月別アーカイブ: 8月 2011



鞍馬天狗敗れず


何故、今 鞍馬天狗なのか。
大佛次郎という明治生まれで、40年近く前に亡くなった方の本が、しかも鞍馬天狗なら連載ものだろうに何故この一冊だけがこの近年になって出版されたのか。

この本は生麦事件の騒動直後が舞台となっている。
生麦事件とは日本史の復習になってしまうかもしれないが、幕末に薩摩の島津久光の行列に騎馬の英国人が闖入したのを薩摩藩士が切って捨て、それが元で外交問題に発展し、英国は40万ドルという法外の賠償金を幕府に求める。
肝心の薩摩はそれは「岡野新助」という架空の人物を仕立てあげ、彼がやったことで、行方不明だからと幕府を無視。
幕府はとうとうその支払いに応じてしまう。

そんな背景の中のお話。
鞍馬天狗は自分が岡野新助だと名乗って、他の英国商人がアヘンを扱っているのを知り、その商人を樽に詰めて海に浮かべてしまう。
その商人を「黒ひげ危機一発」の黒ひげオヤジよろしく樽から首だけ出した状態で身動きの取れない憐れな姿にした上で、アヘンを扱っていた証拠品を岸辺に並べるばかりか、幕府の現地を差配する外国掛りの役人にも送りつける。

これで英国から言われる一方ではなく、向こうへも抗議を呈する下準備をしてあげたわけだ。

岡野新助を名乗る天狗が外国掛りの責任者に言う。
何故、抗議をせぬのか、と。
アヘンを扱っていたのは生麦で切られたのと同じ英国商人だぞ、と。
相手に直面している責任者が臆病風に吹かれて、一歩事を誤ったら、日本の歴史上取り返しがつかぬぞ、と。
信念を持て!
現状を無難に乗り切ることを考えずに日本の末始終を考えて行動しろ、と。
一度、膝を折れば何度も折ることを繰り返さざるを得なくなるぞ、と。
如何なる場合にも国の威厳を損じるな、と。
命を叩きつけるぐらいのつもりで談判してみよ、と。
さすれば必ずその至誠は人を動かす。
敵の軍艦を恐れるな。大したことは敵も出来ぬ。
大砲をぶっ放したところで手持ちの砲弾が尽きればお終い。
上陸戦どころか上陸すら出来ないはず。
恐れるには至らない、と。

ところがその役人は英国へ抗議するどころか、反対に岡野新助を名乗る男を捕えようと懸命になる。

まるで昨年秋の事件と似ているではないか。
尖閣での一連の事件。
あろうことか、首脳会談を開きたいばかりに尖閣ビデオを流出させた国士を捕えようとし、相手に抗議をするどころか、肝心の首脳会談では手持ちのメモを読むのに精いっぱいで始終俯いたまま、相手の顔を見ることすら出来なかった、もはや外交とも言えぬ国の恥を世界にさらしてしまったあの一連。
40万ドルで結着させた幕府どころの話じゃない。
その恥ずべき人もようやく辞めるハラを決めたようだが、あれほどひどいことはないにせよ、彼を総理大臣にと投じた同志の誰かが代わりを務めるわけだ。
まぁ当分、期待するには当たらない。

むろん、大佛が生存していて今の民主党政権のうすら寒さを見て書いたわけではもちろんない。
もっとはるか以前に書かれている。

ただ、今これだけを引っ張り出して出版した側には何らかの意図があっただろう。

上の天狗の現地責任者に対する物言い、何かまるで櫻井よしこさんが民主党政権に一言ブッっているかのようだ。
いやあの方々の政権じゃ、さすがの櫻井さんだってあきれてモノ申す価値にも至ってないか。

この本を出版したのは丁度、前政権が誕生した頃。
だから、何か意図があったとしてももっと前の政権に言いたかったはずで、思い当たるのは、あの何事にも他人事の言い方をしていた福田何某か。

洞爺湖サミット中国の毒入りギョウザの一連対応に関しても、チベット問題に関しても何ら抗議はおろかコメントすらせず、温暖化対策をしない国相手に日本の温暖化対策を約し、この期に及んでまだODAだの、と約すあの無責任他人事総理あたりの時にカチンと来たのではないだろうか。

