読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



密やかな結晶


ものすごく怖いお話なのに、小川洋子さんはたんたんと書き進めて行き「怖い」という雰囲気を払拭してしまう。

舞台となる島では、これまで日常普通にあった物が「消滅」してしまう。
消滅が有った朝、川にはその「物」が投げ捨てられ、「物」そのものが無くなるだけで無く、人の記憶からも消滅してしまう。
そしてそれら消滅させた物隠し持っている人間を秘密警察は捕まえ、物を持っているだけでなく、記憶を持っている人たちまでも秘密警察は捕えようとする。

「消滅」はこの島の統治者側の決定事項らしいのだが、最初のうちは生活に身近なもの、特に何ら目立つようなものでもない生活品がその対象となる。リボンが消滅し、鈴が消滅し、エメラスドが、切手が、香水が消滅する。
そうした人間が作った物ばかりか、ある朝は鳥が消滅し、バラの花が消滅する。
その消滅する物で商売してした人なども当然いるわけなのに、そうした人たちは当たり前のように違う仕事にありついて、それを当り前のように過ごしている。

統治者側がそれらを消滅させることでどんなメリットがあるのかさっぱりわからないのだが、消滅指示は次から次へと続いて行く。

消滅があってもその記憶が鮮明に残っている人と消滅を受け入れてその物があったことすら思い出せなくなる大半の人。

ある朝は写真が消滅の対象にされてしまう。
写真には数々の思い出が詰まっているだろうに、消滅を受け入れてしまう人にはもはやその写真の思い出などにも何の感慨も覚えなくなってしまう。

主人公の女性は小説家なのに、ある日小説も消滅してしまう。
島の至る所で本が焼かれ、島の至るところで焚き火のあかりは夜を通り越して朝まで続く。

この消滅という事柄はどう受け止めればいいのだろう。
人には自分にとって都合の悪いことは無かったことにして記憶からも消し去ることが出来たりする。
その極限の世界なのだろうか。

文庫の解説は井坂洋子さんが書いておられた。
本が焼かれる焚書、秘密警察から逃れようと隠れ家に住む人たちを捜し連行する姿をナチのユダヤ人狩りになぞらえ、隠れ家に住む人たちをアンネフランクのような人たちになぞらえる。

なるほど、そういう読み方もあったのか。

自分はこの不思議な、そして非現実と思われる世界は実は実世界のある局面の誇張なのではないだろうか、などと思いつつ読み進めていた。

そして自分の失った物と失った記憶とはなんだろう、と思いを馳せたのだった。

密やかな結晶 小川 洋子 著   講談社文庫



ダークゾーン


勝負師の中でも最も過酷と言われる日本将棋連盟の奨励会の三段リーグ。
四段のプロ棋士への道は狭き門で年を経る毎に状況は悪くなって行く。
そんな狭き門を目指す三段棋士が主人公。

その三段棋士がいつの間にかワープしてしまった先が、ダークゾーンと呼ばれる仮想空間のような世界。
人間がゲームの駒のようになっての戦いが繰り広げられる。

主人公は自らがキングという駒となって、味方に指示を出す立場なのだが、状況がなかなか飲み込めない。
とにかく戦うことに決まっているらしく、その戦いで四回負ければ、つまりキングが四回死ねば、本当に死ぬ。・・らしい。

