月別アーカイブ: 6月 2010



貧者を喰らう国  中国格差社会からの警告


中国という国を語るに当たっては、その語る人の立場、政治的信条、見てきたもの、地域など、百人の人が語れば百通りの中国があるのではないだろうか。

特に上海をはじめとする沿海側の富裕層の多い地域と地方の農村との間の格差は、日本でいくら格差社会だ、格差社会だと言ったところで到底その比ではないだろう。

本書はタイトルこそ「貧者を喰らう国」といかにもおぞましいが、筆者の記述からは、寧ろ中国の人達への深い愛着、愛情が感じられる。

1990年代の政策が推し進めた売血。
河南省の人は血を抜くという行為を元々は嫌悪していたのだそうだが、売血することで得られる収入を糧にせざるを得ない状況とあまりにひどい衛生状況、注射針の当然ながらの使いまわし、それらの結果、大量のHIV感染者を出した地方。
その地方のことが海外メディアなどから知られそうになるとそこの地方長官は平然と「お前らなんぞが生きているから厄介が起きるんだ。全員死んでしまえ」と平然ののたもうたそうだ。

話題はHIV感染者の話から農村の話へ。
農民だけに課された過酷な税金。

その末に農業に限界を感じ、出稼ぎに出る農民工。
中国では戸籍というものが農民への縛りとして機能していることが良くわかる。
彼らはどこへ出かけて行こうが、都会の市民戸籍とは分離された農村戸籍であり、どこへ行こうが農民工でしかない。

中国の発展はあまりに目まぐるしく、少し前の本でも、根っこは同じでもまず現在の状況とは違うだろうと、ごくごく直近の近代史的に読んで行くことがままあるのだが、この本の出版は2009年9月、まだ1年と経過していない。

6/29(本日)の日本経済新聞のTOP記事はコマツの中国の16子会社の社長をすべて中国人にする、というものであった。
また、最近良く目にする記事では中国の工場での賃上げストが多発している、というもの。

確実に中国の人達の人件費は上がって来ているのだろう。

方や上海万博を取り扱ったドキュメンタリーでは、万博で浮かれる人たちを遠目で見ながら、地方から出稼ぎに来た労働者は、万博へ入場するなどとはこれっぽっちも思わず、わずかな職を求めて来たのだが、やはりダメだと地方へ帰って行く姿が映し出されていた。

上海で急増したと言われる蟻族なる若者達。
この人達も職がない人達なのだが、同じように職の無い農民工と彼らとでは決定的な違いがある。
彼らは大学を出たもののホワイトカラーの職を得られない。
農民工達はそんな職を選ぶことすらしていない。

今年になって発表された中国の所得倍増計画なるもの。
かつての日本の所得倍増計画を思い起こさせるが日本のそれが一億総国民に対するものであったのに対して、中国のそれはどうなのだろう。

やはり恩恵を被るのは特定の人々ということになるのではないのだろうか。



対岸の彼女 


第132回直木三十五賞受賞作

働く女性と子育てをする女性を対岸の存在として表現していることに、なんとなく抵抗を感じながら手にした一冊。
最近よく取り上げられるこのテーマに、他と同じような展開を想像してしまいましたが、角田さんの視点はすこし新しく感じられました。

ざっとあらすじ。
主人公はちいさな子供のいる専業主婦の小夜子。
独身時代はばりばり働いていたけれど人間関係に疲れて結婚と同時に退職。
再び世間とのつながりを求めて働き始めることを決意します。

そこで出会ったのが独身女社長の葵。
意気投合しますが山あり谷ありで決別。

間には学生時代の葵のエピソードがあったりします。

いろいろなエピソードから、小夜子と葵がまったく違う人生の経験を通して、まったく違う人間になったのではなくて、
意外と同じ感性や感覚を育てていったことが伝わってきます。

