読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



終わらざる夏


おもさげながんす。

「壬生義士伝」で南部藩を脱藩した新撰組隊士、吉村貫一郎が何度も出てくる言葉だ。

おもさげながんす。

この本にもこの言葉が何度も出て来る。

終わらざる夏、昨年2010年夏に出版された時、すぐに本屋へは行かずにオンラインのブックオフで在庫があらわれるのをしばらく待ったのであるが、メドベージェフが国後島を訪問するに当たって矢も楯もたまらず本屋へ走った。

千島列島に占守島(シュムシュ島)というところがある。
興味のある方は地図で探してみると良かろう。

千島列島北東端の島。
北東のカムチャツカ半島のほん目の前。
佐渡島の半分ほどの広さなのだという。

その小さな島に史上最強と言われる関東軍の陸戦部隊が居た。

満州のソ連国境近くの防衛部隊を引っこ抜いて、一部隊は南方戦線へ、もう一部隊をアリューシャンから米軍が侵攻して来た時に備え、千島に配置されたのだという。

ところがミッドウェーで敗れ、ガダルカナルで敗れ、硫黄島を奪われ、沖縄を奪われ、制空権を奪われ、首都東京は爆撃され放題となってしまい、もはやアリューシャンからの侵攻などあり得ないのにも関わらず、その史上最強軍団を輸送する手だてすら無くなってしまい、千島の果ての島に手つかずの精鋭部隊が取り残されてしまった。

しかも戦車も武器もピカピカに磨きあげられ、戦士達の士気も旺盛。
敵がここへの上陸作戦を決行したとしても、島には至るところに壕が掘ってあり、防御は完ぺき。しかも濃霧が立ち込めるので敵は空からの援護射撃もままならない。

そんな部隊がこの最果ての島に。

ソ連になる前のロシアとの間で結ばれた樺太・千島交換条約で交わされている通り、千島列島は日本の領土であった。
3.11の巨大震災直後数日の間、テレビをつければどのチャンネルも等しく、画面の右下などに日本列島の地図を映し出し、津波情報を表示していた。
そのどのチャンネルにも映し出される地図には間違いなく択捉、国後が表示されていて、あの間真赤な津波警報の表示がなされていた。
少なくとも普段は意識しなくとも択捉、国後までは日本の国土であるという明確な意志表示を全チャンネルが発信していたわけだ。

広島、長崎へと原爆が落とされるにあたって、一億総玉砕から一転、ポツダム宣言受け入れへ。
玉音放送の中身まではこの島までは伝わらなかったが、ポツダムを受諾したことは兵士たちにもわかってしまう。

で、米軍が来たら潔く、武器を捨てようと覚悟したその矢先、米軍は上陸して来ずになんとソ連が侵攻して来る。

その上陸部隊を完膚無きまでに叩き潰してしまうのだが、その後がどうも腑に落ちない。なぜそれだけの戦える部隊でありながら、ソ連の侵攻を許したのか。何故その後も徹底抗戦をしなかったのだろう。

そもそもポツダム受諾で武器を捨てるつもりだったのが、卑怯なソ連から領土を守る為に武器を取ったのではなかったのか。

おそらく本国から武器を捨てよ、という命令が来たのだろうが、そのあたりについての記述はない。

生き残った部隊は武器を捨て、シベリヤへ送られるのだ。

この本はもっと戦えという類の本ではない。
戦争がいかに愚かなものか、といろんな語り部を通して語っているのだ。

語り部は場面、場面で入れ替わる。

東北出身で東京の翻訳出版社で編集長をしていた片岡という人、45歳で召集されてしまう。
この人が妻にあてた手紙で、人類はもう二度とこんな馬鹿げた戦争などしないでしょう。と語るのだが、どっこい終わらなかった。
朝鮮戦争あり、中東戦争あり、ベトナム戦争あり・・・と。

