読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



瘡瘢旅行(そうはんりょこう) 


この作者、この本を読むまでは存じ上げなかった。
なんとも文体というか表現の仕方が古めかしい印象を持ったので、さぞかしお歳を召した方なのだろうとばかり思っていたが、巻末の略歴では1967年生まれ、とある。
40過ぎの方であった。

その文章表現から発せられる、古めかしい人のイメージの源泉は一体何が源泉だったのだろう。
この本には、「廃疾かかえて」、「瘡瘢旅行」、「膿汁の流れ」という三部が納められている。
本のタイトルでもある「瘡瘢旅行」の中で主人公は藤澤清造という大正時代の私小説家の虜となり、その作家の書いたものなら如何なるものでも収集しようという、熱烈な収集家である。

そんな大正時代の私小説家を師と仰ぐのは主人公だけではないだろう。
私小説家を師と仰ぐ主人公を描く以上、作者そのものも私小説家なのだろうし、主人公は作者そのもののデフォルメなのだろう。

それにしても救いようのない男が登場する。

DV(Domestic Violence:ドメスティック・バイオレンス)という言葉、今では誰でも知っている言葉になりつつあるが、こんなに一般的な言葉になったのはいつごろからだろう。
夫が妻に暴力をふるうなどという行為、許されるものではないだろうが、そのようなことは江戸時代だって平安時代だって、そういう家庭はあっただろう。

「DV」という言葉が定着したのはこの10年ぐらいの間ではないか、と思うがいかがだろう。
統計資料などではここ数年で急増したかの如く言われること、しばしばだが、果たしてどうなのだろう。
そんな話まともに扱ってもらえなかった。
もしくは家庭の恥をさらしたくなかった・・種々の要因が考えられるが、昔からあったが表面化しなかった、社会問題の一つとして取り上げられるようになってはじめて、表に出て来たというのが実情なのではないだろうか。
別に江戸時代まで遡ることもないだろう。
明治、大正、昭和の戦後しばらくあたりであっても都会か地方かの差はあれ、離婚率の低かった時代なら妻という存在、亭主を尻に敷くまでは、嫁という立場の存在はどれだけ理不尽な思いをしても、それが暴力だったとしても、誰にも文句を言う事もなく耐えていたのかもしれない。

今や、DVの被害者には男性が急増しているという話もある。
なんじゃそりゃ、と言いたくもなるが、まぁ時代は明らかに変わりつつあるのだから、それしきのこと、驚くには値しない。

話を本に戻すと、三部作とも同じような主人公が登場する。普段は妻に対して優しいが、いざキレると暴力をふるう。酒に酔えば暴力を振るう。
ところがしらふに戻る、もしくは冷静に戻ると妻へ詫びを入れ、尚更優しくしようとする。
外では気が弱いが、家の中で酒が入ると大口をたたく。
なんだか世に聞くDV亭主の典型じゃないか。
妻は妻で詫びを入れられ、優しくされると、その暴力を許してしまう、なんだかこれも世に聞くDV被害妻の典型じゃないか。

主人公は性犯罪を犯して監獄に入れられた父を持つ。
それがあるだけにとことん行く前には一応自制が効いている。

なんなんだろう。
こういうのが今時の私小説なのだろうか。

檀一雄は家庭を崩壊させたかもしれないが、その人(主人公)には愛着を持つことが出来た。
ポルトガルのサンタ・クルスで人気ものになる彼を羨ましかったし、ポルトガルを大好きにさえしてくれた。
今東光にしったて「十二階崩壊」をはじめはちゃめちゃでありながら、男としての憧れを抱かせてくれた覚えがある。

この平成の私小説家からどんな憧れを若者に見いだせというのだろう。

と、貶してしまっているが、この本はたまたま新聞の書評欄で見つけて出会うことになったのだが、これが大正時代の作家が書いたものなのだ、となれば案外違った感想になったかもしれない。
もちろん大正時代に新幹線は無いのでそのあたりはかなり差し引かなければならないが・・。



