読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



虚空の冠


戦後まもない頃の日本。
新聞はGHQの検閲無しには出版出来ない。

それでもダメモトでも真実を伝えようとする気持ちは失ってはならない。
そんな先輩の教えを受けるまだ駆け出しの主人公記者。

緋色島という三宅島や八丈島の方面の島と思われる島で火災が起こったとの報を受けて、船に先輩記者と船に乗り込んで、その取材に行く。
通信手段は伝書鳩。

そこでその船はアメリカ海軍の軍艦に衝突してしまう。
その軍艦は救助を行おうとはせず、乗船していた50名の乗客は海の藻屑と・・。

その中で唯一生き延びたのがこの主人公。
衝突したのと同じアメリカの軍艦に助けられる。

帰国した後に、なんとかその衝突事故を無かったことにしたいアメリカの意向を汲んだ、会社の上層部、政府関係者に説得されるが、50名の命を無かったことにするのか、という正義感からなかなかその説得に首を縦に振らない。

それがそもそもの始まり。
結局、報道しようにも検閲があっては伝えられない。
GHQの主な役割りも終わり、下手な動きをすれば報道の自由はもう目前に来ているのがご破算になりかねない。

結局、上の意見に従うわけだが、それからがこの主人公記者の活躍が始まる。
政治部記者のエースとして名を上げて行く。

そして、やがてメディアの頂点へと上り詰めて行く物語なのだ。

この記者氏、あのナベツネ氏がモデルか?と瞬時思わう瞬間もあったが、そんな特定の人ではなく複数の人物をモデルとして、作り上げた架空の人物といった方が正しいのだろう。

エンディングを書いてしまうわけにはいかないが、著者はこのやり手経営者の手法に批判的なように読めなくもないのだが、果たしてそれは批判されるべきものだっただろうか。生きるか死ぬかの戦い。敵も業界そのものを潰したってなんとも思わない連中だ。

唯一批判されるべき箇所があるとするなら、冒頭の衝突事故。
ジャーナリズムに身を置く人間としてやってはならないことをやっている。
ご時世柄、「報道しない」までは止むを得ないだろう。
生き残りの一人ではあるが、ひたすら沈黙を守れば良いものをあろうことか「機雷にぶつかって撃沈した」などとの虚偽を語ってしまっては、もはやジャーナリストでは大失格だろう。
だから、二度とその話題にはふれない。
そう、本人が二度と真実を語れないように、語ったが最後、自らの記者人生を終えることになることを見越して虚偽の事を語るように上の連中は指図したのだろう。
あそこで沈黙を守る、という選択肢を告げ、念書をしたためればそれはそれで上は充分納得しただろうし、その後の展開を見てわかる通りあそこまでのやり手である。
いずれは頭角を表していただろうに・・。
批難されるべきはその一点のみではないだろうか。

戦後まもなくの時代からラジオ、テレビ、インターネットと情報伝達の手段は様変わりし、行き着いたのが携帯電話会社が打ちだそうとする、電子書籍端末。

それが一旦プラットフォームとなってしまえば、その会社は通信会社としての地盤はもちろんゆるぎないものとなり、いすれは衰退していく出版、コンテンツの世界も一気に飲みこもうとする。

その会社との攻防が後半のクライマックスの見どころである。

それにしても著者そのものが執筆したものも紙媒体で雑誌に出、その後は書店に並ぶというスタイルだけに電子書籍の問題点なども良く承知しているものと思われる。

著作業という職業、新聞や雑誌の連載を書いている間は月給をもらう人に近く、単行本となった後に入って来る印税はボーナスみたいなものなのだとか。
やはりどこかで安定収入を確保して・・。ということなのだろう。

一旦、電子書籍に全面移行となれば、今の出版社のように初版を何万部とするか、という選挙の票読みのようなことをする必要が無い。
返本という制度も無くなる。
印刷所も要らなければ、流通も不要、在庫も要らない。
読者にしたって本だなから本が溢れる心配をしなくて済む。

だが、作者の立場から言えば、ダウンロード件数というずばりそれだけが収入の糧となるわり、これまでの安定収入というものはもはや無くなる。

だからと言って楡氏は電子化に反対の書き方をしているわけでもなんでもない。

どちらかと言えば、いずれはそうなるんだ、という書き方だろう。

とは言うもののこの「虚空の冠(上・下)」卷は小説新潮の2009年6月号から2011年5月号までというかなりの長期期間の連載を経て、2011年に単行本化されている。

書きおろしならまず切り捨てていただろう、連載物ならではの繰り返しが少々目につく。
司馬遼太郎本などでもよくあったことなのだが、あれは繰り返し繰り返し読ませられることによって、歴史や時代背景の復習に役立つ、という味わいのあるものだった。

