月別アーカイブ: 7月 2010



出口のない夢―アフリカ難民のオデュッセイア 


南アフリカで開催されたサッカーワールドカップ。
前大会優勝国のイタリアは予選敗退。
準優勝のフランスも予選敗退。
当初、決勝トーナメントはいったいどれだけ盛り上がらないものになるのだろう。
ヨーロッパのサッカーは終焉を迎えたのか・・などの下馬評を余所にヨーロッパ勢がスペイン、オランダ、ドイツの強豪が1位、2位、3位を独占。
決勝トーナメントの盛り上がりも凄かった。

その開催国である南アフリカは次には五輪の開催に名乗りをあげるのだという。

その発展目覚ましい南アフリカでさえ、開催前は治安が問題視されていた。

発展目覚ましいとはいえ、その労働力の実体は高学歴者や高技術者はアメリカ、カナダ、オーストラリア・・などへ移民として流出し、モザンビーク、ジンバブエ、ボツアナ、ナミビアといった貧しい国からの大量の移民が低賃金の労働者として移民として流入してくる現実を普段はアフリカなどに興味もないメディアでさえ伝えていた。

この本は南アフリカが主題ではない。
西アフリカの話が大半であるが、西であれ、南の周辺国であれ、多少の事情は違えど悲惨であることには変わりはない。

ヨーロッパへの出稼ぎ、それも命の危険を冒してまでしてヨーロッパへ渡る彼ら。
それも国へ残して来た家族を養うためだ。
EUが出来てからヨーロッパ内部での壁は低くなった分、アフリカに対する壁は高くなってしまった。
一旦、ヨーロッパへ出稼ぎに出たものの、おいそれと帰れるものではない。
この本では4年がかりでヨーロッパへ渡り、14年間もの間、国へ帰れなかった男性のヨーロッパへ渡るまでの4年間の道のりを追いながら、その道のりで出会った取材結果が取り上げられている。
14年間、という年数はこの男性ばかりではないだろう。
0歳の子供なら14歳、4歳の子供なら18歳、それだけの期間を遠方からお金は送金したとはいえ、一回も顔を見ることすらない。
14年経って返って来たところで、子供からすれば、父親という身近な存在としては到底見ることは出来ないだろう。
どこかのおじさんが来たみたいな感触しか持ち得ない。

そんな話、こんな話の本であるが、著者が強調しているのはアフリカが今日の貧しさに至ったそもそもについてである。
ヨーロッパ人である著者が良くそこへ踏み込んだとは思うが、奴隷という名の人狩り無くしてアフリカは語れない。
ヨーロッパ人がアフリカの地を踏んだのは、日本の種子島へヨーロッパ人が訪れるほんの数十年前である。
支配人間(ヨーロッパ人)は金(GOLD)と下等人間(当時のアフリカ人民を指す)の輸出を始めた。
その後の四世紀の間に2900万人のアフリカ人民は殺害され、同じく2900万人のアフリカ人民が人狩りで狩られ、奴隷として輸出された。
その数字の根拠は示されていない。実際にはその数はもっと多かったのかもしれない。
アフリカは近年まで暗黒の大陸と呼ばれたがその元凶がヨーロッパ人であったことは明白である。

農業をするにもどんな産業をするにも若い豊富な人口無しでは成し得ない。
その若い豊富な人口を次から次へと輸出してしまっていたのだ。
世界が近代化の競争に走ろうと言う時にアフリカは若い働き盛りは狩られ、残った人々は大地に鎖で繋がれた。
暗黒にならざるを得ない状況を作られてしまっていた。
その四世紀の間の植民地支配、その後独立するも内戦。
労働力はと言うと若い働き盛りはヨーロッパへの出稼ぎ、移民を目指す。
ヨーロッパ人の去った後に、権力を握ったアフリカの人はヨーロッパ人の行った支配人間をそのまま模倣した。

中東の石油産出国の中には、自国の国民は一切働かなくても国が国民の生活費はおろか遊興費まで面倒をみてくれるような国がある中、現代でさえアフリカの中の産油国の中には国民一人当たりの年間所得が300ドルなどという、とんでもない搾取が行われている国もある。

近年に至るまで、ヨーロッパ人はアフリカの人民を人ではなく、人間と動物の中間と見ていたのではないか。

今回のワールドカップで日本と初戦を戦ったにはカメルーンである。
日本はカメルーンに勝利したことで自信がつき、勢いがついたことは確かだろう。

そのカメルーンにエトーという名フォアードの選手がいた。
今大会前から調子は崩していたとのことだったが、かつてエトーを扱ったドキュメンタリーを見たことがある。

彼は、若い時にスペインに渡り、レアル・マドリードに所属。出場機会に恵まれず、バルセロナに移籍、その後インテル・ミラノへ。そのエトオのスピードと切れ味は、数多の得点をチームに与え、数々の記録を残して来ている。

その彼がバルセロナに所属していた時のアウェイでの対戦中に観客席からサルの鳴き声のブーイングを浴びた際に、試合途中でありながら、ゲームを放り出して、帰ろうとした瞬間があった。
チームメイトが引き止めるのはもちろんだが、敵のチームのアフリカ出身の選手やブラジル出身の選手からさえ引き止められ、なんとそのブラジル選手は、一点取って見返してやれ、とまではっぱをかけたのだという。
そして、続行した彼は見事に点をたたき出した。

そのブラジル選手を失念してしまったが、微かな記憶ではロナウジーニョだったような気がする。

いずれにせよ、アウェイで敵方の応援観客のブーイングなどは当たり前のことなのに何故、エトーは途中退場までしようとしてしまったのか。

原因はサルの鳴き声ブーイングだ。

俺を人間として見ない連中の前でサッカーなどやりたくない。

その考えの根幹は、我々には到底想像出来ないだろう。

アフリカ全土の希望の星だった彼だからこそ、ヨーロッパ人がアフリカ人を人と動物の中間とかつて見ていた、その名残りが今もある、という屈辱に耐えられなかったのではないだろうか。