確かではないが、四敗すればそのチーム全員が死ぬのではないか、とルール説明者は言う。

この四勝したもの勝ちという日本シリーズみたいな戦いに命がかかっているかもしれない以上、戦わざるを得なくなる。

相手のキングは同じ奨励会の三段リーグのライバルである。

18人の赤の軍勢と同じく18人の青の軍勢。
それぞれに将棋やチェスのような駒固有の能力があり、赤も青も個人差は互角。

つまりは人間チェスであり、人間将棋みたいなもの。
取られた駒が敵陣の駒になるところは将棋に近いのかも。

将棋にしろ、チェスにしろ、相手に取られたら以上、その駒は取られる以外にないのだが、ここの駒は少し違う。
刺されても刺し違えて相手も戦死させることが出来たりする。

将棋やチェスの人間版のようにも思えるが、別に一手一手を交互に指すわけではないので、寧ろこれは均等な力量の兵士を与えられての戦争なのではないだろうか。

なんせ、命がかかっているんだから。

この空間が軍艦島という実在の島であることもわかって来るとますます実戦っぽく感じられたりもする。

とはいえ睡眠を考慮する必要がない。
食糧補給を考慮する必要がない。
傷病兵を匿う必要がない。

眠ることも食べることも飲むことも必要なく何時間でも戦える。
戦いでは戦死より負傷の方が多いはずだが、軽傷から重傷というのを通り越して戦死しかかない。

そういう意味では戦争でもなんでもなく、やはりここ独自のゲーム世界なのだろう。

第一戦、第二戦、と進んで行くうちに主人公もだんだんとこれまでわからなかったルールがわかって来る。

時間の経過と共に、駒のポイントが上がる、敵を倒す毎にもポイントが上がる・・そして一定のポイントを超えると歩がと金になったり、飛車が龍になるがごとくに持っている力が格段に強くなる。

物語はこの仮想社会みたいなところでのゲームと現実界での話が交互に出て来る。

現実界では最初は大学生だったはずが、社会人に成長していたりとどのタイミングでワープした仮想社会なのか、だんだんとわからなくなって行く。

ストーリーとしてはなんだかなぁ、というフシが無きにしもあらずなのだが、こういう読み物は読みだしたら、最後まで絶対にやめられない読み物だろう。

ダークゾーン 貴志祐介 著 祥伝社



人間の土地


伊坂幸太郎の『砂漠』の中の愛すべき登場人物「西嶋」が影響を受けたというサン=テグジュペリの「あの本」。
最後まで本のタイトルは出て来なかったが、おそらくはこれだろうとあたりをつけたら、まんまそのままだった。

タイトルの「砂漠」ですらこの本だろう。
小説の中の登場人物経由でこんな素晴らしい本に辿りつくやつもそうそういないだろう。
「人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ」

「砂漠」の中の西嶋君が何度も言ったセリフじゃないか。

この本は「飛行機」というものが世に出てからまだ航路を確定していない頃の話で、郵便飛行士達が山岳地帯や砂漠地帯の新たな路線を開拓して行く中で、僚友の生き方について語り、技術の進歩とは何かを問いかけ、飛行機という乗り物が見せる地球の姿を語り、砂漠の魅力について語り、人間の本質とは何かを語る、そんな本だ。

実際に郵便飛行士という職業についたサン=テグジュペリの体験を元に書かれたものであろうことは想像がつくが、郵便飛行士なら誰でもこれが書けたわけではないだろう。

上の言葉は彼の僚友が山岳地帯で遭難し行方不明になり、雪の中を三日も寝ずに糧もないまま歩き続け、そして彼の前まで帰還し、そして亡くなった時に僚友に成り変ってその立場を語る時の言葉だ。

同じ箇所を伊坂氏よりも長く引用してみようか。
「人間であるということは、とりもなおさず責任を持つということだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。
人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると信じることだ」
世界の建設に加担していると信じている人間などどれほどいるだろうか。
彼はそれが「人間である」ということだと言う。
これは定義というよりも教えだ。その教えを忠実に実践しようとするのが伊坂氏の描く西嶋だ。

伊坂氏の「砂漠」の中にはもう一つ「人間の土地」からの重要な引用がある。

卒業式の場面での学長のことばだ。
「人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」

「人間の土地」の中では
「真の贅沢はただ一つしかない。それは人間関係の贅沢だ」

「人間の土地」という本は伊坂氏が感受した箇所のみならず山のような金言を残している。

まさに遭難している最中の人間がこんな言葉を吐く。
「ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!」

「たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから」

「救いは一歩踏み出すことだ。さてもう一歩。そしてこの同じ一歩を繰り返すのだ」

「たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分の役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから」

サン=テグジュペリは第二次世界大戦中にコルシカ島から飛び立ったまま行方不明となり、そのまま不帰の人となった。

最後まで考えていたのだろうか。人間の本質とは何か、なぜ挑戦し続けるのかについて。

人間の土地  サン=テグジュペリ (著)  堀口大学 (翻訳)