読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



終の筈の住処


短編だったけれど、住処とは何だろうと考えさせられた作品。

ざっとあらすじ。
今まで実家暮らしの二人が、結婚していきなり終の住処になるかもしれない我が家を手に入れます。
新しく開発された地区のまっさらなマンションでの生活。
でも何だか変な感じ。
夜にランニングに出かけ、ふとマンションの方を振り返ると、
巨大なマンションに灯る明かりは一つだけ。自分たちの部屋だけなのです。
他の部屋からの物音も無く、何度お隣さんのインターホンを鳴らしても出てきません。

こんな不気味な感じで始まるお話。
マンションと地元の間の確執や、怪しいマンション管理会社も登場します。

どんな結末が待っているのかと思いきや、特にすっきりする結末があるわけではなく、読み終わった後に残るのは消化不良の気持ち悪さ。

なんだろうこの気持ち悪さは。
作者は一体何が言いたかったのか。
若いうちにうっかり大きな買い物しちゃうと失敗しますよ、とか、
住処っていろいろあるから決める前にしっかり調べなきゃだめよ、とかそういうことなのか。
もしくは、意外とよくあるかもしれない世の中事情をミステリーテイストで書いてみたのか。

そんなこんなでちっともすっきりしないので、住処ってそもそもなんだろうと考えてみました。
勝手なイメージですが、「家」という言葉からは「住んでいる箱」をイメージします。
「住処」という言葉からは「根を生やしている場所」をイメージします。

若い二人が成り行きで選んだ住処からは「ただの箱」くらいの重さしか感じられないのに、そこはうっかり「終の住処」になろうとしている。この不釣合いの状況に気持ち悪さを感じたのかもしれません。

おそらく主人公には終の住処と言い切る自信が無いから、題名に「筈」とついているのでしょう。

いつか住むであろう終の住処。
自分の根を生やしたいと思える場所であって欲しいと願ったのでした。

新潮文庫 yomyom  「終の筈の住処」三崎亜記 著



マリアビートル


『グラスホッパー』の続編とも言えるお話。

グラスホッパーを読んだのはかなり以前になるが、登場人物の個性が強烈だった印象がある。
その男を前にすると自殺せざるを得なくなる自殺屋だとか。
誰にも気づかれずに「押す」行為だけで事故死を実現させてしまう「押し屋」。
その人は今回も登場するのですが、キャラとしては前回の方が鮮烈だったように思える。
とはいえ今回のマリアビートルの登場人物のキャラもなかなかどうして。
機関車トーマスのことならなんでも知っている、というよりトーマスとその仲間たちにしか物事や人をなぞらえることの出来ない檸檬(レモン)という殺し屋。
殺し屋という呼称から受けるイメージとは程遠いキャラばかりなので殺し屋ならぬ仕事師と呼ぶことにしようか。
その相棒で檸檬の相棒で文学青年の蜜柑。
何をやってもついてない、情けない男のようで案外、土壇場に強い七尾。
アル中の元殺し屋の木村。

なんと言っても最悪なキャラは王子という中学生。
ルワンダでのフツ族によるツチ族への虐殺の本を読んで、その虐殺を「面白い」と感じ、人がいかに扇動されやすいのか、いかに周囲に同調してしまうのか、いかにして人をコントロールするのか、人をいかにして絶望の淵へ追いやれるのかを学び感激する。
人をいかに自在に操るのか、そういう術を学ぶのが異様に早い。
健全な優等生の面をしながらも「悪意・残虐」そのものが歩いているようなヤツ。

格好いいのは、引退したはずの伝説の仕事師。
寝ているところを起こされるのが最も嫌いで、睡眠中に起こされると怒って相手を撃ち殺してしまう、他人が起こされるのを見ても腹が立つというのがその伝説。

東北新幹線の中で一つのトランクを巡ってのドタバタが東京から盛岡までの道中で繰り広げられる。
ツキの無い仕事師は上野で降りるはずが降りられず、大宮で降りるはずが降りられず、仙台もあきらめ、結局ドタバタ劇の最後まで付き合うはめに。

