月と蟹


小学校3年生の時に父の会社が倒産し、祖父の住む鎌倉近辺の海辺の町へ転校した小学生。
おまけにその父も他界してしまい、友達が持っているゲームソフトを何一つ持たない主人公の子は友達が出来ない。

唯一の友達は同じ転校生の男の子。

クラスに他に友達はいない。

主人公は東京からの転校生で、もう一人は関西弁バリナリなので関西からの転校生なのだっろう。
この関西弁の子はかなり能動的な子。
この子に友達が出来ないのはちょっと不思議かな。
誰とでもすぐに溶け込んでしまえるような雰囲気を持っていそうにも思える。
だが、ストーリーのは設定上、この子は孤独である必要がある。

その子は家庭ではドメスチックバイオレンスの被害者で、身体にはいくつものあざがあり、絶食させられたのか、あばらが見えるほどに腹がへこんでいる時なども・・・。
家では虐待され、学校では友達が居ない。

彼らは海辺でペットボトルを沈め、ヤドカリや小エビなどを捕まえたりして一緒に遊ぶ。
子供の遊びというものはだんだんとエスカレートして行くものなのだろう。

ヤドカリの殻をライターであぶり、ヤドカリをあぶり出して遊んだり、そのヤドカリ達を飼うための潮だまりを少し登ったところの岩場のくぼみに作ってみたり。
遊びはどんどん発展?して行く。
次にはヤドカリを捕まえて、その殻をライターであぶって出て来たヤドカリを「ヤドカミ様」として願いを叶えてもらうことを考え出す。
二人とも、複雑な思いを持つ少年たちなのだ。

その「ヤドカミ様」への願いが「お金が欲しい」ぐらいならまだ可愛いものなのだが、これもだんだんとエスカレートして行く。

何かしら心の苦しさから逃げ道を探すのは、大人も子供も同じなのだろうが、その方向がなんとも危うい。

この本を読んだ人の評には子供らしいだとか、少年らしい心理だとか、子供の切実な願いだとかそんな言葉が目立ったが、果たしてそうだろうか。

願い事、自分の叶えたい事を願う場で出て来てしまうのが、人の不幸を願う事になってしまった段階で、もはやそんなもには切実でも子供らしくもなんでもない。

それにしても何と言っもその願いを叶えてやろうとする友人の少年にはかなり少し薄気味の悪さを感じずにはいられない。

祖父の語る「月夜の蟹は食べるな」の逸話が表すように、蟹は醜いものの象徴として描かれている。
月夜の蟹は、月の光が上から射して海の底に蟹の形が映り、その自分の影があんまり酷いもんだから・・・・

主人公は自分で自分の気持ち、願いが醜いことにも気がついていて、月夜の蟹の醜さは、主人公の心の醜さの比喩のように使われている。

この「月夜の蟹・・」が本来一番印象に残るべき言葉であるべきなのだろうが、なぜなんだろう。

「カニは食ってもガニ食うな」という祖父の言葉の方が印象に残ってしまった。

月と蟹 著  道尾 秀介 (著) 2011年 第144回直木賞受賞作品

2011年 第144回直木賞受賞作品