読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



ぼくらのひみつ 


昔、手塚治虫の描いた漫画に「時間よー止まれ!」と叫ぶ少年が登場するものがあった。全ての時間が止まっている中、その少年だけが動くことが出来る。
街中を歩く人、階段を駆け上がる人、昼飯にうどんを食べている人、皆、時間が止まると同時に静止してしまう。

この本の主人公も時間が止まるということに遭遇する。
時は2001年10月12日午前11時31分。

手塚治虫の「時間よー止まれ!」と決定的に違うのは、周囲の人は動いている、というところだろう。
もう一つ決定的に違うのは「時間よー止まれ!」と自ら能動的に止めて、能動的な意思で動かすという便利なシロモノではなく、この主人公は止まった時間から抜け出せずにいる、ということだろうか。

外へ出て、道行く人、道行く人に時間を尋ねてみると返って来るのは必ず、11時31分。
117の時報へ電話をすると、返って来るのは、延々と同じ時間。午前11時31分○○秒をお知らせします・・・。

寝ても11時31分、覚めても11時31分、延々と読書をしても同じ11時31分。

テレビでは同じクッキングにワンシーンとCMのワンシーンが延々と繰り返される。

この同一時刻の世界には二通りの人が居ることに主人公は気がつく。
固定的な人間と流動的な人間。

流動的な人間というのは道ですれ違った人達など。彼らはその時点で11時31分に存在しても次の時間へと移動して行ったはずである。

固定的な人間というのは必ず同じ場所に居なければならない人、居るはずの人。
喫茶店のマスター、ウエィトレス、本屋の店主、など毎日出かけて行っても、というこの毎日という概念も同じ日の同じ時刻なので毎日と言えるのかどうかさえわからない世界なのだが、とにかく目が覚めて出かけて行っても同じ日の11時31分。
必ずそこに存在する。

主人公氏はこの奇妙な世界を利用する手はないものか、と泥棒なんぞを思いつく。
留守の家へ入って堂々と現金を頂戴して来る。
現行犯で無い限りは発覚するのは11時31分より後に決まっている。
そうやって旅行鞄三つ分ほどの現金を集めてみるが、やがてそれも飽きてしまう。

時間が動かない、そう、そのせいで電車にもまともに乗ることが出来ないのだ。
次の電車が11時34分発なら、その3分後は永久に来ない。

なんとも不幸としか言いようのない世界に入り込んでしまっている。

唯一の救いは固定的な人間であれ、流動的な人間であれ、この主人公氏と同じ空間に存在している以上は同じ時間、つまりはずーっと同じ11時31分を過ごすことが出来るというところだろうか。

そんな暮らしを続けながら、ノートをしたためる。

ノート、所謂、日記。
同じ日の同じ時間ばかりの日記。

この日記というか手記というか、これがだんだんと破たんをきたして来るのだ。

ひらがなだけで埋め尽くされたこの手記を読んだ時は、『アルジャーノンに花束を』のチャーリイの最後の方の文章を想起させられてしまった。
ひらがなだけで句点も句読点も無い文章はなんとも読みづらいものである。

人が一分で通りすぎてしまう時間をずっと過ごすことが出来るということは考えようによっては、後の世界の歴史すら変えるようなことが出来たかもしれないのだが、主人公氏は同じ11時31分の間に何千冊もの本を読み、何千回という睡眠をとる。
おそらく本人の体感的には10年以上の歳月を送ってしまったのだろう。

「なんで11時31分だ!笑っていいともも見られないじゃないか」の嘆きには思わず笑ってしまった。
笑っていいともが仮に面白かったとしたって同じシーンの繰り返しじゃしかたないでしょうし。

彼は決してこの地上でたった一人しかいない孤独な存在ではないはずなのだがその孤独さ、は『アイ・アム・レジェンド』の主人公をしのぎ、その虚無感は明日の無い死刑囚をしのぐのではないだろうか。
なんとも摩訶不思議な世界を描いたものである。

ぼくらのひみつ (想像力の文学)  藤谷治 著



驟(はし)り雨 


驟(はし)り雨  藤沢周平 著

時代小説は読みにくいイメージがあったのですが、短編なら読めるかなと思って選んだ一冊。

おもしろいと思ったのは「泣かない女」という話。

ざっとあらすじ。

主人公の男、道蔵は足の悪い女房のお才と別れて、ほかの女と一緒になろうと考えていた。
そしてその事をお才に話すと、お才は泣くでもなく、責めるでもなく、あっという間に荷物をまとめて出て行ってしまう。

いなくなってしまってから急に慌てだす道蔵。
そしてお才を追いかけていって・・・。

なるほど、こんな風にしたら男の人は逃げていかないのか、と一瞬思いましたが、
こんなだらしない男の人に、こんなに都合よくやってられるかいなと思い直しました。

でもなぜか魅力的に思えるこの二人。それは時代背景のせいなのでしょうか。
その時代を生きたことは無いのに、頭の中に二人の光景が広がります。

男がいわゆる「男」らしく、女がいわゆる「女」らしかった時代。
携帯電話もなくて、擦れ違ってしまったらもう二度と会えなくなってしまうかもしれなかった時代。
今より多くのことが許せて、やり直せた時代だったのかもしれません。

そんな時代なら私もかわいい女になれたのかな。と思った一冊でした。

驟(はし)り雨    藤沢 周平 (著)



海峡の南 


北海道から神戸へ移住して来た父。

大局の無い小さな金儲けのネタがあれば、ハナを効かせ、飛びついて何でも手を出しては失敗する。
大した商才もないのに儲け話にだけは、飛びついてしまう。
そんなやついるよなぁ。今となっては「いたよなぁ」になるのかな。
とはいえ嫌いじゃない。そういう生き方も。

どうせすっかんぴんで出て来たんだから、すっかんぴんになったところで恐れる何があるのか。
失うものがないところからのスタートなら失うものはない。
失うものを持ってしまうと重荷になる。
ならば常に失うことを怖れずに好き勝手に生きるのも一つの生き方だろう。

まぁ、そんな父を持った息子には災難かもしれないが。

それにしてもおもしろいなぁ、この伊藤たかみという作者の表現は。

思わずそうなのかなぁ、と思えてしまうし現にそうなのかもしれないと思えるところしばしば。

それを主人公の”はとこ”の歩美に語らせる。

子供が母親似なら昔一度は好きになったという遺伝子を引き継いでいるはず。だから母親似なら父親が好きになる要素をたっぷり持っているはず、という理屈。ほーんなるほど、などと思ってしまう。

「不在という名の存在」これはこの本を読まなければわからないかもしれない。
それを聞いて主人公も、んなわけあるか、と思いながらも案外そうかもな、と思えるところはあたりで主人公の意識が読者に伝播するのである。

北海道は時間がゆっくりとながれているのかもしれない。
北海道は距離感がつかめない。
そうなのかもしれないなぁ、と。

”はとこ”どころかこの主人公の男性も父はホームレスになっているのかもしれないと言われた時に、「今なら親父のことが好きになれそうな気がして来た」というあたり相当な変わり者か。

北海道の人が本州を「ナイチ」と呼ぶあたりに「そうだったのか」などと思ってしまうが、この舞台の大半にあたる紋別や遠軽というところから見れば、距離的にはロシアの方がはるかに近い。

かつて父親が渡った北海道から本州へと海峡を渡ることの重み。
本のタイトルである 『海峡の南』 という言葉の意味を何度も想起させてくれる本だった。

海峡の南  伊藤たかみ 著