読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



世界がぼくを笑っても


主人公君、母親は幼い時に家を飛び出すは、父親はギャンプル好きだわ。
父の友人で家へ訪れてくるにはニューハーフだわ・・・と、結構タフな育ち方をした中学生。

その主人公君の中2からの担任になったのがとんでもないダメダメ教師。

赴任挨拶で緊張して卒倒してしまったり。

カンナオト君みたいに手元の原稿を棒読みするだけの授業。

社会見学では引率が自ら道に迷って、生徒や他の先生をさんざん待たせたり・・・。

この中学生たち、このダメダメ教師に、「全くもう」と愛想をつかしながらもなんだか優しく扱ってあげている。

学校の裏サイトならぬ教室の裏サイトなんかがあったりして、
キティちゃんのハンカチを持つってどうよ、とかいろいろとけなされてはいるが、突き放してはいない。

そりゃまぁ、いつの時代にも教師に不向きな人間が誤って教師になってしまうなんてことはあるだろう。

メディアでは現場の教師はこんなに苦労している・・だのって良く取り上げられたりしているが、まぁそういうケースもあるんだろうけど、現場の生徒だってダメ教師に苦労させられたりしている例もかなりあんじゃないのかなぁ。

ひと昔なんかは、学校を何かの集会の場か何かと勘違いしているような教師で一杯だった頃もある。

数学の授業の時間に授業そっちのけで

「沖縄には核が来ているんだ!」

「みんな黙っていていいのか」

いったいどうしろと。

あんたたちやあんたたちの先輩たちみたいにゲバ棒持って暴れろとでも扇動しているのか。
それでいて公立高校への内申書という切り札を握っているのをいいことに、自分に擦り寄って来る生徒には点数を甘くしてやったりと、やりたい放題もいいところ。

ホントにひどい教師で一杯の時代もあったことを思うと案外、オズチャン(このダメダメ教師)ってダメなりに良くやっている方じゃないのかな。

面白いのはダメ教師が担任で何カ月かすると、そのダメダメぶりが生徒にうつってしまう、というあたり。

それによって、すごいことにクラス全体が学校中の他のクラスから苛められるって・・。そんなことって・・・まぁ考えづらいけどあるところにはあるのかもね。
それだけクラスという単位ってまとまっている姿を想像したことが無かったものだから。
クラスの連中の名前は全部覚えられなくても部活の連中の名前を知らないなんてことはないだろう。
部員が100人も居たら別だけど。

クラブの連帯感の方がはるかに強いものとばっかり思っている人間にはクラスの中の連帯感って実感が湧かないなあ。

それだけここでは帰宅部が多いというところか。

あと、クラスへ出て来ない生徒向けに別室登校が有ったりするのも面白い。

そんなダメダメ教師でもなかなかいいところもあったりして。
初日から全員の名前を覚えて来たなんていうのは努力の賜物。

圧巻はダメな教師でも生徒がを育てて行けばいいんだ、という物凄い達観。

うーん!これはすごい。

これがホントウの話を元に書いていたんだとしたら・・・な、わけないけど、なかなかにして今どきの中学生、捨てたもんじゃない。



ブルー・ゴールド


やっぱり商社マンという職業はダイナミックだ。

かつて空港までのモノレールを動かしたのも商社マン。海を埋め立ててナントカアイランドを作ったのも商社マンが居てこそ。
海外の数々のプラント受注だって商社マンなしには話も始まらない。

先日、大学生による人気企業ランキングが日経の第二部に載っていたが、上位は損保に生保に銀行ばかりで、第二列目からようやく商社や家電などが登場したように記憶している。

損保、生保、銀行が人気なのは例年通りだが、商社のようなダイナミックさはなかなか求められないのではないだろうか。

この本、水資源というものに目をつけた作品。
ブルー・ゴールドというタイトルは水資源こそが金脈だ!という意なのだろう。

主人公氏は大手商社から一転、超零細のコンサル会社へ出向。
海外でのプラント受注の失敗、しかも上司の失敗の詰め腹を切らされた格好。

ところがその零細コンサル会社の社長、とんでもないやり手だった。
この零細コンサルの社長も5年前まではその大手商社の社員だった。
大手商社の看板を背負って仕事をするのと名も無いコンサル屋の名刺での勝負では、圧倒的に名の知れた企業の方に歩がある。
特に初対面の相手などであれば尚更だろう。
その社長はその不利な面を大手看板ではなかなか出来ない有利な面に変えてしまう。

水ビジネスに目をつけて、地下に水資源を持つワインメーカーを強引に買収する。

この本、このやり手社長のやり方といい、ハッキングなんか当たり前の如くで情報収集能力に長けた変わったパソコンオタク社員といい、話のテンポといい、なかなかに楽しくは読ませてもらったのだが・・・。

