読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



カッシーノ!


カッシーノとは知っている人は知っているカジノのこと。
浅田次郎がモナコから始まってイタリア各地、フランス各地、オーストリア各地、そしてロンドンと、ヨーロッパを股にかけてカジノ巡りをし、ギャンブル三昧の旅行を楽しんだ一冊。

なんとまぁ豪快でゴージャスなことだろうか。

浅田次郎と近い世代で言えば村上龍なども以前は若者雑誌向けの連載もので世界を飛び回って贅沢三昧をする話を書いていたし、新しいところで「案外、買い物好き」という本では、イタリアへ行って、シャツを何十枚単位で大量買い、靴をまとめて何十足と豪快な買い物ぶりを披露していたが、浅田次郎のようなギャンブルの世界へ踏み込んだ類は読んだことが無い。

浅田次郎自らは、自分は小説家がたまたまギャンブルをしているのでは無く、小説を書くギャンブラーなのだ、とのたまう。

さて、何ゆえ今になって「カッシーノ」なのか。
この本は2003年刊なので、近著というにはちと遠い。

それは、橋下大阪府知事が「大阪カジノ構想」というものをぶちあげている最中だからに他ならない。
かつて石原東京都知事も「カジノ構想」を語っていたはずだが、あれはいったいどうなったんだろう。

一言でカジノと言ってもそのスタイルたるや、各地域地域にて全く趣きを異にする。
もちろん観光客目当てが大半だろうが、オーストリアのカジノに見られるような、来るなら来い、という姿勢のところ。入場料ならぬ、入り口チップを買わなければ入らせないというのは、立見の観光客を排除するのが目的。

タキシードに蝶ネクタイなどという正装で無ければ入れないところなどは、一般の観光客には敷居が高すぎる。

フランスのように、郊外のリゾート地でしかカジノを開設してはならない、という取り決めのところが大半であるが、中にはロンドンのように街中の至るところにカジノがあるようなところ有り。
但し、ロンドンのカジノはすべからく会員制。
中には50万ポンド(書かれた当時のレートで約1億円)を一晩で賭けることが条件のところなども紹介されていて、それこそどんな連中が遊ぶんところなのか、桁が違いすぎて呆れてしまうほどである。

それにしても、大阪の人間がタキシードを着て、蝶ネクタイをしてカードに興じる姿というのは想像するに難いものがある。

この「カッシーノ」に次ぐ第二弾「カッシーノ2!」という本では、イスラム圏内の各地のカジノなども紹介されている。

こちらのスタイルはどうか、というと徹底的に外貨獲得に徹している。
まず、地元の人は入れない。
それになんということか、現地の通貨が使用出来ない。

米ドルを使用せよ、という。無ければ円でも良いなどと。
カジノがあるホテルでも現地通貨から外貨への換金はしてくれない。
カジノでドルや円をたんまり使わせても外貨獲得。たまたま、客に勝たせてやったところで、現地通貨から外貨への換金が行われないのだから、その国で全て使って帰れということなのだろう。

現地通貨に換金し過ぎて、その余りで散財してやろうか、という輩は入る余地がない。

大阪カジノ構想というものには総論賛成なのだが、はてさて、大阪カジノはいったいどんなスタイルを目指すのだろうか。

ちなみに海外の人から言わせると、「日本にもたくさんカジノがあるじゃないか」と言われるらしい。
つまりパチンコ屋さんのこと。
あれだけ、街中の至るところに、しかも全国的にカジノがある国も珍しいと。

パチンコは日本独特のカジノスタイルなのだそうだ。

そのパチンコ屋さんの件数で言えば、大阪には首都東京と匹敵するぐらいの件数があるだろう。
人口比で言えば絶対に大阪の方が多い。

ということは大阪にはギャンブルの下地がもともとあるということなのかもしれない。

この本には、そもそもビスマルクがカジノで負けなければ、第一次大戦も第二次大戦も起こらかったのではないか。
と浅田次郎らしい視点が登場したり、あのドストエフスキーが旅先でカジノにハマってケツの毛まで抜かれるほどに負けてしまい名著『賭博者』を書くはめになった。
などというカジノにまつわる逸話がいくつも書かれているので、ギャンブラーでなくとも楽しめる。

