月別アーカイブ: 2月 2010



IN 


あの『OUT』を書いた同じ作家が今度は『IN』。
どれだけ期待したことだろう。

『OUT』とは主婦たちによるバラバラ殺人の物語。
殺人をすることが目的ではなく死体処理としての解体作業という凄絶ことを行いながらも方その凄絶作業としての労働として割り切って副収入を得る主婦たちを描いた衝撃作である。

方やこの『IN』という作品はそういう要素は全くない。
作家の物語である。
その作家、鈴木タマキはがかつての大物作家の小説の中に出て来る不倫相手を特定しようとする。大作家とはいえ、そこは小説なのだが、妻の名前や娘の名前も実名で書かれてあって、到底想像の産物とは思えない。
実際にあった話ならそのモデルになった女性が必ずや存在するであろうと。

そういうコンセプトの本ならそれはそれでいいだろう。
だが何故、『IN』なのだろうか。
あまりに『OUT』を意識させるタイトルじゃないか。
それぞれの章立ての章タイトルが「淫」であり「隠」「因」「陰」「姻」とあたかも韻を踏んでがいるかの如くにインなのだが、いかにもとってつけたインじゃないか。

主人公そのものが編集者とかつて愛人関係にあり、その関係をこの大作家の愛人関係と重ねて考えたりする場面が多々あるのだが、編集者と作家、というのはタイトルの付け方だけでも丁々発止するものらしいので、この『IN』というタイトルにも案外集英社のベテラン編集者が命名したのかもしれない。

で、登場する大作家、緑川未来男というなんとも大作家らしからぬ名前なのだが、自身の愛人関係を赤裸々に書き上げる。
そこには、実名で登場してしまった妻や娘に対する気遣いなど一切なきが如く。

実際に誰に対して一番気遣いが無かったのかは、後半以降を読めばわかる。

大作家で赤裸々にと言えばなんといっても谷崎潤一郎あたりが思い浮かぶ。
妻は千代。この緑川の書いた「無垢人」に出て来る妻は実際の妻の名前である「千代子」。だがそうではあるまい。
谷崎よりも寧ろ谷崎の賞を取った島尾敏雄の「死の刺」あたりが近いのかもしれない。

島尾敏雄と言う作家はあまり好んでいないので、自分の好んだ作家を例にあげるなら、なんといっても「檀一雄」だろう。

別にモデル探しをしているわけではない。
自身の愛人生活を赤裸々に描いた代表作は『火宅の人』相手は女優の入江杏子だといわれたが、その入江杏子なる人はあまり知られていない。

あれこそ、想像から産み出たものなどこれっぽっちもなく、壇一雄の有り様そのままだったのではないか、と思っているのだが、それはこの緑川なる架空の大作家の生き方をそのまま小説にしたのだろうと、主人公が思い込むのと同じ発想なのかもしれない。

その当時の壇氏は全く家庭を顧みることないが、夫人はこの緑川の夫人の千代子のように嫉妬に狂うわけでもなく、娘の壇ふみさんは最近トンと見ないが、一時は知的な雰囲気の女優として結構活躍されていたと思う。

壇氏を語る上で欠かせないのが、なんと言っても『リツ子・その愛』『リツ子・その死』だろう。
自分の最も好きな本だ。
これももちろん想像の産物などと思ったことはなく。
あの中での太郎の「チチ」「チチ」が忘れられない。
リツ子・その死に至らなければ、壇一雄は火宅の人にならなかったかもしれない。
というよりもならなかっただろう。

『火宅の人』にせよ『リツ子・その死』にせよ、自身の周辺を書いてしまっている以上、『リツ子・その死』で出て来るリツ子の親戚連中は悪者以外の何者でもなく、私小説と言われる類のものはやはり誰かを傷つけるのは必至であり、やむを得ないものなのだろう。皆が善人で非の打ちどころのない人間ばかりの私小説なと有り得ない。
ファンタジーでも有り得ない。

この『IN』では、そういう誰かを犠牲にして成り立つ小説というものを方や取り上げながらも実際に一番愚かだったのは誰だったのだろう・・・といろいろなメッセージを投げかけているのかもしれない。

ただ、壇一雄に戻って申し訳ないが、『リツ子・その死』で悪く書かれた人(もちろん実名で出ているわけではないが、周囲の人ならわかるだろう)は、誰かを犠牲者にしてなどと言うつもりはこれっぽっちもなく、寧ろ正直に書く事で、さらにそれが発表されることでの復讐的意図さえあったのではないかとさえ思えてしまう。
ただ、それはモノが豊かになったこのご時世で言えることで、戦後間もないあの時期に誰しも私小説家に何を書かれようが、どう思われようが気にするゆとりもなかったことであろう。

