読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



ばくりや


この本のタイトル、「ばくりや」だったんだ。
「ぱくりや」だとばっかり思っていた。
人の能力をパクる「ぱくりや」なのではなく「ばくりや」。

なんでも「取り替える」という言葉の方言なのだとか。

この取り替え屋さんの宣伝文句、「あなたの経験や技能などの『能力』を、あなたにはない誰かの『能力』と交換いたします」という素材だけはそのままにして、いろいろな作家に同じ素材をもとに書いてもらったらさぞかしいろんな「ばくりや」物語が出来て面白いんだろうな、などとと思ってしまった。

決して乾ルカさんの話が面白くないと言っているわけではないのですよ。

とにかく女性にもてて、もてて、持て過ぎてうんざりする男が交換で得た能力は何故か刃物を研ぐ能力。

その次の編では、とんでもない雨男、並みの雨じゃない、暴風雨で事故を起こしかねないような雨を引き寄せる能力を持つ男の話。

務めた会社を必ず倒産させるという特殊能力を持つ男の話。

こういう短編的な作りも有りだろうけど、何か最初の能力をもらった人はどうなの・・みたいなところがちょっと気になったりして・・。

とにかく女性にもてて、もてて、持て過ぎてうんざりするほどもてる、という能力が次から次へといろんな人に交換されて行く展開か、もしくはもてもて君が次から次へと違う能力へと交換して行く展開だとか、なんだか中編にすればいろんな話の展開になりそうで、ついついそういう話の展開を期待してしまったのでした。

全部で七章あるのだが、途中から少々おもむきが変わって行く。
ドラフト一位で入団した我がまま男のダメダメぶりあたりから、能力交換が話の主体かどうかさえわからなくなって来る。

その次の「さよなら、リューシン」なんていうのはもはや交換の話じゃないだろう。単なるいい話だ。いい話を単なると言ってしまうのもなんだかおかしいが。

どんな特異でどうしようもないような能力だって、人によっては、もしくは使い方次第では案外プラスに使えるのかもしれない。

入社した会社を尽く倒産に追い込んでしまう、なんていう不幸な能力はそれこそどうしようもないかもしれないが、どこかを潰したいと思っている人が誰かを使って利用しようとするかもしれない。

最後の二章はその人のタイミングが悪いのかタイミングがいいのか、受け取る人次第みたいな能力。

いずれにしてもホントに不幸を招く能力でない限りは持って生まれた才能は大事にしなさい、ということなのだろう。

ばくりや 乾ルカ著 文藝春秋



春告げ坂


江戸の小石川養生所で働く若い医師とその周辺の人達を描いている本。

小石川の養生所というと山本周五郎の赤ひげ先生を思い浮かべてしまう。
てっきり、どこかのタイミングで赤ひげ先生が出てくるものだとばかり勝手に思いこんでしまっていた。

蘭学が出来れば・・・蘭方医であれば・・治せたかもしれない病の人が一人、一人と亡くなって行く。

小石川の養生所は官が仕切っているところなので、医師は死者を出せば査定に響く。

だから要領のいい医師は「治らない」と見切れば、強制退去をさせて行く。

そんな中で最後まで看取ってやろうという若い医師。
そんなの人情話を一編、一編重ねて行くのだろうと思っていたが、どうやら違った。

それだけでは無かった。

この話、武士の物語だった。

彼の父、上役の詰め腹を切らされたと聞かされていたが、父の生き様はそんなものでは無かった。
そこは物語のクライマックスなのであまり触れない方が良いのでしょう。

それにしても方や腹を切る父、方や切った腹を縫合する医師という職業の息子。
そんなことを因縁めいて書いている訳ではないが、なんとはなく因縁を感じてしまった。

小石川の養生所は幕府が設置した医療施設で実在したものだ。

こういう無料で一般市民向けの養生所のような施設は日本には奈良時代から存在している。

医療のグローバル化など言われて久しい昨今。

タイのバンコックあたりでも世界の先端治療が受けられるのだとか。

とはいえ、それはあくまでも高い渡航費用を支払うことの出来る外国人に与えられるものであって、バンコックの市民に与えられたものではない。

21世紀の現代にあっても、ほんのちょっとの医療がない、もしくは不衛生が原因でまだまだ若い人たちがいとも容易く亡くなって行く国が世界にはいくらでもある。

この養生所の看護中間たちがばくちにうつつをぬかすのはご愛嬌のうちだろう。

あらためて日本の先人たちのすばらしさを思わずにはいられない。


安住洋子『春告げ坂―小石川診療記―』|新潮社



獺祭


南国の小さな藩が舞台。

いわゆる剣豪小説という範疇の読み物だ。

道場主の主人公の目標は戦わずして勝つ。
いわゆる究極の強さを目指す。
あまりにも強いと評判になると、向って来ないだろう、というもので、さしずめ現代で言うところのナントカの抑止力を目指しているようにも思える。

と、言いながらも自ら編み出した秘剣というやつを使って一撃のもと、刺客を殺してしまう。
しかも二回も。
なんじゃそりゃ。

物語は四篇から成り、弟子の家庭での問題やらをその面倒見の良さで解決して行く話の運びが中心だが、剣についての描写よりも寧ろ軍鶏(しゃも)についての詳細な描写が印象に残る。

かわうそが捕まえた魚を岸の石の上などに並べるさまを獺祭(だっさい)というのだそうだ。
彼の正岡子規が名乗った号はいくつもあるが、その中に確か獺祭書屋主人という号もあったかと思う。

獺祭という響き、やけに文学的な匂いがするのだ。
この本、軍鶏好きの道場主の語。

主人公が獺祭の場面に出会う以外、獺祭とは無縁である。
何故そのような文学的響きのタイトルを付けたのだろうか。

この作品の前に「軍鶏侍」という一冊があったようだ。
ならばサブタイトルにある様に単純に「軍鶏侍(二)」のタイトルで良かったろうに。

へたに「獺祭」などという深みのありそうなタイトルをつけるものだから、読者は途中まで平坦に来ても、いやいや、これから深みが出て来るんじゃないか・・・。
と返って期待されて少々損をしている気がする。

タイトル負け、と言っては作者に失礼だろうか?

獺祭 軍鶏侍 野口卓著