読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



水深五尋


第二次大戦中の物語。
ドイツのUボートが現われるイギリスの港町が舞台。
主人公の少年は自国の貨物船が撃沈されるにあたって、この港町のどこかにドイツのスパイが居るのでは?と疑い、自ら捜査を始める。

と書くとまるで愛国少年、軍国少年のようだが、やがては自国の権力者達を嫌悪するようになる。

「水深五尋」というタイトルだから潜水艦の中まで冒険する物語かと思ったのだが、そうでは無かった。
舞台は陸上である。
寧ろ、Uボートにまつわる冒険話などではなく、国内の移民や様々な階層の人たちの有りようを描いている。

イギリス国内にもアンタッチャブルとも言えそうな、警察も手が出ない地域があったりする。
そんな中でのスパイ捜しは少年にとって危険でないはずもなく、それが冒険話として語られている。

スパイ捜しはともかくもその舞台となる地域でのことは著者自らが体験した話なのだと著者は書いている。

それにしても何故?
何故この本が本邦初訳なのだろう。
戦後60年以上経過し、既に著者も10数年前に亡くなっている。

日本人を敵視している表現があるから?そんなわけはない。
当時は敵国だったわけだし、戦中ならともかくも。
2009年になって何故今頃初訳なのだろう。

もう一つ、何故?
あのスタジアジブリの宮崎駿氏が表紙を飾り、挿絵を書いている。
もちろん、といえばもちろんながら隣のトトロ風でも無く、風の谷のナウシカ風でもない。
何故今頃挿絵なんて書いているんだろう。

と、物語の本筋とは違うところでどうしても何故?が発生してしまうのである。

水深五尋 ロバート・ウェストール著 宮崎駿 (イラスト)  金原 瑞人 (翻訳)  野沢 佳織 (翻訳)



猫を抱いて象と泳ぐ


子供なら誰しも背が高くなりたい、もっと大きくなりたいと思うのが普通だろう。
だが、この主人公は大きくなることを恐れる。
大人になることを恐れるのではなくからだが大きくなることを恐れる。

デパートの屋上に連れて来られた小象が大きくなってしまったために、本来なら屋上から去るべき時にエレベーターにも乗れず、階段も通れず、そのまま37年もの生涯をデパートの屋上で鎖に繋がれたまま過ごした。
この主人公が目にするのはインディラという名ののことが書いてある屋上の立て札だけである。
それでも主人公はインディラに話しかけ、インディラのことを思い、自ら大きくなることを恐れ、太った人がそれ以上太ってしまうことを懸念する。

小川洋子という名前に覚えがあって、中身もわからずに手にしたこの本だったが、その覚えは正しかった。果たして「博士の愛した数式」を書いた小川洋子氏だった。

この本、チェス好きならおそらくたまらない一冊だろうな、と読みながら思ったが、チェスを全く知らなくても十二分に楽しめる。

この本には主人公の名前が一度も出て来ない。

それはあってはいけなかったのかもしれない。

この主人公を作り上げたのは作者かもしれないが、主人公と同じように生きたかもしれないはずの人形の中の無名を望んだ天才チェスは確かに存在したのだろう。

リトル・アリョーヒンは実在したのかもしれない。そんなベールを被せておくためにも主人公に名前などはなかった方が良かったのだろう。

かつて実在したアリョーヒンというチェスの世界チャンピオンの残した棋譜はまるで一篇の詩のようであったと記述されている。

リトル・アリョーヒンもまた、美しい棋譜を残すことだけを考えてチェスを指す。
最強の一手は必ずしも最善の一手ではではない、と言ったみずからのチェスの師マスターの残した言葉どおりに。

チェスの指し方でその人がどのような人なのかがわかるのだという。
実際のその人の行動を見ているよりもチェスを指している時のほうが、人間が良くわかるのだと盤下の詩人は言う。

今やコンピューターチェスもコンピューターが人間チャンピオンに勝ってしまうようなところまで来てしまった。

盤下の詩人はコンピューターチェスチャンピオンの棋譜にどんな性格を見るのだろうか。

猫を抱いて象と泳ぐ  小川洋子 著



フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由


かつてまだ冷戦時代の全盛期に城山三郎氏がいずれ資本主義国家は社会主義的になり、社会主義国家は資本主義的になるだろう、と談話だったかエッセイだったか、対談だったかで書いていたのを読んだ覚えがある。

まさに実際にそうなっていたのだった。
中国では20代、30代でも人の何十倍、何百倍を稼ぎ出す事業家が現れ、
この本で紹介されるフランスという国、まるで1970年代のソビエト連邦の宣伝文句とそっくりじゃないか。

教育は無料。幼稚園から大学まで無料です。
ソビエト連邦の国民は皆平等なのです。
ユートピアなのです。と。

そんなにフランスはユートピアなのか。

「フランス ジュネスの反乱」という本ではフランスの別の一面が描かれている。

日本もかつては一億総中流などと言われ、もっとも社会主義が成功した稀有な資本主義国家と言われた時代があった。

一億総中流と呼ばれる時代にも格差はあっただろうし、貧しさだってあっただろう。
しかしながらいつしか一億総中流は死語となり、この国は格差社会と呼ばれるようになった。

格差なるものはどんな社会にも生まれるのだろうし、貧乏な人だってどんな社会にでも生まれるのだろう。
貧乏すなわち貧困とは違うだろう。

清貧という言葉がある。
金銭的に貧しくとも心まで貧しくなってしまってはどうしようもない。

金銭的な貧しさよりも満足度が得られない社会、期待の持てない社会、夢の無い社会、そういう社会こそ忌み嫌われる社会なのではないだろうか。
今やまさに期待の持てない社会

この本は2009年1月に出版されている。
まさに現政権の選挙時のマニュフェストを先取りしたような内容の記述が多々ある。

この手の本が現政権のマニュフェストを書かせたのではないだろうか、と思うほどに。

子供手当てがまさにそれである。
専業主婦を害悪的に評し、扶養控除の廃止を訴える。

子供の養育費に一人当たり2千万円が必要だって、そりゃ2千万円かける人も居るってだけだろうに。
塾へ行くのが何故当たり前なのか。私立大学へ行くのが何故当たり前なのか。

富裕層は子供を塾へ通わせ、偏差値の高い学校へ通わせ、一流大学を出てエリートとなり、貧困層はそんなお金が無いから、貧困層の子供はやはり、ニートや非正規雇用になるって、ちょっと短絡的すぎやしないか。

世の中で活躍している人に子供の頃は貧乏でした、って人はいくらでもいるじゃないか。それに塾へ行ったら一流大学か?
なぜそんな短絡的な思考しか出来ないんだ。

子供手当ての支給すなわち少子化社会のストップに本当につながると思っているのか?

先進国(これまでの)では概ね少子化の傾向にある。
そもそも人口が右肩上がりで増え続けて行っていた事そのものが異常だったという論もある。
江戸時代300年間、日本の人口は一定だったのだとか。
これからは人口減少時代へ入って、1億が8千万にそして6千万にそれから人口一定の時代が来るという説を述べる学者も居る。

いや、そういう説があるから少子化を諦めろというわけではない。

少子化の対策はバラマキじゃないだろう。

バラマキをするなら、金よりも渡辺淳一の「欲情の作法」でもばら撒いた方がまだ効果があるんじゃないのか。

それより何より国家ビジョンを打ち出せないところが一番の問題じゃないのか。

夢のない国じゃ、子供も可哀相だ。