いようなやり取りまで出て来る。
ある町の商会で塩を買った時にそこでは金は払わない。何故なら別の町で同じ商会の支店に同額の麦を売っていたからだと言う。
これが為替取引なのだというくだりがあって、しばし考えてしまった。
しかも南の商業国で発明された画期的なシステムだという。

いわゆる物々交換としての為替取引、物々交換としての取引は貨幣というものが生まれる前のものではなかったのか。
しかしながらこの物語の時代には既に貨幣は存在している。
ある町と別の町での流通貨幣が異なるため、その為替損益をリスクヘッジするための実物取引なのだろうか。
もしそうでないとしたら、その取引の目的は何なのだろうか。
別の町で同じ商会の支店に同額の麦を売ったのなら現金決済をしてもらった方が行商人という明日をも知れぬ立場なら有り難かったのではないのだろうか。
麦を売った際に当然、証書的なものを受け取るだろう。それが99%信用出来るものだとしても、別の支店でちゃんと塩が用意されているかどうかのリスクを負う。
塩ならまだ天候に左右される要素は少ないが、それが逆ならどうなのか。
塩を売った金を受け取らず、麦を受け取る権利を得る。別の町で麦は天候不順で不作かもしれない。
それでも受け取る権利がある以上、不作なら高値の麦を受け取れるという仕組みなのだろうか。
不作なら安値の麦を受け取らざるを得ない。
何やら行商人という立場の方が商会側よりはるかにリスクも高いように思えてしまうのだが・・。
リスクが高い分、現金決済よりも取引を優遇してもらえる仕組みなのだろうか。

日本でも貨幣経済が確立した後であっても武士がもらえるはずの何百石=つまり米なのだが、その米を実際に受け取らなくても受け取るはずの証書=つまりその当時でいう為替を持って他の商品購入にあてるという形式はあったはずだが、これなどは証書=紙幣と同じことなので同じ理屈は当て嵌まらない。

では、なんだろう。
現金決済をしないことのメリットはせいぜい多額の現金を持って夜盗などに襲われて奪われるリスクをヘッジしたもの、ぐらいしか行商人の立場からは思いつかない。

おそらく読み手のこちらがちゃんとシステムを理解していないからなのだろう。

話の中ではなんで?という疑問への解答は書いていないが、作者にしてみればそんなことは書くまでもない常識だろ、ということなのか。
いや、ストーリーの本筋とは違うから、深く突っ込んでくれていないということなのだろう。
本筋のストーリーが気に入らないわけではないのだが、そういうところがクリアにならないとなかなか、ストーリーにすら入っていけない読者というものも困ったもんだ。

この物語、ライトノベルというジャンルでありながら、いや、そんなジャンル分けに意味があるとは思えないのだが、商談にあたっての真偽について、真であれば儲ければ良く、偽であれば、注意深くその裏をかけば大抵は儲け話になる・・などというやり取りなど、この作家、商社にでもいたのではないか、などと思えてしまう。

商会との商談での駆け引きなどはなかなか読みごたえがある。

はたまた、このストーリーには貨幣の投機というものが根底にある。

貨幣の信用度という言葉も度々登場する。

国の貨幣の流通は即ち国と国との戦争に匹敵する。その国の貨幣に席巻されること、即ち経済的には属国となるに等しいとまで触れている。
ドルの信用が落ち、ドル決済が減る。これまでは元などで決済することは考えられなかったものが、中国元での決済が今や急激に伸びているという。
この移り変わりをまさか触れているわけではないだろうが、なかなかにして正鵠を得ている類の会話が散見されるのである。

ストーリーの本筋にはふれずにおくが、この物語、本何やら電撃大賞とかいうライトノベルの小説の銀賞を受賞した作品なのだとか。

ジャンル分けには興味が無いと書きながらも思うのである。
ライトノベルと言われるジャンルものは何故か無くてもいいイラストがついており、だからライトノベルなんだよ、と言われるかもしれないが、何故かちゃんと一巻で綺麗に完結出来てしまえるものを続き物にする傾向がある様に思える。

この物語も綺麗に完結出来たであろうに、どうも続き物になっているらしい。

だからライトノベルなんだよ、とまたまた言われてしまいそうだが、そういうところがなんだかなぁ。