この本は一気に読み進められる本だけに、電子書籍のメリットデメリットを語るシーンなど、何度も同じ事が何度も語られている箇所が、余計に目についてしまった。

楡氏も安定収入期間を長く保ちたかったのだろうか。


虚空の冠 (上・下巻) 楡 周平 著 新潮社



匂いの人類学


人間は何種類の匂いを嗅ぎ分けられるか。
3万種類を嗅ぎ分けられると言うジャーナリストも居れば、1万種類としたプレス・リリースも有った。
しかし、それはどれも根拠の無い意味の無い数字だった。
「なんてこった」と筆者は嘆くのだった。

この人、自身では調香師のように臭いをかぎ分けられるわけではないのだが、まぎれもなく、「匂い」の専門家だろう。

これだけいろいろな切り口から「匂い」というものを切り刻んだ本があるだろうか。

いったい匂いというのはどれだけの種類があるのか。
それを専門にする人達はソフトウェアのサブモジュールよろしく、上位からのカテゴリ分けの下の下位モジュールが幾層にも連なる方式で匂いを管理する。

そのカテゴリも時代やその専門とする業種によりさまざま。

そうして匂いというものを分析する人達がいるかと思えば、驚くべき実験結果が記述されている。

瓶の中の液体を綿の塊に沁み込ませて学生たちに嗅がせたのだという。
何か匂いがしたら手を上げるように指示すると3/4の学生が手をあげた。
だが、実際にその瓶の中の液体は全くの無臭の水なのだった。

匂いというものが、方や奥が深いものであるにも関わらず、人が感知する匂いはかなり心理的な要素に左右される。

別の実験では、ラジオで超高周波の音を流し、心地よい田舎の香りが流れる音だと説明すると、多くのリスナーが干し草の匂いがした、牧草の匂いがした・・・などと感想を報告して来たという。
もちろんラジオから匂いなど流れてはいない。

いかに「匂いがする」と思うことが直ちに匂いを感じることに繋がるのかを示した貴重な実験結果だ。

そのほかにも、マリファナの匂いのする印刷を頼まれた業者の話。
マリファナの匂いやコカインの匂いを作ることは果たして合法なのか。

料理と匂いの関係についての分析。
匂いがあるからこそ、風味というものが生まれる。
無臭のコーヒーなど誰が飲みたいと思うだろうか。

また「匂い」をマーケティングに利用しようという試み。

ありとあらゆる角度から「匂い」というものを分析している。

匂いについてだけで全12章。

なかなかにして値打ちのある本だと思う。

匂いの人類学 鼻は知っている エイヴリー ギルバート (著)  勅使河原 まゆみ (翻訳)匂いの人類学 鼻は知っている エイヴリー・ギルバート著 勅使河原まゆみ 翻訳



ディアスポラ


「ディアスポラ」、「水のゆくえ」の二編が収録されている。

いずれも日本で途轍もないどでかい原発事故が発生して、日本から日本人が逃避する世界を描いている。

福島第一原発から半径20キロ、30キロと何キロと同心円を描いて、その中は真っ赤な色で警戒区域だとか計画的批難区域だとか、っていう地図をニュースで何度見たことだろう。
あろうことか、日本列島そのもの全部がその同心円の真ん中の真っ赤な区域になった、という設定なのだ。

日本列島全部って、沖縄まで入れたて同心円を描いたら、それこそ朝鮮半島はもちろん、中国沿岸部の一部やひょっとしたらロシアの一部もその円の中に含まれるんじゃないのか。

そもそもあの原発事故以降、日本の作家という職業の人がニュース番組のコメンテーターにでも登場するや必ずと言っていいほどに、反原発を訴え、アナウンサーもそれにうなずく。

反原発というよりも将来的には脱原発で、という方向性はおそらく日本人の総意に近いだろう。
それでも、目下をどうするのか。
検査のために一時停止したものを検査を終えた後に元通り動かさせない、というのは一体どんな理屈からなのかさっぱりわからない。
徐々に減らして行くなり、発送電を分離したり、代替エネルギーを開発推進したり、ということに反対な人など電力会社の社員でもない限りはそうそういない。

それでも尚且つあの検査一時停止=再稼働はダメの理屈はわからない。
あの管と海江田が浜岡停止を高らかに宣言した事にこれほどに踊らされなければならないものなのだろうか。
停止させたって燃料棒はこれまで通り冷やし続けなければならないだろうし、停止即ち危険が去ったわけでも無かろうに。
それにエネルギーの安定供給が保障されない状態では優良な製造企業の海外逃避にますます拍車がかかり、最終的に日本に残るのは補助金で食い繋ぐようなところだけになってしまいかねない。