同じ東北出身の医者で軍医として召集された菊池軍医。

同じく同郷の傷痍退役軍人でありながら、召集された鬼熊軍曹。
この人のキャラクターが秀でている。

ピカレスクやプリズンホテルなどで、こわもてで学も無いが、そのやんちゃな語りの中に真実を言い当てる洞察力があったりする、いかにも浅田次郎が描きそうな人柄だ。

時には片岡の妻が語り部となり、侵攻してくる側のソ連の将校も語り部となり、千島の部隊の中でも最古参の老兵が語り部となり・・・。

と、登場する語り部の数はかなり多い。

この話は千島を舞台とはしているが、もうひとつの舞台は旧南部藩あたりと思われる東北地方。

召集令状を出すにあたって、一家の働き手を一人は必ず残すようにつとめて来た役場の人も、終戦直前の一億玉砕間際に至っては一人の働き手だろうが、なんだろうが考慮する余地がなくなってしまい、おもさげながんす、と思いながら赤紙を出して行く。

2011年。
3.11に東北沖合いを震源地とする千年に一度と言われる大震災の発生。
阪神大震災を引き合いに出すのもおもさげながんすが、阪神が地震の後の火災で多くの人命が失われたのに比し、今度のは火災ではなく大津波だった。
東北から関東にかけての太平洋側一帯をまるごと飲み込んでしまった。
町や村そのものが消滅してしまったところが何度も放映される。

もう一つの大惨事は原発事故だろう。
いつ爆発するかもしれない、どれだけ放射能を浴びるかわからない現場で対応されるかたがたは命をかけて、この国を守ろうとされておられる。

それを見ても何の手助けも出来ないもどかしさ。

東北の方々、原発周辺の方々、そして今も戦っておられる方々に、おもさげながんす、の気持ちで一杯である。

おもさげながんす。

終わらざる夏(上・下巻) 浅田次郎 著



天才アラーキー写真ノ法


アラーキーこと荒木 経惟さんが写真について、カメラについて語っている本です。
『事件の火事じゃないときの心の火事を撮る。』なんていう一節が印象的。
写真やカメラに詳しくなくても楽しめる一冊です。

アラーキーの写真というと女性の写真のイメージが強いですが、本の間に挟まれている写真には、海外の街角で笑う親子の写真や、政治家のポートレート、風景写真など幅広い作品を見ることができます。

写真を撮るときには服装が大切だと語るアラーキー。
街やその場の雰囲気に馴染んで、被写体となる人にカメラを意識させないようにしなくてはいけないそうです。

突然カメラを向けられたら、変なポーズをとったり引きつった笑顔になったりしそうですが、アラーキーの写真では偶然居合わせたような人たちが家族に笑いかけるような笑顔を見せています。
また、政治家のポートレートを見ても、選挙のポスターやテレビで見る表情とは違って、一瞬の不意をつかれたような、素を出してしまった瞬間が捉えられているように見えます。
それは果たして服装の効果なのか、なんなのか。

数年前に偶然アラーキーに会ったことがあります。
独特の雰囲気と、個性的な風貌が遠くからでもかなり目立って見えました。でも近くへ行くと、にっと笑った笑顔と、握手したビックリするくらい大きな手にぎゅっとぐいっと引っ張られて、アラーキーの世界に吸い込まれていきそうでした。
あのときの服装は果たして街に馴染んでいたのかは、はっきり思い出せません。
そして周りの雰囲気に馴染んでいたといより、周りの雰囲気を変えたというのが正しいような気もします。

でもアラーキーの言うように、まずは服装を変えてみることで、自分の意識がその場の人や雰囲気に溶け込みやすくなるのかもしれません。

この本を読み終えると、アラーキーが写真を撮るときに大切にしていることや、どうしたら被写体と一体となった写真が撮れるのかがちょっとわかったような気がします。
でも真似をしたからといって、写真がうまくなるわけではないのでしょうが。
アラーキーいわく、アラーキーは身体がカメラで目がレンズになっているそうですから。題名にも「天才」と入っちゃっています。