機関車トーマスに詳しい檸檬が王子をディーゼルに例えるあたり、仕事師の感はなかなかにするどい。
ディーゼルがどんなタイプなのかを知りたい方は機関車トーマスでもご覧になって下さい。

ツキの無い七尾はまたの名を「てんとう虫」と呼ばれる。
てんとう虫は英語でレディビートルと呼ばれ、そのレディとはマリア様のことだということは、この本のタイトルはツキの無い男、七尾だったのか。

それはともかくも、こんなに楽しい殺し屋さんたちの物語があるだろうか。
グラスホッパーを再読してみたくなってしまった。

マリアビートル 伊坂 幸太郎 著  角川書店



人質の朗読会


地球の裏側の某国の山岳地帯の村で、日本人観光客ら八人が反政府ゲリラに襲撃され、そのまま人質として拉致されてしまう。

何ヶ月間かの膠着状態の後、裏取引ではなく軍と警察が強行突入。
犯人グループは全員射殺されるが、人質の人たちも爆破によって全員死亡してしまう。

そんな悲惨な事件を扱った物語だったのか。
小川洋子さんらしからぬ出だしに少々驚くが、その犯人アジトを盗聴していたテープが見つかり、そのテープの中に八人の人のそれぞれの朗読が残されていた。

この本は、日々銃を突きつけられたであろう人質という状態にあった人たちがそれぞれ身を寄せ合いながら、一人一人が自分の思い出を朗読するという八編の小編の集まりだった。
正確には現地の兵士の思い出もあるので九編ということになるが。

それぞれはなんでもない話ばかりのようにも思えるが、その人個人にとっては忘れられない話ばかりなのだろう。

近所の鉄工所が実は物を作る場所ではなく物を破壊する場所だとばかり思い込んでいる少女とその鉄工所の工員さんとのやりとり。

到底売れないだろうと思われるぬいぐるみを露天で売っているおじいさんとのやりとり。
ビスケット工場に勤める女性の朗読は、アルファベットの文字のビスケットを作る工場で働いている女性が欠品になったものを持ち帰り、お金に執着し、整理整頓を生きがいとする大家さんとseiriseiTonなどと机に並べては最後に食べる、大家さんとのやりとり。

母親の留守中に台所を貸して欲しいという隣の娘さんがその母親のために作るコンソメスープのお話。

紳士服店でアルバイトしていた人がなぜかその人だけに親切にしてくれるお得意さまがいて、アルバイトを辞める時に周囲の誰からも惜しがられたりしなかったのに、そのお得意様はわざわざ花束を持って来てくれる話。

なんだろう。
一編一編はそれぞれはなんでも無い話のようで、何故だか心に残るものがある。

死というものを目のまえにした人たちがそれぞれこれまでの人生の中での一番の思い出を語る。
だからこそ心に響くのだろうか。

もちろん、ドキュメンタリーなどではなく小説なのではあるが・・。

槍投げの青年の話などは、単に槍投げの選手が槍投げをしていた、というだけの話なのだが、その一挙手一投足に感動してしまう。
その一挙手一投足を観察することがその人の人生を変えたのだ。

人質の人たちは40代、50代の人を中心に60代や30代の人も20代の人もいる。
それまでの40年間、50年間の人生の中で、その瞬間が人生を変えるに等しい瞬間だった、そんな一コマを一人一人が語っている。

もちろん実話ならこの短編のように一編一編は綺麗にまとまった話では無かっただろう。中にはしどろもどろになりながら、中には途中で話が行きつ戻りつしながら、もっと時間をかけた長い長い話になっていたのかもしれない。

それでも、日本語のわからない盗聴していた兵士の心にもその朗読は響いてしまう。
その上官はその朗読を「深遠な物語」だと兵士に語る。

小川洋子さんはなんという物語を描いてしまうのだろう。
このそれぞれの小編の中のそれぞれの何十年間の人の人生を凝縮してしまうなんて。

こうして読み終えてあらためて自分を振り返ってみてしまう。
果たして、そんなところで語れる人生を凝縮した話など出来るだろうか。

自分にとってのそんな瞬間とはどの瞬間だったのだろうか。
そんな風に自分を考えさせてくれる本なのでした。

人質の朗読会 小川 洋子著 中央公論新社