勝谷誠彦という人を作家の一人と思ったことはかつて一回も無かった。
なんでもテレビで引っ張りだこらしいのだが、私は日曜日の午後に首都圏以外で放映される「なんでも言って委員会」という番組でしかみたことがない。
まぁ、あの番組だけでも充分に個性は伝わっているとは思うが・・。
それでも「反原発」という旗を鮮明にしていたかどうか、あまり記憶の中には残っていない。

こんな設定の本を書いて出す以上、かなり熱烈な反原発の闘士じゃないか。
あの番組では三宅久之氏の発言が最も強いので、「先はどうあれ当面動かさなきゃ仕方がが無いじゃないか」という三宅氏を恐れて爪を隠していたのか。
官僚や東電の事を糞みそに言うのは何度も聞いたことがあるし、俗称「オーランチキチキ」のオーランチオキトリウムを!と訴えるのも何度も拝見したが、三宅氏の当面仕方ないじゃないか、に噛み付く姿は見たことがなかった。

勝谷のやろう、変な終わり方したら本を叩きつけてやる。
などと過激な思いで読み進めて行ったわけだが、結論から言うと実は思いは変わった。
「反原発」などはテーマでもなんでもなかった。
原発事故は単なる設定でしかなかった。

日本からの避難民は世界各国へ散る。
「ディアスポラ」はその避難民の一部がチベットへと移され、そこで中国の人民軍の監視の元、避難生活を送る。

あまりにもチベットの様子に詳しい。
これは本来チベットの事を書くつもりで取材をしたに違いない。
それこそチベットを舞台とした物語はほぼ書き終えていたのではないか、そこへ来てあの3.11が起き、原発事故が起きて急遽失われつつあるチベットに日本民族を重ねてみようとしたのではないか、などと思っていた。

もう方やの「水のゆくえ」も酒造りのことを徹底的に取材していなければ書けないシロモノで、醸造会社にでも勤めていたのではないか、と思うほどに酒造りの詳細が書かれている。
その造り酒屋がダム建設でいじれは立ち退かなければならなくなった時に知事が代わった。
その知事を流れる水のようだ、とたとえれれている。
この流れる水の知事はかつての長野県知事の田中康夫氏を頭においているのでは?そういえば勝谷氏が田中康夫氏の応援演説をする姿を何かで見たことがある。

酒造りという柱を元にかなり書きあがっていたのではないか、そこへ八ッ場ダムの建設から建設中止へ・・そしてという紆余欲説を織り交ぜようとしたのではないか、ところがそうこうするうちに起きたあの原発事故。ダムの建設中止のあとに発生する日本全体を覆う原発事故。
誰も居なくなったところで杜氏と二人で誰も飲まないだろう酒を造り続ける。

そんな展開で出来た本ではなかろうかなどと想像を巡らせながら読み進んで行った。

まさか、だった。

巻末を見るまで気がつかなかった。

この本、初出誌はなんと2001年と2002年なのだ。
10年前に書かれていた。

雑誌に掲載されていたのだった。本としての出版は2011年8月だが、「文学界」という雑誌に載っていたのだった。

一旦発表したものを若干の表現を直すことはあってもあらすじを直すわけがない。

ディアスポラとはユダヤ国民がローマ軍に滅ぼされてからの民族離散のことを言うのだという。
彼らユダヤ人たちには、離散しても自分たちはユダヤ民族であるというアイデンティティの根幹を成すものが有った。
日本民族に果たしてそれがあるのだろうか。
日本民族と言ったって列島で同一民族が暮らしているだけではないのか。
離散したあとの日本民族にとっての日本民族たるアイデンティティは何か。

それがこの「ディアスポラ」のテーマである。

あのチベット問題を北京オリンピックの聖火リレー前に取り上げていた人はそんなに居ないだろう。
ましてや原発事故による避難民を10年前に取り上げて、小説にしている人などそうそういない。

事故前に書かれたのか、事故後に書かれたのかがそんなに大事か、と聞かれれば、そりゃ違うだろう。
あの事故後にいくらテーマは実は別のものだ、と言ったところで、あえてこの設定で書く行為そのものに嫌悪感が走っていたかもしれないのだ。

いやぁ、上でぼろくそに書きかけてしまってなんなのですが、勝谷さん、なかなかやりますねぇ。
見直しましたよ。
ってそれもなんか上からっぽい言い方ですね。失礼しました。
ぞれにしても、もっと早くに出来れば事故前に単行本化してりゃ良かったのに・・。
それこそ大評判で売れまくっていたんじゃないでだろうか。

いや、このままでも充分にこの本、売れまくっているか。

『ディアスポラ』勝谷誠彦 著 文藝春秋刊