月別アーカイブ: 8月 2010



犯人に告ぐ 


本の帯には伊坂幸太郎からの文章で「最高だねこれは・・・つづきが気になるあまり風呂場でも読んだ・・」などと書かれている。
伊坂幸太郎をしてそこまで言わしめた本を読まないわけにはいかない。

かつてグリコ・森永事件という事件があった。
新聞マスコミに犯人からの声明文が届き、その内容は警察をおちょくるものであったり、次の犯行を予告するものであったり、その内容をどのメディアも取り上げ、新聞、テレビ、週刊誌・・などがこぞって犯人像を推理した。
劇場型犯罪と呼ばれるものの典型であろうし、最も成功した例でもあり、日本の劇場型犯罪の走り的な事件でもあった。

その後、あれほどあざやかな手口の劇場型犯罪事件は起きないが、凄惨で且つ劇場型と呼ばれる事件は、後を絶たない。
宮崎某の起こした埼玉県入間市での連続幼女誘拐殺人事件。
宮崎は、「今田勇子」(今だから言う)の名での声明文を新聞社に送り付けている。

神戸で起きた連続児童殺傷事件では、酒鬼薔薇聖斗を名乗る犯人から新聞社に「さあ、ゲームの始まりです・・」で始まる声明文が送られている。

ここまで凄惨な、というのは珍しいが、類似の劇場型狙いの事件も多々起き、刑事もののドラマや映画でも散々劇場型犯罪を扱ったものが登場しているのではないだろうか。

この小説、劇場型犯罪に対して、劇場型捜査を行うという画期的なもの。

四人の幼児を殺害し、さらにテレビ局宛てにニュース番組の女子アナへの脅迫を手紙で寄こした犯人。
事件を指揮する捜査官がニュース番組に登場して、申告することをためらう目撃者達に捜査協力を呼び掛ける体裁を取りながらも、「犯人に告ぐ!」と犯人に呼びかけながら、本音は犯人からのメッセージを待つ、という捜査手法。

メッセージが来れば、なんらかのボロが出て来るだろうという読みだ。
犯人になりすましたいたずらのメッセージが山のように来ることで、またそのメッセージに引っかかってしまうことで自己顕示欲が強いはずの劇場型犯罪の犯人からいずれ、本もののメッセージが来るだろう、という読み。

主人公は巻島という警視で、6年前に身代金目当ての幼児誘拐犯に振り回された揚句に、犯人を取り逃がし、且つ誘拐されていた幼児を殺害されてしまう、という大失態を行ったチームの中心に居た人物で、その6年前の失態をずっと心の中のしこりとして残している。
尚且つその失態は捜査のみでとどまらず、上司から責任を押し付けられる形で記者会見に臨み、その場で記者とカメラの餌食にされてしまう。

目の前の記者に腹が立ったばかりにそのカメラの向こうの視聴者を忘れ、暴言をはいてしまう。理由は腹がたったからばかりではなかったが。

そんな辛い過去を持ちながらもまた、テレビの前で犯人に呼びかけるという役回りを買ってでる。

犯人に呼びかけるということは、犯人側の気持ちにたったコメントもせねばならず、少なからず、犯人憎しの世論から遠ざかり、警察への不審に繋がるかもしれないという諸刃のやいばのような作戦なのだ。

この小説は、こういうテレビを使っての犯人とのやり取りというストーリー展開も読ませてくれるが、それだけではなく、常に「責任を取る」という立場とは一線を引く、キャリア官僚と叩き上げ刑事との違いを見事に浮き彫りにしている。

上司で本部長にあたる曾根という男もキャリアならではの責任というものから除外された立場であるが、この男などはまだ、犯人を捕まえようという強い意志がある分救いがある。

救いの無いアマちゃん官僚が登場する。
牧島より上司だから、という立場を利用して、捜査員なら絶対に漏らさない情報を自分個人の目的のために平気でライバル局へ漏えいする。

こういう男が捜査を妨害する。
牧島はこの男へはキチンと処置を施すのだ。若干甘いと言われれば甘い処置かもしれないが・・・
取りあえずは読んでいる方もスカっとするには違いない。

それでもまぁ、こういう捜査はほとんど博打に近いものなのではないだろうか。

実際にあのグリコ・森永事件では犯人グループから、何度も何度もお手紙が来たが、警察はその尻尾すら掴めなかったのだし。

ローラー作戦にしたって、グリコ・森永犯は「ウチへも来たでー」とうそぶいていたではないか。

そう。それだけ博打だからこそ、これだけ面白いのだろう。

伊坂幸太郎が言った通りだった。
長編なのにもかかわらず、一旦読み始めてしまったら、一気に終わりまで読まなければ気が済まない、そんな小説だった。



バターサンドの夜 


児童文学新人賞受賞とあるが、果たしてこれは児童文学という範疇に入るのだろうか。

中学生の女の子が主人公。
それもたぶん中学一年生じゃないのか。
発育がいいせいか、見た目は高校生か。
考え方や発想などはあまりにもしっかりとしていて、そこらの高校生や大学生より上かもしれない。