この地球で人類が利用できる淡水は、そのわずか1%なのだとか。
10億を超える人々が、この瞬間も飲み水にさえ困っているのだとか。
世界の企業が水をめぐる争奪戦を繰り広げる、・・・。

という類の言葉が本の帯には書かれているので、実はもっともっと世界規模でのダイナミックな話に展開するのではないかと、かなり期待を寄せながら読んだのだが、規模的には長野県の中央アルプス付近からは広がらずだったところ。
見えない敵を相手にするあたりもかなり期待を膨らませてわくわくしながら読んだのだが、グローバルな敵が暗躍しているものと思いきや、私怨がらみがオチだったって、それはさすがにちょっと・・・と、若干残念なところがあるのは拭えないが、それでもまぁ、軽い読み物としては最高の部類だ。
そう。ダイナミック系かと思いきや軽い読み物系になってしまったわけだ。

この本、2010年9月が初版。その前に週刊誌で連載をしていたのだという。

ちょうど、テレビのニュース特集番組のようなもので日本の地方の水脈のある場所を外国資本が買い漁っているのではないか・・などという話題が出はじめたのはその頃ではないだろうか。

今では結構、頻繁にそういう話題が持ち出されている。

案外、この本の存在が影響していたりして。

そういう意味ではなかなかに意義のある、決して「軽い読み物系」などと粗略に扱ってはならない本のようにも思えて来るのである。

ブルー・ゴールド 真保裕一 著



月と蟹


小学校3年生の時に父の会社が倒産し、祖父の住む鎌倉近辺の海辺の町へ転校した小学生。
おまけにその父も他界してしまい、友達が持っているゲームソフトを何一つ持たない主人公の子は友達が出来ない。

唯一の友達は同じ転校生の男の子。

クラスに他に友達はいない。

主人公は東京からの転校生で、もう一人は関西弁バリナリなので関西からの転校生なのだっろう。
この関西弁の子はかなり能動的な子。
この子に友達が出来ないのはちょっと不思議かな。
誰とでもすぐに溶け込んでしまえるような雰囲気を持っていそうにも思える。
だが、ストーリーのは設定上、この子は孤独である必要がある。

その子は家庭ではドメスチックバイオレンスの被害者で、身体にはいくつものあざがあり、絶食させられたのか、あばらが見えるほどに腹がへこんでいる時なども・・・。
家では虐待され、学校では友達が居ない。

彼らは海辺でペットボトルを沈め、ヤドカリや小エビなどを捕まえたりして一緒に遊ぶ。
子供の遊びというものはだんだんとエスカレートして行くものなのだろう。

ヤドカリの殻をライターであぶり、ヤドカリをあぶり出して遊んだり、そのヤドカリ達を飼うための潮だまりを少し登ったところの岩場のくぼみに作ってみたり。
遊びはどんどん発展?して行く。
次にはヤドカリを捕まえて、その殻をライターであぶって出て来たヤドカリを「ヤドカミ様」として願いを叶えてもらうことを考え出す。
二人とも、複雑な思いを持つ少年たちなのだ。

その「ヤドカミ様」への願いが「お金が欲しい」ぐらいならまだ可愛いものなのだが、これもだんだんとエスカレートして行く。

何かしら心の苦しさから逃げ道を探すのは、大人も子供も同じなのだろうが、その方向がなんとも危うい。

この本を読んだ人の評には子供らしいだとか、少年らしい心理だとか、子供の切実な願いだとかそんな言葉が目立ったが、果たしてそうだろうか。

願い事、自分の叶えたい事を願う場で出て来てしまうのが、人の不幸を願う事になってしまった段階で、もはやそんなもには切実でも子供らしくもなんでもない。

それにしても何と言っもその願いを叶えてやろうとする友人の少年にはかなり少し薄気味の悪さを感じずにはいられない。

祖父の語る「月夜の蟹は食べるな」の逸話が表すように、蟹は醜いものの象徴として描かれている。
月夜の蟹は、月の光が上から射して海の底に蟹の形が映り、その自分の影があんまり酷いもんだから・・・・

主人公は自分で自分の気持ち、願いが醜いことにも気がついていて、月夜の蟹の醜さは、主人公の心の醜さの比喩のように使われている。

この「月夜の蟹・・」が本来一番印象に残るべき言葉であるべきなのだろうが、なぜなんだろう。

「カニは食ってもガニ食うな」という祖父の言葉の方が印象に残ってしまった。

月と蟹 著  道尾 秀介 (著) 2011年 第144回直木賞受賞作品

2011年 第144回直木賞受賞作品