日本人をして
「タイム・イズ・マネーも結構ですが、タイム・イズ・ライフということもお忘れなく」
と言うカジノ経営者の一言は、いい言葉だなぁとは確かに思うが、だからって即ちギャンブルって言うわけでも無かろう、とも思う自分もいる。

って大阪カジノに水を差すわけでもなんでもなく、府市統合も大阪カジノもうまく行くに超したことは無い。
大阪府民であり且つ大阪市民として応援しよう。

ただ、ビスマルクではないが、他所の国の将来の国家元首が来て、大負けさせたために第三次世界大戦勃発!なんていうオチだけは御免蒙りたいものである。


カッシーノ!  浅田 次郎 著



猫物語(黒・白)


猫物語(黒)と猫物語(白)(上・下巻)ではないのだから、どちらを先に読んでも問題ないのです、って著者はどこかで書いてなかったっけ。
大間違いをしてしまった。
(白)→(黒)と読んでしまった。
オンラインショップで(白)(黒)の順に並んでいたこともあるし、普通、黒白じゃなく白黒だろうって勝手に決め付けていた感がある。
西尾維新に普通を求めてはいけない、ということを失念していたのか?
(黒)は(白)のあくまで前段に過ぎず、あくまでも読み方としては(黒)→(白)であった。
そんなことは出版日がそれぞれ(黒)2010年7月、(白)2010年10月を見れば自明のことであったのに。

「猫物語」は「化物語」の第二シリーズ。
(白)では、ツバサキャットの羽川翼が語り部となる。

(白)を読みながら、時たま章が飛んでいる箇所があり、本来の主人公である阿良々木暦君の出番は少なく、その間に何か別のバトルをしているらしく、珍しい登場人物も出ては来たものの本来のストーリーにはほとんど噛んでこなかったり・・・で、その穴の空章を埋める裏の物語が(黒)なのではないか、と思っていたのだが、そうではなかった。

時系列で言っても(黒)は化物語を復習しているかの如く、5月のゴールデンウィークの出来事をなぞっていて、時間的なかぶりは無い。
(白)はまさにこれまでの化物語の続編だった。

それにしても一冊にしたらどうよ。と言いたくなるよな。
(黒)の前段の大半のページは朝起こしに来た妹とのじゃれ合いに費やしている。

それにしましても西尾さん、「化物語」がアニメ化されたのをかなり意識しておられるような書き方が目立つわりに、本当にこれもアニメ化を考えているのかなぁ。

妹とのじゃれ合いだけでどれだけの時間を割くんだろうか。
他人ごとながら心配してしまいたくなる。

これにしても2010/12には「傾物語」ん?もう出版されているんじゃないか。
2011/3月に「花物語」、2011/6月に「囮物語」、2011/9月に「鬼物語」、2011/12月に「恋物語」ってなんでそんな先の予定までぎちぎちに、決まってるんだ?

案外もう大半は書き上げてしまっているんじゃないのか?
一年であんまり偏らないように複数年に分散して節税対策でもしてるんじゃないのか、などとゲスの勘ぐりを入れたくなってしまう。

まぁ、それは無いか。猫物語(黒)なんぞかなり締め切りに追われて書いたんじゃないのかな。
リミットを決めて雑誌なんかの連載もの作家が良くあるように編集者に締め切りをせっつかれながら、ひぃひぃ言いながら書くというMの世界にでも目覚めたのだろうか。

ストーリーにエンディングなどはない、だって人生はその先も続いて行くんだから、・・・などとこの続編シリーズの言い訳みたいなことを登場人物に言わせておられるが、ずっと続いて行くと言いつつもこの連作ものでは、「化物語」でそれぞれ怪異に出くわしてその虜となった彼ら、羽川、八九寺、千石、忍、戦場ヶ原、神原・・一人一人にそれぞれ大団円の決着をつける物語を描こうとしているのではないのだろうか。