この手のことは前政権あたりからもう手の付けられないほどにひどいことになって行くのだが・・。

大佛次郎が存命なら、もはや呆れてモノなど書けぬと言い出しかねない。

元へ戻すが、「鞍馬天狗敗れず」というタイトルながら、結局この物語で天狗は「勝ち」は決してしていない。
負けに近いが「敗れず」だった、ということだ。

どのあたりを持って「負け」なのかはさておき、せめて「敗れず」であって欲しいものである。

鞍馬天狗敗れず  大佛次郎 著 大佛次郎セレクション



バイバイ、ブラックバード


同時に5人の異性と付き合うなどということは女性ならいとも容易く出来てしまいそうだが、男にはなかなかそんな器用な事は出来そうにないが、この主人公ならわからなくもない。

全く悪意でもスケベ心でもなく、どの女性が本命でその女性がアソビだった、というような無粋な話でもない。
どの女性とも自然にお互いが親しくなりたいと思い、自然に親しくなっていった結果、自然といつの間にか五股になっていたみたいな・・・。

この主人公、とてつもなく優しくていいヤツなのだ。
だからこそ、自然にそうなっていておかしくはない。

何かは最後まで不明だがとんでもない踏んではならない地雷をこの男は踏んでしまったのだろう。
「あのバス」というのに乗せられてどこかとんでもないところへ連れて行かれるハメになる。
「あのバス」はマグロ漁船など比べ物にならないほど恐ろしい乗り物らしい。
乗ったが最後、まともな人間の姿で帰って来たヤツはいないのだとか。
行き先はベネズエラなのかそのベネズエラのギアナ高地にポツンと置かれるだけなか、さっぱりなのだが、とにかく人間を人間として扱ってもらえない場所らしい、ということだけがわかっていること。

その「あのバス」の組織から遣わされたのが、女としては破格に大柄で(ウソかマコトか本人曰く身長180cm、体重180kg なのだという)柄が悪く目つきも悪いまるで怪獣みたいな繭美という名の異世界人。

黙って去るわけには行かないという男の意向が受け入れられて「あのバス」の出発までの日数を使って、五股の女性一人一人にその繭美と共に別れを告げに行く。

そんな一人一人との別れが一話ずつ短編として繋がって行く。
そしてその一話一話がきれいな話としてまとまっていて、別れるはずなのに、実際に別れることをそれぞれの女性も納得しながらも、もっとその男を好きになってしまいそうな、そんな話が並んでいる。

そんな物語である。

この本の帯には「太宰治の未完にして絶筆となった「グッド・バイ」から想像を膨らませて創った・・」とあるのだが、どうだろう。
膨らませるたって、全然違うだろう。
太宰の「グッド・バイ」の主人公の男はもっとタチの悪いヤツだったはずだ。
しかも10人もの女をスケベ心だけでたらし込んで、愛人として養っていたりする。

グッド・バイを言いに行くというところだけが共通点か。

帯にはもう一行。1話が50人だけのために書かれた「ゆうびん小説」などと書いてある。
これの意味が分からなかったのだが、聞いてみると応募して来た人に抽せんで50人に一話、一話、を送る形式の「ゆうびん小説」なのだそうだ。

これって通しで読まなくて、途中の一話だけ送って来られたらそれこそ、続きやら、この前の話は?と、溜まらないんじゃないのだろうか。

その250人は単行本になった時点で真っ先に買いに走ったんだろうな。

それにしても一冊にしてくれて良かった。

消化不良ほど健康に悪いことはない。

バイバイ、ブラックバード  伊坂 幸太郎 著 双葉社



放射線のひみつ


この8月6日にあの寒ナオトいや菅直人という人が平和記念式典に出席して、反原発・脱原発をぶち上げる演説をする、というウワサがある。

現在、8月6日の未明なのでその真偽はまだ定かではないが・・。
今回の3.11の大惨事によって多くの日本人が悲しみや苦しみの居、未だ先の見えない不安の日々を過ごす。
そんな中で唯一、今回の大震災を喜んでいるとしか思えない男が日本のリーダーの立ち位置に居る。
福島の原発事故を嬉々として喜び、反原発・脱原発を叫ぶことでなんらかの人気を回復させようという魂胆だったなのだろうか。
見え過ぎていて反原発・脱原発で一致しているはずの人たちですら、もはやほとんど支持する人間はいないだろう。
この男の目的がさっぱりわからない。
嫌われていることが喜びなのか、嫌われてからの方が寧ろ元気になっているのはもはやヤケクソなのだろか。
そして目的のわからぬパフォーマンスのみをさらに嬉々として演じ続ける。

