読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



天の方舟


日本の政府開発援助(ODA)というものの、大半が日本企業が受注することがお約束の紐付きだろう、とは大抵の人が思っていることだろう。
その紐付きにするためになんらかの事前協議?それがいわゆる談合?的なこともあるのだろう、ぐらいのことは誰しも思うことだわな。

それでもそれをこれだけ赤裸々に賄賂だのそのさや抜きだのを書かれると、一般的な感想としてはどうなんだろう。
「まぁ、それぐらいのことはやっているわな。ふむふむ」という感想なのか、

「そこまではいくらなんでも・・・。もしそれがODAの実情ならそんなものはやめてしまえ!日本国民の税金なんだぞ」 という怒りの感想なのか。

それとも逆に
「えっ、そんなものだったの?もっとやってるでしょ」 という感想なのか。

ODAを拠出する⇒その金で他の国が開発を受注していたら、それこそ何やってんだ!みたいな声が上がるんじゃないか?

国内の企業が受注する⇒国内の企業及び傘下企業が潤う。⇒税金として返って来る。しかも相手国からも有り難がられる。
そんな図式を想定するのが一般的かな?

その日本企業が受注する際の受注合戦の中で、賄賂が飛び交う。
普段はあまり考えることがないが、賄賂が当たり前の国というのはまだいくらでもある。
「ODAを拠出する⇒拠出した国(賄賂を要求する国)側に発注先を決める権利がある」ということはあまり結びついて考えていなかったのかもしれない。
ならば、賄賂をもらうのが当たり前の国で大型インフラ開発を受注するのに金が付きまとうのはごく当たり前だったか。

そこまでは 「まぁそういうこともあるだろう」 なのだが、日本の企業戦士達は自社の受注のために相手国の元首や高級官僚に賄賂を用いても、その金を自らの懐に入れるということはしないだろう、そう思うのが日本人。
確かにそこまで行ってしまえば 「国民の税金で私服を肥やすとは何事だ!」 になってしまいますわなぁ。

この本で描かれるのは京大の農学部出身の女性。
数多くの登場人物がある中で主人公女史だけが学歴を明記されている。

学生時代は全く目立たない存在。
家賃・生活費を自前で稼がねばならない、どころか実家の親に月10万もの仕送りまでしなければならない。
まるで外国からの出稼ぎ労働者の如く、金に倹しい学生生活を送った彼女。
その彼女だからこそだろうか。開発コンサルという仕事のうまみを知るや、なんとかそのうまみを知る側に廻ろうとする。

政府開発援助にて国際貢献をしたい、という敢えて表面的な青臭い志望理由を掲げて開発コンサルに入社するや、青臭いふりをしながらなんとかそのうまみのある仕事に就こうとする。

それにしても冒頭のタンザニアの例はさずがにひどいなぁ。
名目上は 「貧困にあえぐ地域を外国へ輸出出来る米作りの出来る水田地帯に変えることで地元の人の暮らしを豊かにする」 はずだったものが、実は地元の人はもともと現状に満足していた。
トウモロコシを作って果物も豊富でドブロクを飲んで貧困でもなく不満のない生活を送っている中、いきなり水田耕作地プロジェクトが、何ヘクタールものトウモロコシ畑をブルドーザーで潰して行く。
しかも仮に水田が出来あがったところで、降水量の少ないその地域での収穫はあてにならず、しかも米が出来たところで、国際市場では既に相手にされないだろうことも事前に予測が出来ていた。
地元の人と一旦仲良くなった後だけに、地元の人から恨まれるわ、となんとも後味の悪いプロジェクト。そんな無駄を通り越して迷惑をかける、もっと言えば人の幸せを奪うだけのプロジェクトに三十数億の日本の税金が使われる。

これは単なる一例にしか過ぎないのだろう。

貧困にあえぐ人達に愛の手を!という類の寄付金などですら、もはや単にお金を渡すだけでは本当の助けにはならない、と「援助」そのものが見直されつつある昨今だ。

ODAも変わりつつあるだろうし、変わっていくのが必然だろう。

それにしても主人公女史、タンザニアを経験した後も積極的に現地での仕切りの仕事を追い求め、とうとう仕切り役としてのおいしい仕事にありつくわけだが、途中の記述に抜いて貯めたお金が3000万・・などとある。
何千億プロジェクトをいくつも手掛け、地元の所長として金の差配までした上に自らおいしい仕事と言っておきながら3000万のわけないだろう。

