月別アーカイブ: 1月 2011



ツール・ド・ランス


タイトルは「ツール・ド・フランス」では無く、「ツール・ド・ランス」。
ランス・アームストロングという自転車のプロロードレーサーの果敢な挑戦を密着取材したドキュメンタリーである。

ランス・アームストロングという選手、1999年から7年連続でツール・ド・フランスを制した自転車ロードレーサーのスーパースター中のスーパースター。
2005年の優勝の後、一旦、現役を退いた彼が、約3年のブランクを得て現役復帰をするという。

自らもアマチュアのロードレーサーでロードレーサーの熱烈なファンである筆者は、彼の現役復帰を素直に喜べない。

ランスは勝って当たり前の選手。その勝つ姿以外のランスを見たくない、という気持ちがもう一度ランスの走りを見たいという気持ちより優先してしまうのだ。

ツール・ド・フランスとは自転車のロードレーサー競技の中の最高峰のレースで、3週間、3300kmとフランス・イタリア・スイス・・など国を跨いで行われる。
3300kmという距離、日本列島の北端から沖縄の南端までの距離よりも更にまだ長い。
それも山岳越えを何度も何度もという相当に過酷な競技である。

地元ではW杯サッカー、五輪に次ぐ大イベントなのだそうだ。

日本では自転車のロードレースという競技、あまりメジャーではないが、筆者が言うにはアメリカでも週に2回ほどの頻度で自転車を走らせるアマチュアの自転車人口は800万人も居るのだとか。
大阪もオバちゃんの自転車人口が多いがこれとは意味が違うんだろうなぁ。

自転車のロードレース競技というのは表彰台に上るのはチームではなく、個人なので、一見個人競技のように思えるが実は個人競技では無い。

チームにエースは一人。
他の選手はエースをひたすらアシストする。

一度、引退したエースが復帰する、ということは現在のエースとの確執が生まれるのは必至である。

その所属チームであるアスタナには次のエースであるコンタドールという選手がその位置を占めている。

そんな中へ復帰したランスがツール・ド・フランスに挑む。

このドキュメンタリーでは過去のレースなどの話を交えながら、2009年のツール・ド・フランスの全コースを走り終えるまでを一冊の本にまとめている。

走っているランスの写真が何枚か載っているのだが、実年齢よりも老けて見えてしまう。
そんなランスに自転車のレース界ではおなじみのドーピング疑惑がかかったり、年よりの冷や水的な批難の声が上がったりする。
それに対してランスが「Twitter」を駆使して応戦するあたりは、やっぱり今時なんだよなぁ。

それでもレースも中盤から終盤にさし掛かる頃には、ランスへの視線はどんどん暖かくなって行く。
ギャラリーの声援はもちろんのことだが。それだけではなく、スタッフやコンタドールを除く他の選手たちまでも。

それにしても、一生働かなくてもゆとりのある生活を送れるだけの賞金は稼いだはずのランスが何故また苦しい戦いに復帰する決断をしたのか・・。

レースを終えてしばらくした後のランスと筆者との会話の中にその答えは有った。


ツール・ド・ランス  ビル・ストリックランド 著  安達眞弓 (翻訳)



リストラなう!


この本、ブログがそのまま本になっている。
「リストラが始まりました」というタイトルではじまるブログとそのブログに対するコメント、どうやらそのまま本にしてしまったらしい。

最初の「リストラが始まりました」では、「頑張って!」とか「私もリストラ組です」、「応援しています!」みたいなコメントがついているのが、だんだんと回を重ねる毎に厳しいコメントが付くようになる。

で、このブログ主が実は結構高級取りだとわかってくるとかなり手厳しくなり、とうとうこのブログ主が年収を発表してしまう。そうなるとほとんどその高額年収に対する集中砲火で、もう同情の声はほとんど無くなる。

それにしてもこのブログ主さん、どれだけ叩かれようと、毎度毎度「心が折れました」などと書いてはいるものの、叩かれた内容について反論も激怒もせず、ひたすら「その通りですよね」と続けて行くところが好感度を持たれるのだろうか。

ブログ主はやがてはコメントに対して反省の弁を書く世界から脱して行き、もうこうなったら好き勝手書いてやるとばかりに突っ走り、方やコメントの方もかなり手厳しいコメントは続きながらも手厳しいとはいえ、真剣であまりに真っ当な意見が多いのに驚かされる。