高校時代、いろんなことを言わなくても伝わるくらい近くに感じられたた友人と、卒業後、進路を別にして徐々に距離が離れていった経験があります。
壁を作っていたのは何だったのか、わかるようではっきりわかりません。
でも、きっと自分の中の勝手な決め付けが彼女を遠ざけてしまったのだと思います。
この本を読んでいると(もしかしたらこれは女子独特のものかもしれませんが)、誰にでもある苦い思い出がよみがえってくるような気がします。
そして、そのことを悔やむだけではなくて、またもう一度小さなきっかけを自分が作ることで、対岸の彼女をこちら岸に、もしくは自分をあちら岸に連れて行けるかもしれないと思わせてくれます。

すぐ近くに感じた人でも何かのきっかけで対岸の存在になりえること、
対岸の存在だと思い込んでいる人が、実は寄り添える存在であったこと、
もしかしたら対岸と感じさせているのは自分の人生を肯定したいという弱い思い込みだったりすること。
そんなことを考えさせられる一冊です。

対岸の彼女 角田光代著 第132回直木三十五賞受賞作



インドの鉄人


2006年に世界最大の鉄鋼メーカーのミタル・スチールが世界第二位のアルセロールを飲み込んだ最大の買収劇の話。

買収をしかけた側のミタル・スチールとしかけられた側のアルセロール。
ずいぶんとミタル・スチール側に肩入れしているように読めなくもない。
ラクシュミー・ミッタルという人、それは紳士的な人かもしれない。
精力的で魅力のある人かもしれない。
アジア人がしかけた最大の買収劇だけに同じアジア人として誇りに思わなければならないのかもしれない。
そんなミッタルに対する好意的な気持ちが方やにあったにしても・・・。
それでも相手の望まない買収合併を突き進むやり方というものをそんなに持ち上げてしまうのはいかがなのものなんだろう。

そんな事を言っいるからグローバル化から取り残されてしまうのだ、と言う声が聞こえてきそうだが、グローバル化とは企業買収のこととイコールなのか。

確かに相手のCEOはモンキーマネーなどという差別的な発言をした。
実際にはインド企業に買収されるというより、ミタル・スチールはヨーロッパ企業ではないか。
単に経営者がインド人であったというだけで。

アルセロール側もミッタル嫌さだけの理由なのか、買い上げ金額を引き上げるネタに使ったのか、何がなんでもミッタルへの買収を阻止しようと、プーチンの息のかかったロシア企業にまで身売りを模索したりもする。

そんなこんななだけに、ミッタルの紳士的な態度が余計に好感度をもたらすのだろう。

それにしてもこれだけ買収、買収を繰り返して、大きくなり、とうとう業界の一位と二位が合併するということで、その時点では次に位置した新日鉄の3倍強の粗鋼量に。

ちょうどそんな頃にも日本国内でも企業買収、M&Aは持て囃され、また一部では顰蹙を買い、なんていうことが繰り返されていたと思う。

日本国内での合併や買収でも相当に駆け引きや裏での仕掛け、奇策の数々もさぞかしあったのだろう。
それを世界最大の鉄鋼メーカー同士が繰り広げる。
時には、欧州のTOPの政治家を巻き込み、資産家を巻き込み、などというあたり、やはり政治家にコネがあるかどうかというのは、民間企業の買収においてもかなり重要なことなのだろうか。

無謀な目標と言われた粗鋼量2億トンを目指すラクシュミー・ミッタルは買収の末にミタル・スチールを世界TOPの鉄鋼メーカーにし、最大の買収後のアルセロール・ミタルはもはやその目標が夢ではないところまで大きくなり、さらに買収を繰り返し、その目標が目前にせまったあたりであのリーマン・ショックだ。

その後は各国の工場を閉鎖したり、リストラも余儀なくされたのだという。
2009年でもTOPの座は維持しつつも、世界の粗鋼量が落ちるなか、中国メーカーのみは伸び続け、TOP10に5社までもが入っている。

かつて日の出の勢いだった日本メーカーはかろうじて、BEST10の末席には連なっている。

「盛者必衰の理をあらわす」か。

何やら栄枯必衰を語った平家物語の祇園精舎の鐘の音が聞こえてきそうではないか。