読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



ダブリンで死んだ娘 


アイルランドの小説など過去一度も読んだことが無かったが、昨年に見たドキュメンタリーの影響か。
ダブリンという響きが本を手に取るきっかけだった。
ドキュメンタリーというのは他でもない。経済問題である。
あのリーマン・ショック以来の世界同時不況の中、アイルランドの景気後退は他のどのユーロ圏諸国よりも深刻な状態をあらわしていた。

今や欧州ではギリシア危機が最も深刻に語られているが、アイルランドも相当なものだ。

何より、日本が「失われた10年」を過ごして来た中、年率平均6%~7%のペースで急成長してきた国である。
賃金カットと増税、たったの一年の間に失業率は5%から10%に・・・というような。

とは言え、日本の現状もひどいものなのでアイルランドばかりを心配してはいられない。
そんなことはさておき、「ダブリンで死んだ娘」の邦訳は昨年(2009年)の出版であるが、舞台となっているのは1950年代で、上の記述は本の紹介上何の意味も為していない。

一人の病理医が、搬入された若い女性の遺体に目をつけたのが始まり。

彼は大病院の病理科医長でもあり、検死官でもある。
死因に不審を持ち、再度遺体を見ようとするのだが、遺体はすでに運びだされてしまっていた。
そこからこの病理医が執拗にこの女性の過去やその周囲を追いかけ始める。

ミステリものなので詳細を書く事はNGであろう。

敬虔なクリスチャンでありながらクリスチャンを超越してしまった人びと。

貧しい家の子供達を幸せに出来るのは自分達でしかない、と思い込む高貴な地位の人たち。
とんでもないお仕着せがましさ。
なんと高慢で、傲慢で、想像力の欠如した人たちなのだろう。

翻訳者のせいなのか、多少冗長に感じるストーリー展開なのだが、英語圏内では反響を呼んだ小説なのだという。
アイルランドには、いやケルト民族にはそういう人たちが存在してもおかしくはない、と思わせる空気があるのだろうか。

ダブリンで死んだ娘 ベンジャミン ブラック著 松本剛史 翻訳 ランダムハウス講談社文庫



嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 


読み始めて第一感、西尾維新っぽいかな?と思ったがそうでも無かった。

作者があとがきで自ら述べているように、まさに「書き散らし」た言葉遊びのやり取り。作者は山ほど書き散らかしの言葉遊びを溜め込んでいたのではないだろうか。

あらかじめストーリーありきだった様には思えない。
書き散らかしの山から削って、拾ってを繰り返す内に体系だって来たものを後からストーリー的なのものに嵌め込んで行った、その結果の成果物のように思えてしまうのは何故だろう。

物語としてはまりに救いが無い。
あまりにも壊れすぎている。
心が壊れているという表現は語弊を招くだろうか。

とある田舎町で立て続けに発生している連続殺人事件と一つの小学生の失踪事件。
連続殺人の方は単なる殺人ではなく惨殺という言葉を使うような殺人ばかり。
なんの取り柄もない田舎の町が全国区になったのは8年ぶり。

その8年前に発生した誘拐事件の被害者が主人公のみーくんとまーちゃん。
そのまーちゃんが小学生を監禁している。
話はそこからはじまる。

そこからはじまるがストーりーそのものは先に書いたように救いがないのでふれない。

荒っぽい言葉遊びだけに明け暮れている様にも思えるが、存外な面も覗かせる。

例えば、無意識という言葉を作者は「ムイシキ」とカタカナ表記する。
会話ではもちろん感じないが、文章では「無意識に○○をした」と「ムイシキに○○をした」では伝わる語感が違う。
意識が無い状態で行ったのではなく、何気なく行った行為について「無意識」という漢字をあてることを回避しているあたり、案外この作者は言葉表記を大切にしていないように見えて大切にしているのではないかと思わせる。

作者のペンネームも変わっている。入間人間。

作風からしてあの宮崎某が起こした連続幼女誘拐殺人事件の舞台となった入間川をもじったのではないか、などと考えてしまったが、それはおそらく考えすぎなのだろう。



神去なあなあ日常 


実に生々しい林業の体験記ではないか。
と、思いたいところなのだが、主人公が山村に住み込む20前の男の子であるのに対して作者は女性であり、はたまた結構売れっ子の作家。
実際に体験したわけではないのだろう。
まさしく、実体験を書いているような、そこでしか味わえないような描写の数々。

多くの人に取材をしたのだろうが、取材だけでここまで実感あふれるものが画けてしまうものなのだろうか。

この本は山での仕事の過酷さを描くこともさることながらそれを上回る山仕事の充実感。林業の魅力にあふれている。

林業従事者は昭和30年代の1/6。
ここ10年をとってみたって10年前の約6割と言われる。

老齢化が進んでいる産業なのだ。
現在従事している人がもっと老いて行けば、もはや産業として成り立たなくなってしまうのかもしれない。

先日、1月末に2009年の全国都道府県の転入、転出のそれぞれの差異が新聞に載っていたが、
「大都市圏への人口流入鈍る」との謳いながらもなんだかんだと、東京圏への転入超過はやっぱりプラス。愛知万博以降、転入超過が激しかった名古屋圏内の転入超過がようやく収まってはいるが、鈍化したとはいえ、東京、神奈川、埼玉、千葉という首都圏へは全部合わせれば10万人超の転入超過。

年越し派遣村・・ってネーミングもどうかと思うが、ホームレス村ではあれだけ仕事がない、住むところがない、と方や騒ぎながらもそれでもやはり東京へと集中しているのが現状の姿なのだ。

神去村というこの本の舞台となる山村も若者離れの例外ではない。

横浜から職業訓練生として嫌々ながら来てしまった主人公の若者。
当初は携帯すら通じないこの山村を逃げ出そうとするが、だんだんとこの山や木やこの仕事、この村が好きになって行く。

若者が離れてしまうのは単に仕事がきついからだけではないのかもしれない。
同年代の若者が他に居ない、というのもなかなかきついものなのかもしれない。

この村のオヤカタさん、1200ヘクタールというとんでもない山持ち。昔なら大長者様のような存在だろうに皆の衆から清一、清一、と呼び捨てにされる。しかしながら一旦指示を出すと誰も逆らわない。

この人などのように東京へ大学へ行った時に結婚相手を見つけて連れて帰って来てしまう。こういうのがSTOP・ザ・過疎化に一番いいのかもしれない。

山暮らしの良さはお金のたかでは量れない。
そこで暮らすだけならお金を使うことがないのだから。

この若者の場合は、野菜だってなんだって食い放題の状態で豊かな自然を満喫し、尚且つ給金がもらえるだけでも充分と充足している。

この本、2009年の出版。
都市圏でも仕事が無い無いと言っている最中の出版。
まさに時宜を得ている。
雇用の今後の行く末は介護業界しかないように言われるが、林業などどうなんだろうか。ホームレス村でおかゆをすするよりははるかにマシのように思えるのだが・・・。

まぁ、まず自分が行かないことには始まらないか。

神去(かむさり)なあなあ日常 三浦しをん著(徳間書店)