ということで冒頭の感想選択は、最終的に
「えっ、そんなものだったの?もっとやってるでしょ」 に辿りつくのです。

天の方舟 服部真澄 著



きつねのつき


なんなんだー!いったい何が起きているんだー!と叫びたくなるような本だ。
冒頭では、まだ幼児言葉から抜け出せていない、かわいい盛りの娘が覚えたての言葉を使って話すほのぼのとした風景から始まる。

それがどんどんいびつな世界へと様変わりして行く。

母親が家の天井と一体化している?天井から突き出た乳房から子供が母乳を吸っている?
どうやら主人公氏の妻は何かの事故で亡くなっていたようだ。
主人公氏は亡くなった人を再生させる能力を持っているらしいのだ。
再生した妻は天井と一体化し、そしてその子宮から産まれ出たのがその娘。
結果として 「幸せを与えられた」 と主人公氏は語っている。

妻が天井と一体化している以上、どれだけ隣家のドラ息子が騒音を出そうと、ここを離れるわけには行かない。

これは一体全体何を表しているのだ?

「今日寝たら春になる?」 と娘。
「まだまだ」 と答える主人公氏。

これは何を表しているのだ?

保育所でのお楽しみ会という学芸会のような場で、先生がナレーションを語るあたりからこの話が何を表現しようとしているのかがおぼろげながら見えてくる。
劇の中に登場する「哺乳瓶の中に閉じ込められたこの国の未来をになう特別な赤ちゃん」。
途轍もない大音響の爆発音とともに瓶から無理やり出された赤ちゃんはみるみると大きくなり、人工巨大人となる。

「まだ、死んでいません。この国を守るためにまだ生きているんです」
「いつかは起きて立派な働きをするはずです」

ナレーションは続く。

「国は土とかいろんなもので覆い隠しました」
「やがて周りの町ごと高い塀で囲い込みました」
「わが国の秘密を守るために昔話にして忘れようとしました」
そして、「だから今も生きています」 と続いて行く。

これは何を表しているのだ?

この赤ちゃんこそ、ウランとかプルトニウムと呼ばれる物質、もしくは原発の炉心そのものなのではないか。
それが、あの事故で格納容器を飛び出した。

その結果の大量の放射性物質が人工巨大人か。
ということはこの物語は人も国も数年後には忘れさろうとするであろう、とした福島第一原発の周辺の未来図ということなのか。

「もちろん今も生きています」 か。
なんというアイロニーなんだろう。

そう読んでみれば、冒頭の方にいくつもの比喩が隠されていることに気が付く。

隣家のトラブルが騒ぎになるか、と心配した時も
「どうせ七十五日ほどのことだろう。この世界に起きる大抵のことがそうであるように」 と意味深な言葉で結ばれているし。

保育所へ入れる際の「お役所相手ならゴネなきゃ損だ」というのも何かの比喩か。

役所の地下にあった浄土と呼ばれる場所で勧められる「最新型追加年金」のプランは何の比喩だろう。
「主人公は国民です」 のパンフレットの文字がやけに印象的だ。

何気なく読み飛ばしてしまいそうな箇所に散りばめられていた比喩。
お天気キャスターのおまけの一言 「風向きにはご注意下さい」 という言葉もそうだろう。

防護服をまとってやってくる放送局の下請けと称する男。

いつの間にか周囲を覆うフェンス。そこに書かれた「廃線予定地帯」というプレート。

「どおんっ」という縦揺れ。
頭上のヘリコプター。
家へ帰りたいと願ったら、妻を中に入れたまま、家が目の前へ転げ落ちて来る。

これは地震のあとの津波によるものだろう。

頭蓋骨にマイクのようなものを突き立ててぐいぐいと射し込んでまでして情報を引き出そうとするレポーター。

なんというすさまじい物語なのだろう。

この本、出版社の河出書房新社の紹介では「全国学校図書館協議会選定図書」なのだという。
それがどれほどの選定基準なのかは知らないが、肉片が飛び散ったり、腐肉を蛆がミチャミチャと咀嚼していたり、そんな描写がいくつもあるにも関わらず学校で読むべしと選定するあたり、選定委員もかなり読みこんだのだろうと思う反面、被災地域の人達にとってこの本はどう映るのだろう。
天井と一体化した妻だとか、腐臭の漂うような描写だとか。

