月別アーカイブ: 5月 2010



シアター 


借金300万円を抱えて存亡の危機にある劇団 シアターフラッグ。
主宰者の春川巧は兄の司に助けを求める。

借金300万円ったって、一人頭にすりゃたかだか30万だろうが!
いい歳こいた大人が30万用立てられなかった自分を恥じろ!
そう怒鳴って兄は借金の肩代わりに応じる。

無利息だが、ただし2年で返済せよ、2年経って返済できなけりゃ、潔く解散しろ!という前提付き。

この発言を持って鉄血宰相だとか、金の亡者だとかこの兄は劇団員から非難されるわけだが、兄の言うことはしごくごもっとも。

と、言うよりよくお金を出してあげた。
やれるところまでやってみろ、という優しさなのだろう。

プロとアマの境目とは何か。
劇団という世界であれ、やはり自分の食い扶持ぐらいは自ら稼ぎ出す。
まずはプロと呼ばれる最低限はそこだろう。

この兄の司が関与するまではまさしくアマチュアの同好会の延長としての劇団でしかなかったわけだ。

一般社会から見れば、ごくごくあたり前のことのようだが、劇団だとか、芸術だとか漫画家志望だとか、収入なんぞどうでも良く、好きだから続けている、という世界っていうものも結構あるものなんだろう。

この兄は借金を肩代わりしただけでなく、無駄を省き、事実上の経営再建に乗り出すのだが、その手腕たるや素晴らしい。
いやその手腕がどう、という前にいかにそれまで金に対してずさんだったか。
いかに金というものに執着がなかったのか、が浮き彫りになって行く。

借財をためてしまうほどだから、よほどひどい劇団だったのだろうと思いきや、案外、根強いファンが居たりして、本来は充分黒字でやって行ける劇団だったのだ。

いや、なかなかにして面白い本でありますよ。

作者が自ら述べているのだが、この劇団にはそのモデルとなる存在があって、劇団のイロハも知らない作者はそこを取材して三ヶ月で書き上げたのだという。

だから実話に近い部分も結構あるんだろう。

いずれにしても好きなことをしてメシが食えるというのはいいことには違いない。
案外この兄も勤め人やっているよりも劇団経営者の方が向いているのかもしれない。

まだまだ可能性が見えただけで、ハッピーエンドになるのかならないのか、その判断を読者に委ねているあたり、なかなかに巧みな小説である。

シアター! (メディアワークス文庫) 有川 浩 (著)



地球移動作戦 


あまりに壮大なスケールの話に圧倒される。

2083年、光速の43%の速度で航行する宇宙探査船。
秒速12万9000キロ。月までたったの3秒で到達できる速度の探査船で人類は太陽系をはるかに離れた宇宙を航行している。

そこでその探査船が遭遇するのが、ミラー・マターと呼ばれる鏡像物質でできた天体。
光を反射しないために、地球からは光学的には観測できない天体。
その天体が太陽系に向かって移動している。
そしてその移動する先は太陽系でも地球の軌道をかすっている。
その移動速度から推測するに地球とニアミスを起こすのは、その24年後の2107年であることが判明する。

この今から70年後の世界では、人間は抗老化処置が進み、見た目では年齢は一切わからない。
ACOMと呼ばれる人工意識コンパニオンが人間のパートナーとして人に付き添い、話し相手にもなれば秘書の仕事までこなしてくれる。
ARと呼ばれる拡張現実が一般化し、人びとは自室の中で観光地の風景を目の前に繰り広げる。
超光速粒子のタキオンを実用化したピアノ・ドライブの開発は、エネルギー革命そのもので21世紀初頭に叫ばれた温暖化やCO2削減問題も過去の歴史となった。
そのピアノ・ドライブにより超光速航行も可能となる。

それらはあくまでも設定であり、冒頭に書いた壮大なスケールとはこの物語の後段からなのだ。

探査船の乗務員はミラー・マターからの放射能を浴びて地球へは帰れないのだが、その探査結果は正確に地球へと送り届けられる。

24年後に地球とニアミスを起こすことで地球にどんなことが起こるのか。
秒速300キロで地球とすれ違う時に発生する潮汐力は最も近付いた時には月の1800倍。
そのミラー・マターの発する放射線により全世界の超伝導体が放射線源となる。
地球の太陽系での軌道はニアミスにより離心率の大きい楕円軌道となる。
日射量は減り、氷河期が訪れる。
たった3名の探査船の乗務員はわずかな時間でそれだけのシュミレーションをやってのけてしまう。

さて、その結果を受けた地上の人類はどのような選択をするのだろうか。

24年後というのは個々の人が危機感を持つには少し永い期間かもしれない。

しかし、科学者達にとって対策を打ち立てるのには短すぎる期間なのではないだろうか。

20世紀末に出て来たような終末論をかざす宗教団体が方や有り。
そのニアミス説そのものが政府の陰謀で、ニセ情報だと信じない人たちもまた多く有り。
そうかと思えば、人類が生き残る必要は無い、ACOMさえが生き残れば、人間の心や文化や情報はミームとして受け継がれる。24年間、莫大な経済投資をして無理な計画を推し進めるよりも、ACOMに未来を託せば良い、という考え方を訴える人有りでその賛同者も多く出て来る。
その考えは、今の自分さえ良ければそれで良い、という自分勝手なものなのだろう。
自分たちが生きて来た美しいこの星を子供達やそのまた子供達の世代へと残して行こうという発想では少なくともない。

どこぞの政権が今の選挙対策のため無理矢理バラマキの政策を強行採決し、子供達やそのまた子供達の世代にそのつけを廻そうという発想も同じようなものか。人類に限らず生命体は種の保存を最優先に考えるはずなのにそうではない彼らこそ若者などよりはるかに新人類、新生物なのかもしれない。
いや、スケールが違った。この物語に出て来る新人類達は、人類の滅亡を許容するという大胆な発想なのだから。

