読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



人間の土地


伊坂幸太郎の『砂漠』の中の愛すべき登場人物「西嶋」が影響を受けたというサン=テグジュペリの「あの本」。
最後まで本のタイトルは出て来なかったが、おそらくはこれだろうとあたりをつけたら、まんまそのままだった。

タイトルの「砂漠」ですらこの本だろう。
小説の中の登場人物経由でこんな素晴らしい本に辿りつくやつもそうそういないだろう。
「人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ」

「砂漠」の中の西嶋君が何度も言ったセリフじゃないか。

この本は「飛行機」というものが世に出てからまだ航路を確定していない頃の話で、郵便飛行士達が山岳地帯や砂漠地帯の新たな路線を開拓して行く中で、僚友の生き方について語り、技術の進歩とは何かを問いかけ、飛行機という乗り物が見せる地球の姿を語り、砂漠の魅力について語り、人間の本質とは何かを語る、そんな本だ。

実際に郵便飛行士という職業についたサン=テグジュペリの体験を元に書かれたものであろうことは想像がつくが、郵便飛行士なら誰でもこれが書けたわけではないだろう。

上の言葉は彼の僚友が山岳地帯で遭難し行方不明になり、雪の中を三日も寝ずに糧もないまま歩き続け、そして彼の前まで帰還し、そして亡くなった時に僚友に成り変ってその立場を語る時の言葉だ。

同じ箇所を伊坂氏よりも長く引用してみようか。
「人間であるということは、とりもなおさず責任を持つということだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。
人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると信じることだ」
世界の建設に加担していると信じている人間などどれほどいるだろうか。
彼はそれが「人間である」ということだと言う。
これは定義というよりも教えだ。その教えを忠実に実践しようとするのが伊坂氏の描く西嶋だ。

伊坂氏の「砂漠」の中にはもう一つ「人間の土地」からの重要な引用がある。

卒業式の場面での学長のことばだ。
「人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」

「人間の土地」の中では
「真の贅沢はただ一つしかない。それは人間関係の贅沢だ」

「人間の土地」という本は伊坂氏が感受した箇所のみならず山のような金言を残している。

まさに遭難している最中の人間がこんな言葉を吐く。
「ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!」

「たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから」

「救いは一歩踏み出すことだ。さてもう一歩。そしてこの同じ一歩を繰り返すのだ」

「たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分の役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから」

サン=テグジュペリは第二次世界大戦中にコルシカ島から飛び立ったまま行方不明となり、そのまま不帰の人となった。

最後まで考えていたのだろうか。人間の本質とは何か、なぜ挑戦し続けるのかについて。

人間の土地  サン=テグジュペリ (著)  堀口大学 (翻訳)



終の筈の住処


短編だったけれど、住処とは何だろうと考えさせられた作品。

ざっとあらすじ。
今まで実家暮らしの二人が、結婚していきなり終の住処になるかもしれない我が家を手に入れます。
新しく開発された地区のまっさらなマンションでの生活。
でも何だか変な感じ。
夜にランニングに出かけ、ふとマンションの方を振り返ると、
巨大なマンションに灯る明かりは一つだけ。自分たちの部屋だけなのです。
他の部屋からの物音も無く、何度お隣さんのインターホンを鳴らしても出てきません。

こんな不気味な感じで始まるお話。
マンションと地元の間の確執や、怪しいマンション管理会社も登場します。

どんな結末が待っているのかと思いきや、特にすっきりする結末があるわけではなく、読み終わった後に残るのは消化不良の気持ち悪さ。

なんだろうこの気持ち悪さは。
作者は一体何が言いたかったのか。
若いうちにうっかり大きな買い物しちゃうと失敗しますよ、とか、
住処っていろいろあるから決める前にしっかり調べなきゃだめよ、とかそういうことなのか。
もしくは、意外とよくあるかもしれない世の中事情をミステリーテイストで書いてみたのか。

そんなこんなでちっともすっきりしないので、住処ってそもそもなんだろうと考えてみました。
勝手なイメージですが、「家」という言葉からは「住んでいる箱」をイメージします。
「住処」という言葉からは「根を生やしている場所」をイメージします。

若い二人が成り行きで選んだ住処からは「ただの箱」くらいの重さしか感じられないのに、そこはうっかり「終の住処」になろうとしている。この不釣合いの状況に気持ち悪さを感じたのかもしれません。

おそらく主人公には終の住処と言い切る自信が無いから、題名に「筈」とついているのでしょう。

いつか住むであろう終の住処。
自分の根を生やしたいと思える場所であって欲しいと願ったのでした。

新潮文庫 yomyom  「終の筈の住処」三崎亜記 著



マリアビートル


『グラスホッパー』の続編とも言えるお話。

グラスホッパーを読んだのはかなり以前になるが、登場人物の個性が強烈だった印象がある。
その男を前にすると自殺せざるを得なくなる自殺屋だとか。
誰にも気づかれずに「押す」行為だけで事故死を実現させてしまう「押し屋」。
その人は今回も登場するのですが、キャラとしては前回の方が鮮烈だったように思える。
とはいえ今回のマリアビートルの登場人物のキャラもなかなかどうして。
機関車トーマスのことならなんでも知っている、というよりトーマスとその仲間たちにしか物事や人をなぞらえることの出来ない檸檬(レモン)という殺し屋。
殺し屋という呼称から受けるイメージとは程遠いキャラばかりなので殺し屋ならぬ仕事師と呼ぶことにしようか。
その相棒で檸檬の相棒で文学青年の蜜柑。
何をやってもついてない、情けない男のようで案外、土壇場に強い七尾。
アル中の元殺し屋の木村。

なんと言っても最悪なキャラは王子という中学生。
ルワンダでのフツ族によるツチ族への虐殺の本を読んで、その虐殺を「面白い」と感じ、人がいかに扇動されやすいのか、いかに周囲に同調してしまうのか、いかにして人をコントロールするのか、人をいかにして絶望の淵へ追いやれるのかを学び感激する。
人をいかに自在に操るのか、そういう術を学ぶのが異様に早い。
健全な優等生の面をしながらも「悪意・残虐」そのものが歩いているようなヤツ。

格好いいのは、引退したはずの伝説の仕事師。
寝ているところを起こされるのが最も嫌いで、睡眠中に起こされると怒って相手を撃ち殺してしまう、他人が起こされるのを見ても腹が立つというのがその伝説。

東北新幹線の中で一つのトランクを巡ってのドタバタが東京から盛岡までの道中で繰り広げられる。
ツキの無い仕事師は上野で降りるはずが降りられず、大宮で降りるはずが降りられず、仙台もあきらめ、結局ドタバタ劇の最後まで付き合うはめに。

機関車トーマスに詳しい檸檬が王子をディーゼルに例えるあたり、仕事師の感はなかなかにするどい。
ディーゼルがどんなタイプなのかを知りたい方は機関車トーマスでもご覧になって下さい。

ツキの無い七尾はまたの名を「てんとう虫」と呼ばれる。
てんとう虫は英語でレディビートルと呼ばれ、そのレディとはマリア様のことだということは、この本のタイトルはツキの無い男、七尾だったのか。

それはともかくも、こんなに楽しい殺し屋さんたちの物語があるだろうか。
グラスホッパーを再読してみたくなってしまった。

マリアビートル 伊坂 幸太郎 著  角川書店