本ではブログ主の書いたブログ本体とそれに対する、コメント、コメントに対するコメントなど、ブログ本体とコメントの割り合いはだいたい半々ぐらいだろうか。

そのコメントを含めてそのまま本になるほどに、コメントの質が高いのだ。

話題は電子書籍になったかと思えば、出版社、取次店、著者、書店の各々の力関係だの、利益配分だの、返本制度の問題点、本来はこう有るべきの類の意見があったり、出版という業界のいい勉強になる。

同じ出版関係の人のコメントもあれば、書店の店員さん、そして著者の立場からの意見などもある。

それぞれのコメントがかなりの真剣なもので、長文なものが多い。

出版業界はどうあるべきかという業界話題から、仕事たるものどうあるべきかという広い話題に至るまで、コメント欄は達者な方でいっぱいだ。

まぁしばらくたってしまえば、筆者(ブログ主)の周辺では知れ渡ってしまったらしいから、そういう身近な人達の書き込みもあったのだろうか。

それにしてもこのブログ、初っ端の投稿があってからもうその翌日にはかなりのコメントが寄せられている。

いくらブログタイトルが人の関心を惹くものであったとしたって、ブログを初めて直ぐにそんなに読者が現れるものだろうか。

この筆者(ブログ主)はもっとかなり以前からブログを維持し、ブログ読者を持っていたのではないだろうか。でなければなかなか説明がつかない。

冒頭にては電子書籍の登場にて、出版社もとうとうリストラか、と言うような流れだったと思うが、そうだったとしたら、電子化でリストラされて書いたものが電子媒体から紙媒体に移って売れてしまう、というのはなんという皮肉なんだろう、と思ってしまうところだが、ブログが進展して行くにつれ、リストラに至る要因が電子書籍でもなんでもなく、もっともっと根の深いところにあることがブログ主とコメントから書き間見えて来る。

いずれにしてもブログとそのコメントとで出来あがるというスタイルとしては新しい姿の出版物が世に出たわけだが、それも筆者(ブログ主)のいかなるコメントも受け入れるという懐深さ無しでは成り立たなかったのではないだろうか。

リストラなう! 綿貫 智人 著



薬指の標本


読んだあと、奇妙で怖い夢を見たような気分になりました。

ざっとあらすじ。
主人公の女性はソーダ工場で働いていましたが、あるとき機械に指を挟まれて薬指の一部を失います。
切断された肉片は機械に飲み込まれ、流れた血がソーダを桃色に染めます。
女性はソーダ工場を辞め、新しい土地で標本室の受付の仕事に出会います。
仕事は簡単なもので、持ち込まれるものがどんなものであっても、
標本にできますと答え、それを受け取るというもの。
標本を作るのは一人の標本技術士。
標本技術士の不思議な魅力に女性はいつの間にか飲み込まれていって・・・。

標本にして欲しいと持ち込まれるものは様々。
多くは辛い思い出が残していった残骸たちです。
できた標本は標本室に保管され、依頼者が見に来ることはほとんどありません。
大抵の依頼者は標本になったことで安心して、先へ歩みだします。

どんなものでも標本にする標本技術士がとても不気味。
主人公の女性の薬指を興味深く眺め、失われた一片に関心を示します。
標本技術士の異様な雰囲気は、生きているものよりも失われたものへの関心が強いように思われるからかもしれません。

私は体の一部を失った事はありませんが、
それなりに元には戻らないであろうやけどをしたことがあります。
今でも傷を見ると、若干残念な気分になりますが、
戻らないものにいつまでも心を支配されるわけにはいかないので、
忘れるよう気持ちを動かします。
標本技術士は、毎日のように依頼者が忘れたいと願った傷と対面して、
それを自分の周りの標本室に保管し続けているわけですから、
不気味なのも仕方ないかもしれません。

結末はちょっと青髭的で、特に納得したりはっきりした落ちがあったりするわけではないのですが、不思議にすとんとお腹におさまる物語です。
悪い夢を見たような、でも眼ははっきり覚めていたような感覚。
薄暗く閉鎖的な空間でありながら、その情景が鮮やかに眼に浮かぶようなのも不思議です。

この「薬指の標本」はフランスで映画化されました。
見ようかなとも思ったのですが、
私の頭の中に浮かんだ「薬指の標本」の情景はそのままにしておきたかったのでまだ見ていません。

原作には比較的忠実な映画だそうなので、
フランスから見た「薬指の標本」の情景を見るのもおもしろいかもしれません。

薬指の標本 小川洋子著