それでもやっぱり、写真って面白そう、できるかもしれないと思わせてくれる楽しい本です。

天才アラーキー写真ノ法 荒木経惟 著



肥満と飢餓


世界では10億人が飢餓に苦しみ、10億人が肥満に悩む。

貧困に苦しむ世界の農民。その元凶は世界のフード業界の1/4のシェアを上位数社で抱え込むと言われる巨大なフードビジネスコングロマリットの存在。

原産地でキロ当たり十数セントで売られるコーヒー豆、地元の加工業者や流通業者の手を経てもなお、キロ当たり何十セントとドル未満のものが、一旦ネスレへ納入されるとその価格は一挙にキロ当たり16ドルと20倍以上に跳ね上がる。

それは一例。

各国の農民は、フード・ビジネスやら、国やら、銀行やらから借金漬けになっており、それが貧しさから抜け出せない要因なのだという。
まさにプランテーションの頃そのままのことが現在も続いているということなのか。

アメリカの農民にしてもまるで、スタインベックの「怒りの葡萄」の頃のままだと言う。
巨大フード産業も足腰は案外もろい、と筆者は書く。
例えば、原油の値上げなどで足元をすくわれる可能性もあると。

では、今年の1月よりチュニジアから始まった、反体制派デモによる中東地域のデモの頻発により、エジプトも政権崩壊。リビアでは未だに政府対反体制派の抗争が続き、まだまだ、他の中東の国への波及も想定される今現在はどうなのだろう。
原油価格は既に上がり始めている。

昨年あたりより、コーヒー豆などは新興国での需要が増えたことも有り、品薄状態。
オーストラリアの自然災害により小麦の品薄。
それに原油高は他のいろんなものの価格高に繋がることは必須だ。

これらは巨大フード産業にどんな影響を与えているのだろう。
ネスレは早々とコーヒー価格の値上げを発表したが、これはぼったくりをさらにぼったくる、ということなのだろうか。

日本でもこの春からコーヒー、小麦、ガソリンに限らず、かなりいろいろな品が値上げになりそうな気配である。
日本は長期間デフレ脱却を目指していたはずなのだから、少々のインフレに過剰反応する必要はないだろう。
このところのメディアは過剰反応しすぎの感がある。

筆者は従来の途上国の農業水準を大幅に上げたであろう「緑の革命」にも懐疑的である。
「緑の革命」によって化学肥料に頼らざるを得なくなった極貧農家はさらなる借金漬けにされてしまったのだろうか。
その後の遺伝子組み換え技術の話などでは、その生態が何十何百億年かかって築き上げた遺伝子情報をいうものに、ほんのちょっと手を加えただけで、まるで遺伝子情報そのものの特許までを組み換え技術会社が持っているかの如くの態度に憤慨されておられる。

この筆者の主張では「関税自由化が即ち悪なのだ」とも取れる発言が至るところで登場する。

韓国で農業貿易自由化に反対し、抗議の自殺を遂げた農民活動家、イギョンヘ氏の話を持ち出し、それが各国の農民に共通するような記述。
これはどうなんだろうか。
韓国は自由化への道を選択し、そしてその選択の後にちゃくちゃくと勝利をものにして来ている。
農業自由化の際に反対意見があったのはもちろんだろうが、規制緩和・自由化によって、農民に餓死者が出たなどと言う話は聞かない。

規制がある=官の支配強化=官を抱き込んだ巨大企業に有利。
最貧国の官などでは巨大企業の袖の下など、ごく当たり前のことだろうし。
という図式を考えれば、規制が緩和されること即ち、巨大企業以外にも参入の余地有り、ということは考えられないのだろうか。

フード産業についての歴史を読み解く本としては分かりやすく素晴らしいと思うのだが、その主張せんとするところについては、やや個人的思いが強すぎる感が有り、かなり割り引いて読む必要がありそうな本である。

肥満と飢餓  世界フード・ビジネスの不幸のシステム  ラジ・パテル (著), 佐久間 智子 (翻訳)