それでもアニメの主人公に憧れるあたりは年相応か。
ロシア革命を舞台としたアニメらしくその登場人物にあこがれ、そのコスチュームを着てみたい、と。
その題名は「氷上のテーゼ」。

モデルをやってみない?
と声をかけられるがまるで相手にしない。
そりゃそうだろう。
声をかけたのが、場末の町の商店街の本屋の中。
しかも声をかけた相手が読んでいたのは「ロシア10月革命」。
乗って来ると思う方がおかしい。

声をかけたのは同じくその場末の商店街のつぶれかけた洋品店の娘で大人の女性。
亡くなった父母の跡を継いでしまったはいいが、その店で物が売れるわけも無し。
ネットショップをたちあげて、自前のオリジナルブランドを広めようという腹積もり。
そのネットショップのモデルを探していたわけだ。

その女性との掛け合いも面白いが、この本のテーマは、もっと別のところか。

中学生の女の子の他人との距離の取り方。
女の子というのは中学生の時からそんな面倒くさい人付き合いを気にしながら生きるものなのか。
クラスにはいくつかのグループが出来あがっていて、クラスの中の子は誰しもどれかのグループに属さなければ浮いてしまうような。
お昼ごはん一つとったって誰だれと一緒に食べるかどうか、どのグループに入っているのかだとかがそんな重大事なのか。
政治家の派閥じゃなるまいに。

同年代の男たちには到底理解の範囲外だろう。

この主人公の女の子はそういう面倒な付き合いから、一歩身を引いたところで生きたいと思っている、つまりは本来ならごく一般的な思考回路の持ち主だと言うことなのだろうに。

ただ、一歩引いた先がアニメのコスプレというところがまたユニークだ。
結局、他人と何か一線を引いてしまう人は何かのオタクでなければならないのだろうか。
結局そういう世界が好きだから、逆に一歩引けることが出来るのだろうか。

ブランド造りの大人の女性は彼女をいっぱしの存在としてちゃんと認めてくれている。
周囲の女子中学生よりやっぱりこの子の方がはるかにまともなんだろう。

バターサンドの夜  河合二湖 著 講談社児童文学新人賞受賞



床屋さんへちょっと 


「やっとるかね」

それが先代の社長の口癖。
職人で中卒で一から菓子メーカーを築いた先代。

後を継いだ宍倉勲はたったの15年で会社を倒産させてしまう。
二代目として後を継いだ後も先代を慕う社員が多く、一度も会ったことのない若い社員までもがその「やっとるかね」 の口真似が口をついて出てしまうほどに先代の存在は大きかった。

オイルショックの影響があったとはいえ、誰しも二代目と先代との経営者としての才の差だと感じたことだろう。

いくつかの章立てで仕上がっている本で、各章は年代順ではない。
寧ろ年代を遡って行く。

冒頭の賞を読み始めた際には年老いた頑固オヤジと出来の悪い娘の話か、と思ってしまったが、そんな思いはだんだんと吹っ飛んで行く。

章を重ねる毎に宍倉勲という人の人生に対する誠実さがあらわになって来るのだ。

二代目として会社を継いだ時も、倒産をさせてしまった時も、倒産の後の再就職先での仕事においても、どの段階でも宍倉勲という人は誠実で真剣そのものだった。

章が進んで娘が小学生の時、父の仕事ぶりを独占密着取材する、と言って父の再就職先の仕事場へ付いて来た時の話などは圧巻だろう。

その頃からちゃんと娘は父の仕事ぶりを見て来たのだ。
父の言葉を、仕事ぶりを、ちゃんと取材したノートの内容を頭に刻み込んでいた。

そして父は単に平凡で真面目だけが取り柄の人ではなかった。
多くの人から信頼され、慕われる人だった。

娘にはちゃんと伝わっていたし、孫にも。

「さいごまでかっこよかったよ、おじいちゃんは」と孫から言われることは、おじいちゃんには最高の褒め言葉だろう。

各章に必ず一度は床屋が登場する。
それは同じ床屋ばかりではではなく、旅先の床屋、海外出張先での床屋だったり。

その床屋の場面がこの小説のいいスパイスになっているのかもしれない。

床屋さんへちょっと [集英社] 山本幸久 著