作者は現実を見て来たのかもしれない。
もしくは現実を見た人の生の声を聞き続けたか。
被災地域で、実際に海へ潜って行方不明者の捜索をした人達はまさに地獄を見たと語っていた。
現実の壮絶さを感受しまったからこそ、逆にまるで絵本のような表紙を使い、表現もやさしい子供向けの言葉を使って、時には人工巨大人の肉を食べると直らない病気が治り、死んだ人が生き返る、というようなきつねにつままれたような話を盛り込みつつも、小さな娘を登場させ、ほのぼのとした雰囲気の物語に仕上げたかったのだろう。

やがて埋められてしまう土地でも、やっぱりここに住んでいたい。
そんな死者達の叫びをやさしい物語を使って霊になり代わって語ろうとしたのかもしれない。

そう言えば、この本のタイトルは「きつねのつき」。

きつねの霊に取り憑かれた異常錯乱者は、決して被災した瞬間の被災者達ではないだろう。
あれだけ沈着冷静で秩序正しい人たちは世界中見渡してもいないに違いない。
異常錯乱者は国であるとか、レベルは違うがこの物語で言うところのレポーターにあてたものなのだろう。


きつねのつき 北野 勇作 著    河出書房新社



現代日本の転機


著者は執筆前に韓国、中国に2~3年ほど滞在し、日本へ帰って来てあまりにも日本人が無力感、閉塞感を持ちすぎていることに驚く。

あまりにも被害者意識が強すぎるのではないか。
団塊世代 VS 若者世代、男性 VS 女性、正社員 VS 非正規雇用、都市 VS 地方・・・と対立の構図と目されているものはあるが、各々が被害者意識をよる他者攻撃を行っている。
日本人は結局何に怒っていて、どうしたいのか。
外から見た日本人に対する疑問と同じ疑問を著者は抱く。

日本はかつて福祉国家では無く、福祉国家である必要がないほどの福祉社会と呼ばれた。
そんなバブル崩壊前の「超安定社会」は二度と来ない、と誰しもわかっているはずである。
しかしながら対立の構図から浮かび上がるのは過去の超安定社会を求めているものに他ならない。

日本型終身雇用制度をはじめとする日本的経営は海外からしてジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれる一方で、長期雇用の弊害やエコノミックアニマルと呼ばれるほどのゆとりの無さが問題視された。
自民党型分配システムも公共事業による中央から地方への分配によって地方の雇用を維持させた安定社会を支える反面、腐敗の温床と批判された。

だからゆとりを重視したゆとり教育や、個人の自由、新しい働き方を求めた結果が現在だろう。
またまたそれが蒸し返されて、ゆとり教育は全否定。
自民党型分配システムは構造改革の推進にてその姿を無くした。
個人の自由や新しい働き方もそれまでとは正反対の位置づけで、保護されるべき人たちになってしまっている。

かつて良かれ、と思われて推進したことも一部は確かに良かったが、中にはその根本が否定されてしまうというのは、結局は世の中景気次第ということなんだろう。
とはいえ、リーマンショックの少し前までの数年間は神武以来の好景気と呼ばれていた。
著者は構造改革にもクエスッションマークをつけるのだが、構造改革はもっととことんやり通すべきだったのだろう。
また好景気でも自由で新しい働き方から安定思考への流れが止まらなかったのは、やはりバブル崩壊後の就職氷河期と呼ばれる時代を先輩たちが経験したことも要因の一つだろうし、企業側も一旦味わってしまった雇用の流動性によるメリットをもっと享受していたかったことの影響もあるのかもしれない。

いずれにしろ時計の針は戻らない。
今さら、超安定を求めたところで流動化したものを固形化するなど猛暑日に溶ける氷を扇風機で冷やして氷らそうするに等しい愚である。

この本は最近出版されたばっかりだと思っていたのだが、第一刷出版は鳩山政権が発足してからしばらく後の頃だった。
当然、書いている頃は、まだあの政権ではなかったわけだ。

これを書いている頃よりもずっと今の方が無力感、閉塞感を持つ人は多いだろう。
なんせあの政党による政権がまだ続いているのだから。

とはいえ、この本の内容が陳腐化したわけではない。

日本がGDP世界第二位を中国に明け渡したときに、韓国の人はこう言っていた。
「これまでが良すぎたんでしょ。でも、まだまだ良すぎますよ。」と。
外から見たら、そんなものだろう。

1970年以降というまだ歴史になっていない時代を現代史として洗いなおし、今日に至る経緯がいかなるものだったのか。
現代というものがいかなる時代なのか、をあらためて解説してくれている。
特に若い世代に読まれて欲しい本だと思う。

現代日本の転機 ―「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス) 高原 基彰 著