そんなことはさておき、その後の人類が選択した道こそが冒頭に書いたあまりに壮大なスケールの話なのだ。

地球に隕石が衝突する、だとかの地球のカタストロフを描いた小説や映画は数あるが、スポットがあたるのはカタストロフに遭遇した地球・人類そのものであったり、もしくはそれをくいとめようとするヒーローであったりで、それはそれなりに読み物としても映画としても面白いのだが、近未来というものを物理学的見地にもたって、起こり得そうなことを背景に掲げながら、それでいて途轍もないスケールの話を展開していくSFなどというものにはそうそう出会えないのではないだろうか。

作者はどれだけ物理学を勉強されたのだろう。
専門の物理学者が読んだらどんな反応なのだろうか、などと思ってしまう。
ニュートリノだとか、数年前のノーベル物理学賞受賞者が出た時までは知らなかったような単語がいくらでも出て来る。

ACOMにしたって、ロボットではない。実はアバターの発展系なのだ。
実態が存在するわけではなく、あくまでもサーバー内のデータが仮想媒体の3Dとして目の前に現れている。
ARにしてもそう。
これって今年からかなり売れて行くだろうと言われる3D映像の延長上だ。
ACOMにはまり切ってしまう人たちは、現に今でも引きこもりという形で存在する。それもかなりのパーセンテージで。

この本、結構な長編である。
ここに書かれているものは、確実に今から70年後の世界には実現されているか、かなり近付いているものなどもあるのではないだろうか。
長編が苦手な人もそんな読み方をすれば、きっと楽しく読めるに違いない。

地球移動作戦 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション) 山本 弘 (著)



巡礼 


このお話、ゴミ屋敷をめぐるお話なのです。
まさかそのゴミ屋敷をめぐる登場人物だけで一冊書いてしまっているとは思わなかった。

メディアでもたまにゴミ屋敷やその住人、またその周辺の人びとが取り上げられているのを見たことがある。
周囲(ご近所)からは、気味悪がられ、漂う臭気を迷惑がられ、再三の改善勧告にも全く耳を貸さない。

このゴミ屋敷の主もそんな近所の迷惑を顧みない老人である。

物を捨てられない人というのは案外いるものである。
マンションやアパートの様に狭い所に住んでいれば、自ずと許容量というものがあるので、捨てて行かないと寝る場所が無くなってしまうこともあってどんな人でもモノを捨てざるを得なくなってしまうものだが、広い一軒家に住んでいる人で庭に物置でもあろうものなら、捨てる前に一旦物置へ放り込んで、結局そのままゴミと化した後も残ってしまう・・というようなケースならざらにありそうである。

まして、この主人公はかつては荒物問屋に勤めており、実家も荒物屋。
時代の流れと共に現代では不要になったものも、かつては売り物だったわけだ。

今は不要なモノを、ゴミと見るのか、何かの時には役に立つモノとしてみるのか、このご老人の場合は元々荒物屋、何かの時にしか必要の無いものを商売ものとしていた以上、ゴミ屋敷の主人となる素地は元来からあったわけなのだが、自ら明らかなゴミを自宅まで運んで来る、生ゴミさえも捨てずに溜めておくところまで来てしまってはもはや何かが壊れた人、としか言いようがない。

この話、その老人がかつて軍国少年だった時代から戦後荒物問屋へ住込みの丁稚として奉公していた頃の話、結婚して今の家へ移り住んだ時代・・・と彼の過去の生き様を書いて行く。

その老人のかつて妻となったサラリーマンの娘、八千代と姑のやり取りは、不謹慎かもしれないが面白い。
新居に来て、鍋釜が無い、洗濯ばさみがない、何が無い・・。
荒物屋の奥さんに言わせれば「そんなもん、そこら探せばあるだろうに」ということなのだが、これは何も荒物屋とそれ以外の職業に限った話ではなく、物の置き場所というもの、片付けた人間がにすれば、そこにあるのがあたり前。
そうでない人間にしてみれば、片付けた人間に聞くのが一番手っ取り早いものなのだ。

「おーい、はさみはどこにある?」「おーい、ホッチキスはどこにある?」
「全く、この人は私が居なけりゃ何にも出来ないんだから」
なんて、どこの家庭からも聞こえてきそうなやり取りである。
片付けた人間は片付けたという行為だけで、自らの必要性を訴えてやしないか?などと思うことしばしば。

それが「おーい、○○はどこにある?」と聞ける立場ならまだいいのだが、相手が姑ともなれば遠慮が勝ってしまってなかなか聞くに聞けない。
まぁ、それだけの問題ではないのだが、結局、姑からすればドン臭い嫁ということになってしまう。

そんなこんなの昔話に話の大半を割いている。
まぁ、そうでもなけりゃ、ゴミ屋敷の異常なジイさんとそのご近所だけでは一冊の本にはならないだろう。

不器用で生真面目だった人。戦後、時代はどんどんと流れていくが、住込みの丁稚で世の中のニュースも知らないまま育ち、その流れからなのか、その後も流されるだけの人生。
そんな人生を送った人も確かにいるのだろう。

それにしても「ゴミ屋敷」の迷惑さを騒ぐメディア。騒ぐだけで解決策は持たない。
騒がれることで「ゴミ屋敷」は有名になり、わざわざ車で来て粗大ゴミを捨てに来る人間も現れるぐらい。
おかげで隣近所は昼間であっても窓も開けられない。
そんな垂れ流すだけの無責任な報道という名の情報のなんと罪深いことか。

巡礼  橋本治 著 新潮社