アフリカはもはや暗黒の大陸ではないのかもしれない。

それでもまだなお、アフリカの人々のオデュッセイアは続くのだろう。



ぼくらのひみつ 


昔、手塚治虫の描いた漫画に「時間よー止まれ!」と叫ぶ少年が登場するものがあった。全ての時間が止まっている中、その少年だけが動くことが出来る。
街中を歩く人、階段を駆け上がる人、昼飯にうどんを食べている人、皆、時間が止まると同時に静止してしまう。

この本の主人公も時間が止まるということに遭遇する。
時は2001年10月12日午前11時31分。

手塚治虫の「時間よー止まれ!」と決定的に違うのは、周囲の人は動いている、というところだろう。
もう一つ決定的に違うのは「時間よー止まれ!」と自ら能動的に止めて、能動的な意思で動かすという便利なシロモノではなく、この主人公は止まった時間から抜け出せずにいる、ということだろうか。

外へ出て、道行く人、道行く人に時間を尋ねてみると返って来るのは必ず、11時31分。
117の時報へ電話をすると、返って来るのは、延々と同じ時間。午前11時31分○○秒をお知らせします・・・。

寝ても11時31分、覚めても11時31分、延々と読書をしても同じ11時31分。

テレビでは同じクッキングにワンシーンとCMのワンシーンが延々と繰り返される。

この同一時刻の世界には二通りの人が居ることに主人公は気がつく。
固定的な人間と流動的な人間。

流動的な人間というのは道ですれ違った人達など。彼らはその時点で11時31分に存在しても次の時間へと移動して行ったはずである。

固定的な人間というのは必ず同じ場所に居なければならない人、居るはずの人。
喫茶店のマスター、ウエィトレス、本屋の店主、など毎日出かけて行っても、というこの毎日という概念も同じ日の同じ時刻なので毎日と言えるのかどうかさえわからない世界なのだが、とにかく目が覚めて出かけて行っても同じ日の11時31分。
必ずそこに存在する。

主人公氏はこの奇妙な世界を利用する手はないものか、と泥棒なんぞを思いつく。
留守の家へ入って堂々と現金を頂戴して来る。
現行犯で無い限りは発覚するのは11時31分より後に決まっている。
そうやって旅行鞄三つ分ほどの現金を集めてみるが、やがてそれも飽きてしまう。

時間が動かない、そう、そのせいで電車にもまともに乗ることが出来ないのだ。
次の電車が11時34分発なら、その3分後は永久に来ない。

なんとも不幸としか言いようのない世界に入り込んでしまっている。

唯一の救いは固定的な人間であれ、流動的な人間であれ、この主人公氏と同じ空間に存在している以上は同じ時間、つまりはずーっと同じ11時31分を過ごすことが出来るというところだろうか。

そんな暮らしを続けながら、ノートをしたためる。

ノート、所謂、日記。
同じ日の同じ時間ばかりの日記。

この日記というか手記というか、これがだんだんと破たんをきたして来るのだ。

ひらがなだけで埋め尽くされたこの手記を読んだ時は、『アルジャーノンに花束を』のチャーリイの最後の方の文章を想起させられてしまった。
ひらがなだけで句点も句読点も無い文章はなんとも読みづらいものである。

人が一分で通りすぎてしまう時間をずっと過ごすことが出来るということは考えようによっては、後の世界の歴史すら変えるようなことが出来たかもしれないのだが、主人公氏は同じ11時31分の間に何千冊もの本を読み、何千回という睡眠をとる。
おそらく本人の体感的には10年以上の歳月を送ってしまったのだろう。

「なんで11時31分だ!笑っていいともも見られないじゃないか」の嘆きには思わず笑ってしまった。
笑っていいともが仮に面白かったとしたって同じシーンの繰り返しじゃしかたないでしょうし。

彼は決してこの地上でたった一人しかいない孤独な存在ではないはずなのだがその孤独さ、は『アイ・アム・レジェンド』の主人公をしのぎ、その虚無感は明日の無い死刑囚をしのぐのではないだろうか。
なんとも摩訶不思議な世界を描いたものである。

ぼくらのひみつ (想像力の文学)  藤谷治 著



驟(はし)り雨 


驟(はし)り雨  藤沢周平 著

時代小説は読みにくいイメージがあったのですが、短編なら読めるかなと思って選んだ一冊。

おもしろいと思ったのは「泣かない女」という話。

ざっとあらすじ。

主人公の男、道蔵は足の悪い女房のお才と別れて、ほかの女と一緒になろうと考えていた。
そしてその事をお才に話すと、お才は泣くでもなく、責めるでもなく、あっという間に荷物をまとめて出て行ってしまう。

いなくなってしまってから急に慌てだす道蔵。
そしてお才を追いかけていって・・・。

なるほど、こんな風にしたら男の人は逃げていかないのか、と一瞬思いましたが、
こんなだらしない男の人に、こんなに都合よくやってられるかいなと思い直しました。

でもなぜか魅力的に思えるこの二人。それは時代背景のせいなのでしょうか。
その時代を生きたことは無いのに、頭の中に二人の光景が広がります。

男がいわゆる「男」らしく、女がいわゆる「女」らしかった時代。
携帯電話もなくて、擦れ違ってしまったらもう二度と会えなくなってしまうかもしれなかった時代。
今より多くのことが許せて、やり直せた時代だったのかもしれません。

そんな時代なら私もかわいい女になれたのかな。と思った一冊でした。

驟(はし)り雨    藤沢 周平 (著)