猫物語に関して言うなら、(黒)は仮りにこれ一冊だけ購入していたら全く物足りない感があったように思える。
「化物語」では、至るところにのり突っ込みがありながらもストーリーを進めて行く上でのスピーディさがあったのが、(黒)に関して言えば、のり突っ込みの部分がくどすぎて、なかなかストーリーへと展開していかないもどかしさがある。
(白)は羽川を語り部とすることで、(黒)での欲求不満を見事に払拭している。
羽川翼のツバサキャットはこの一冊で完璧に大団円。
羽川の人生は続くのかもしれないが、ツバサキャット、ツバサタイガーの物語はこれで完結している。

もうこうなったら乗りかかった船じゃないが、最後の完結編まで付き合ってしまおうか。


猫物語(黒)・猫物語(白) 西尾維新 著



晩夏のプレイボール


ちょっと季節はずれではありますが、夏の甲子園を目指す高校球児を主人公とする小篇が10篇ほど。

高校野球は季節はずれでも高校サッカーや高校ラグビーはこれからが全国大会。
アメフトのように出場チームの少ないスポーツならリーグ戦で一度負けてもまだ先があるが、野球やサッカーのような出場校の多いスポーツは過酷だ。
トーナメント。この制度はたった一つだけの勝者の椅子を争って、残りの何千校はどこかで必ず敗者になり、その舞台から姿を消す。

全国でただ一つのその椅子を目指している学校はまず稀だろう。
目指すのはまずは全国大会への切符。
野球ならもちろん甲子園への切符。

高校のスポーツというのは何か特別なものを感じる。
高校3年間とはいえ、野球であれば夏の甲子園まで2年とほんの数カ月。
サッカーの場合は、全国大会の選手権を目指すのはスポーツ推薦を目指す選手や、高校、大学とエスカレーターになっている一部の私学は別だが、一般の大学進学を目指す選手たちは大抵、春のインターンシップ予選で敗退したところで引退が決まる。

その最後の大会での全国出場を目標に中学時代から、もしくは小学生から、中には幼稚園時代からずっと練習して来た選手も居るだろう。

なんだろう、あの高校時代ならではの最後の大会に負けた時に感じる「あぁ、これで終わったな」という感じは。
他の大会、中学でも大学でももちろん社会人でも感じたことがない、あの「終わったな」という独特の感じ。

野球はまだ同点なら延長戦をしてくれる。
キッチリと負けを認めさせてくれる。
高校サッカーの場合は全試合の三分の一近くは同点の末、PK戦で勝者が決まる。

一点も失点していなくても・・・
こちらのゴールが脅かされることなど一度もなくて、押して押して押しまくって相手はかろうじて失点を免れたに過ぎない相手であっても、いやそんな試合ほど、PKの神様は逆を指名する。
今年の駒野ではないが、PKを外した選手は茫然自失状態。
誰も責めてなどいない。
どちらかのチームの誰かがはずさない限りは終わらないのだから。
誰かが、その「はずした」という咎を被らないことには終わらない。
なんて酷な体験を高校生にさせているのだろう、と見るたびに思うが、それもやがては苦くて貴重な思い出となって行く。

ついついサッカーに逸れてしまうが、この本はもちろんサッカーのことなどは一文字も出て来ない高校野球の話である。
それでも思いとしては同じ高校スポーツとして通じるものがある。

この本に10篇の物語がある如く、全国の何千校の球児たちにも何千の物語があるのだろうし、サッカーにも他のスポーツにも毎年、何千の物語が生まれているのだろう。

そんな何千何万の思いを集約したかのような短篇集。

あさのあつこという人、良くこれだけ高校球児に思い入れがあるものだ、と感心してしまう。
「女の子はグラウンドに立てないのか?」と中学を目前にショックを受ける小学生野球少女が登場するが、それこそ、あさのあつこさん本人じゃなかったのだろうか。
などと勘繰ってしまう。

どの話もなにか胸に来る話ばかりではあるが、最初と最後がやはりいい。

「終わってない。まだ俺たちの夏は終わってない」それは簡単に諦めるなよ、という若者達への強いメッセージでもある。


晩夏のプレイボール あさのあつこ著