復旧・復興を国のリーダーが進めずとも東北各地域は独自に徐々にではあるが復旧しようとしている。
その復旧・復興というものから全く除外されてしまっているのが、福島の避難勧告地域。
人の姿が全く無くなったゴーストタウンになろうとしている。

原発事故の被害にあっているのは何も避難勧告地域の人たちばかりではない。

牛を育てていた畜産農家はとうとう福島、宮城、岩手に続いて、栃木県までもが県内全てで出荷制限。
被害はそれでとどまらないのは明白だ。
牛の次はなんだ。
米も新米は売れず、古米が売れるのだとか。

放射能漏れ、放射能に汚染された牛、野菜・・連日のように流れる報道。溢れる報道。
福島の牛肉だろうが宮城の牛肉だろうが、買って食べるよ、という人が居たってどこにも売ってやしない。
参加組合内で福島産の野菜や牛肉を買うべく働きかけをしようじゃないか、と言ってみたところ、各々賛意はあれど、手段がないので最終的には誰もが口をつぐむ。

別に子どもや赤ちゃんや妊婦の人に食べてもらおうと言うのではない。
もう40も50も過ぎた人ばかりなら、別にいいじゃないか。
出荷停止をするよりも購入者に選ばせてくれないか。
もしくは免許制じゃないが、40や50を過ぎた人は免許証を見せて購入許可をくれるとか、なんとか出来ないのか。

懸命に生産したものを捨てるしかないという無力感。ものを生産した人なら誰しもわかるだろう。これをなんで救えないものなのだろうか。

この「放射線のひみつ」という本。
おそらく読んで反発を覚える人は多いだろう。

何故なら「放射線は大して怖くない」ということを説いているからで、「そんなことまだ立証されていないだろうが」という反発は当然ながら出て来るだろう。

それでも「放射能」とは「放射線を出す能力」のことである、カタチあるものではないからして、「放射能漏れ」だとか「放射能を浴びる」だとかという表現は間違っているのだそうだ。連日の報道は言葉を間違えて使っているわけだ。
「被ばく」は「被爆」では無い。とか。
まずこういう言葉の説明から始まり、次にXXシーベルトなどの単位についての説明。

そして、放射線は普段から身の回りにあるもの。という説明。
100ミリシーベルトで発がんの可能性が0.5%云々の説明。
日本人の1/3はがんで死亡するのだという。
100ミリシーベルトでがんによる死亡率が33.3%から33.8%に増える・・云々の話。
いずれもわかりやすい。
平易な言葉で書かれている。

ただ、ここで書かれていることはもう大半は知っていることだった。
早朝のローカル番組でそういうことを毎日解説する人が居る。
彼ははそういう話をしながらも自らの原発に対する立場は明確にはされない人だったが・・。

中部大学の武田教授というCO2は削減するな、で昨年あたりから急に名を知られるようになった先生が居られる。
この先生、原発推進から反対に100%舵を切られたことでも有名なのだが、先日、講演を聞く機会が有った。

講演の中で武田先生が言うのは何シーベルトがただちに健康に害がある云々よりも寧ろ、それを強制されて吸わされたことに腹を立てておられる。
この先生、禁煙運動とかは大嫌いで、自分で好きで健康に害があるとわかりつつも吸っている人はそれでいいじゃないか、という論者。
自らはお吸いにならないので自分では吸わないが、吸いたい人はどうぞ吸って下さいな。但し、自分にはタバコの煙を吹きかけないでくださいよ。
だって自分は吸いたくないんだから・・・。
放射線も同じことで自ら、好んで浴びたいのなら構わないが、浴びせられたくもないのに浴びせられる。こんな不愉快なことはない・・と。

そう。
中川先生が「放射線はさほど怖くはないんです」とこの本で説いていたとしても武田先生の言う通り、誰しも自ら好んで浴びたいわけではないわけで、強制的に浴びせられることに対しての憤りというものを解決してくれているわけではない。

それでも思う。
強制的に浴びせられてしまった農家の産物を救いたい。
それこそ好んで口にしようというのだからそれはこちらの自己責任においてである。

世の中、好き好んでタバコを一日二箱も三箱も吸う人だっている。
もちろん自己責任においてである。

どうか、強制的な出荷停止などではなく、自己責任の上で買えるようにしてはもらえまいか。

いや、あのパフォーマンス男が居座る限りは何をどうせよ、と言っても無駄か。

放射線のひみつ、中川恵一 著