貧者を喰らう国  中国格差社会からの警告


中国という国を語るに当たっては、その語る人の立場、政治的信条、見てきたもの、地域など、百人の人が語れば百通りの中国があるのではないだろうか。

特に上海をはじめとする沿海側の富裕層の多い地域と地方の農村との間の格差は、日本でいくら格差社会だ、格差社会だと言ったところで到底その比ではないだろう。

本書はタイトルこそ「貧者を喰らう国」といかにもおぞましいが、筆者の記述からは、寧ろ中国の人達への深い愛着、愛情が感じられる。

1990年代の政策が推し進めた売血。
河南省の人は血を抜くという行為を元々は嫌悪していたのだそうだが、売血することで得られる収入を糧にせざるを得ない状況とあまりにひどい衛生状況、注射針の当然ながらの使いまわし、それらの結果、大量のHIV感染者を出した地方。
その地方のことが海外メディアなどから知られそうになるとそこの地方長官は平然と「お前らなんぞが生きているから厄介が起きるんだ。全員死んでしまえ」と平然ののたもうたそうだ。

話題はHIV感染者の話から農村の話へ。
農民だけに課された過酷な税金。

その末に農業に限界を感じ、出稼ぎに出る農民工。
中国では戸籍というものが農民への縛りとして機能していることが良くわかる。
彼らはどこへ出かけて行こうが、都会の市民戸籍とは分離された農村戸籍であり、どこへ行こうが農民工でしかない。

中国の発展はあまりに目まぐるしく、少し前の本でも、根っこは同じでもまず現在の状況とは違うだろうと、ごくごく直近の近代史的に読んで行くことがままあるのだが、この本の出版は2009年9月、まだ1年と経過していない。

6/29(本日)の日本経済新聞のTOP記事はコマツの中国の16子会社の社長をすべて中国人にする、というものであった。
また、最近良く目にする記事では中国の工場での賃上げストが多発している、というもの。

確実に中国の人達の人件費は上がって来ているのだろう。

方や上海万博を取り扱ったドキュメンタリーでは、万博で浮かれる人たちを遠目で見ながら、地方から出稼ぎに来た労働者は、万博へ入場するなどとはこれっぽっちも思わず、わずかな職を求めて来たのだが、やはりダメだと地方へ帰って行く姿が映し出されていた。

上海で急増したと言われる蟻族なる若者達。
この人達も職がない人達なのだが、同じように職の無い農民工と彼らとでは決定的な違いがある。
彼らは大学を出たもののホワイトカラーの職を得られない。
農民工達はそんな職を選ぶことすらしていない。

今年になって発表された中国の所得倍増計画なるもの。
かつての日本の所得倍増計画を思い起こさせるが日本のそれが一億総国民に対するものであったのに対して、中国のそれはどうなのだろう。

やはり恩恵を被るのは特定の人々ということになるのではないのだろうか。



対岸の彼女 


第132回直木三十五賞受賞作

働く女性と子育てをする女性を対岸の存在として表現していることに、なんとなく抵抗を感じながら手にした一冊。
最近よく取り上げられるこのテーマに、他と同じような展開を想像してしまいましたが、角田さんの視点はすこし新しく感じられました。

ざっとあらすじ。
主人公はちいさな子供のいる専業主婦の小夜子。
独身時代はばりばり働いていたけれど人間関係に疲れて結婚と同時に退職。
再び世間とのつながりを求めて働き始めることを決意します。

そこで出会ったのが独身女社長の葵。
意気投合しますが山あり谷ありで決別。

間には学生時代の葵のエピソードがあったりします。

いろいろなエピソードから、小夜子と葵がまったく違う人生の経験を通して、まったく違う人間になったのではなくて、
意外と同じ感性や感覚を育てていったことが伝わってきます。

高校時代、いろんなことを言わなくても伝わるくらい近くに感じられたた友人と、卒業後、進路を別にして徐々に距離が離れていった経験があります。
壁を作っていたのは何だったのか、わかるようではっきりわかりません。
でも、きっと自分の中の勝手な決め付けが彼女を遠ざけてしまったのだと思います。
この本を読んでいると(もしかしたらこれは女子独特のものかもしれませんが)、誰にでもある苦い思い出がよみがえってくるような気がします。
そして、そのことを悔やむだけではなくて、またもう一度小さなきっかけを自分が作ることで、対岸の彼女をこちら岸に、もしくは自分をあちら岸に連れて行けるかもしれないと思わせてくれます。

すぐ近くに感じた人でも何かのきっかけで対岸の存在になりえること、
対岸の存在だと思い込んでいる人が、実は寄り添える存在であったこと、
もしかしたら対岸と感じさせているのは自分の人生を肯定したいという弱い思い込みだったりすること。
そんなことを考えさせられる一冊です。

対岸の彼女 角田光代著 第132回直木三十五賞受賞作