『OUT』のことは取りあえず忘れることにして、そんなこんなを思わせてくれる本でした。

IN 桐野 夏生 著(集英社)



ラットレース 


死者の霊が生きている人間に憑依する、そんな類の小説は多々あるが、なんともユニークなお話しである。

優等生の17歳の高校生の女子にみるからに50歳の汚いオッサンが憑依する。
やれビール飲ませろ、タバコ吸わせろ、とまぁ好き勝手なことをのたまう、のたまう。

後輩の中島君は彼女を救おうと、普段なら近付かないオカルト少年の手も借りて・・・。という展開。

まぁ、一番面白いのは美形で優等生の少女にオッサンが憑依するという、このギャップ。17歳の高校生がだんだんオッサンに取って変ろうとしている。

オッサン、曰く「俺は妖精だ」には笑ってしまう。

どういう話に持って行くのだろうと思っていたら、なかなか今の高校生のイジメの構造を解析していたりもする。

「悪いのは他人」
オッサンに憑依されてしまった片里名という優等生の言葉。
「会ったこともないのに面白半分ではやし立てる他人。取り上げたニュース、いじめ特番」
「少女Aの心の闇にせまります」などと言うもっともらしいことを言って人の心をずたずたにしていく他人。

そのあたりがこの本の一番言いたいところなのだろうか。

タイトルの「ラットレース」はどこから来たのだろう。

ラットレースとは?ラットレースの語源とは何か。

「rat race」 を辞書で引くと 「きりのないばかげた競争、猛烈な出世競争」.となっているが、
「rat race」 という言葉、もともと、ネズミが回し車の中をクルクル走り続けることを言うらしい。
仕事をする→給料をもらう→お金を使う→欲しいものが出来る→仕事をする→給料をもらう→お金を使う。
と一生懸命頑張ってみたところで結局同じところをグルグルと回っているだけ。
働けど、働けど、お金も溜まらないし、状況も変らないような様子をネズミの回し車に例えて、そう呼ぶのだという。

じゃぁ、この本の中でのラットレースとは、誰を比喩しているのだろう。

学生たちには、ラットレースという言葉は無縁だろうから、幽霊になって、高校生に憑依したオッサンなんだろうな。
今一、タイトルとストーリーがフィットしているようにも思えないのだが・・・・。

まぁ、あまり深く考えずに気楽に読む本としてはよろしんじゃないでしょうか。

ラットレース  方波見大志 著 (ポプラ社)



ダブリンで死んだ娘 


アイルランドの小説など過去一度も読んだことが無かったが、昨年に見たドキュメンタリーの影響か。
ダブリンという響きが本を手に取るきっかけだった。
ドキュメンタリーというのは他でもない。経済問題である。
あのリーマン・ショック以来の世界同時不況の中、アイルランドの景気後退は他のどのユーロ圏諸国よりも深刻な状態をあらわしていた。

今や欧州ではギリシア危機が最も深刻に語られているが、アイルランドも相当なものだ。

何より、日本が「失われた10年」を過ごして来た中、年率平均6%~7%のペースで急成長してきた国である。
賃金カットと増税、たったの一年の間に失業率は5%から10%に・・・というような。

とは言え、日本の現状もひどいものなのでアイルランドばかりを心配してはいられない。
そんなことはさておき、「ダブリンで死んだ娘」の邦訳は昨年(2009年)の出版であるが、舞台となっているのは1950年代で、上の記述は本の紹介上何の意味も為していない。

一人の病理医が、搬入された若い女性の遺体に目をつけたのが始まり。

彼は大病院の病理科医長でもあり、検死官でもある。
死因に不審を持ち、再度遺体を見ようとするのだが、遺体はすでに運びだされてしまっていた。
そこからこの病理医が執拗にこの女性の過去やその周囲を追いかけ始める。

ミステリものなので詳細を書く事はNGであろう。

敬虔なクリスチャンでありながらクリスチャンを超越してしまった人びと。

貧しい家の子供達を幸せに出来るのは自分達でしかない、と思い込む高貴な地位の人たち。
とんでもないお仕着せがましさ。
なんと高慢で、傲慢で、想像力の欠如した人たちなのだろう。

翻訳者のせいなのか、多少冗長に感じるストーリー展開なのだが、英語圏内では反響を呼んだ小説なのだという。
アイルランドには、いやケルト民族にはそういう人たちが存在してもおかしくはない、と思わせる空気があるのだろうか。

ダブリンで死んだ娘 ベンジャミン ブラック著 松本剛史 翻訳 ランダムハウス講談社文庫