読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



聖女の救済


整形手術をしてまでも逃げおおうせようという人間は確かに存在した。
だが、トリックというものを駆使してまでして人を殺めようなどと思う人間が果たしているのだろうか。
それだけの頭脳と労力を使うぐらいなら、その頭脳は別の道に活かすべきと頭脳そのものが指令を出すのではないか。
などと思ってしまってはなかなかこういうトリックを駆使したミステリーものの読者としては失格なのだろう。
有り得ないだろう、そんなこと、と内心思いつつも、よくぞそこまで練りあげてくれた、と作者の労苦と知恵を賛辞するのが正しい読者なのかもしれない。

この「聖女の救済」という本、テレビでもおなじみになってしまったガリレオ先生の謎解きのシリーズの一刊である。

ガリレオ先生こと湯川先生曰く「この犯罪は虚数解」なのだそうだ。
虚数解、理論的には考えられるが現実的には有り得ない。

「有り得ない」と先に作者から宣言されてしまっているようなものだ。
先に宣言された以上、どれだけ突っ込みどころ満載の最終結末であろうと読者は今更突っ込めない。

うまいなぁ、東野さんは。

ということで、内容をこれ以上触れることはミステリーものには禁物だろう。

内容に触れない感想を今少し。

ガリレオのシリーズと知ってしまった以上、テレビで一度でも見てしまっている者なら、誰しも謎解き先生とどうしても福山雅治が被ってしまうだろう。

作者もかなりそれを意識している様に思える。
風体の描きもそうだろうが、それどころか本の中にまでその名前が出てくるのだ。
しかも二回も。

もちろん、その音楽を聴くというくだりでだけなのだが、日本の小説の中で日本の役者の実名が出て来ることなど稀有なのではないだろうか。

作者なりの演者に対するサービスの気持ちの表れと言ったところなんだろう。

そりゃあんまりだ。そんなやつおらんやろう、と誰しも考えてしまうような決してミステリー作品としても一級とは言えない作品なのだろうが、やはり謎解きのラストまでぐいぐいと読者を引っ張って行く力はこの作者ならでは、なのかもしれない。



絶望ノート


思ったよりかなり読み応えのある本だったのに驚いた。
冒頭から読み始めた時には、うーん、中学生のいじめに関する日記を延々と読むことになるのだろうか。などと嘆息してしまったのにも関わらず。

本の半分以上は中学生の日記、都度都度でその周辺の人たちが語り部になっている。

その半分に及ぶ中学生(主人公)の日記だけでも充分読み応えがあるのだ。
中学生の日記というにはあまりにも饒舌で表現豊かで、ってそれだけでもぐいぐいと引っ張られる。
ストーリーの合い間に書かれている世の中に対する批判めいた文章もなかなかに切れ味が鋭い。ビールの消費量を東京ドームの何杯と表現するメディアについて何杯分と言われたって実感が無いじゃないかと。それを不思議に思わない連中も無自覚だと。
そりゃそうだ。

ジョン・レノンと誕生日が同じで育った境遇が似ていて、ジョン・レノンをそのままCOPYしたような生き方をしようとする父。
母の名は瑶子。そして息子である主人公の名はなんと照音(ショーン)。
苗字が太刀川なので、あだ名はタチション。

バンドとして成功しなかった父は音楽の才能ばかりか、こつこつと働くという才能も無かった。
だから、仕事を辞めてまたまたジョン・レノンを真似てハウス・ハズバンドとなっている。従って父の収入は0。そこはあくまでもCOPYであってジョン・レノンではないから。
おかげで一家は貧しい。

照音の家にはゲーム機も無ければパソコンも無い。携帯も無い。照音は同級生から執拗ないじめを受ける。
なんかよくありそうな話だ。

方や「夢を持て」と言いつつ、将来なりたいものが小説家なら、もっと現実を見ろ、という教師。何の期待も持てない教師。これもよくありそうな話だ。

そのよくありそうな話がよくありそうでない話にどんどん展開して行く。

照音は、石を拾って来て、自ら作り出したオイネギプトという神が宿っているものとしてひたすら祈る。

その神である石がこの本の表紙に使われている石なのだろう。

絶望ノートとはいじめられている中学生の日記なのだが、ある意味デス・ノートの様な側面を持っているのだ。
それ以上突っ込むとネタバレになってしまう。

教訓その一。
言葉で言い表すよりも文章、しかも隠れて書いている日記という文章には説得力がある。
本当かなぁ。日記ってそんなに信憑性のあるものなのかなぁ、などと思ってはいけない。
いじめをひたすら隠す子の日記には真実があるものなのだ、あるものなのかもしれない。
いけない。いけない。
この本をネタバレ無しで紹介するのは非常に難しい。

教訓その二。
「中学生はこわい」
ぐらいの言葉でしめさせてもらおう。

絶望ノート 歌野 晶午 著



筆に限りなし - 城山三郎伝


この本を見つけた時、もう伝記が出てしまっているのか。
亡くなった報道を聞いたのはほんのつい先日のような気がしていたのだが・・。
と思ったのが実感。

城山三郎さんには、もちろん本を通してであるがずいぶんお世話になった気がする。

『百戦百勝』では山種証券の創業者が描かれ米相場のことや、仕手戦のことなどこれまで知らなかった世界を教えて頂いた。
『雄気堂々』では渋沢栄一の志というものを教えて頂いた。
今や世の中デフレの時代。あちらこちらの業界で価格破壊が起きつつあるが、安売りの先駆であるダイエーの中内社長の行動力を描いた『価格破壊』。
『落日燃ゆ』ではそれまで知りもしなかった広田弘毅という文官では唯一A級戦犯となった人の潔い生き方を教えて頂き、
『風雲に乗る』ではモデルは日本信販の創業者だと思われる人が日本で初めて「月賦販売」という販売方法を行ったチャレンジ精神が描かれ・・・。

などと書いていくと切りがないほどに昭和史、もしくは昭和の経済史を教えて頂いたような気持ちがある。

これは昭和ではないが、圧巻はやはり『鼠』。
米騒動の発端の米の価格暴騰の最大の悪役とされ、焼き討ちにあった「鈴木商店」を大正時代の当時を知る生き残りの証人を見つけだして徹底的に調べ直し、「鈴木商店」の潔白を小説の中で証明してしまう。
これなどは歴史をひっくり返した作品と言っても良いのではないだろうか。

そんな城山三郎さんの生き様を、「城山三郎」と名乗る前の杉浦英一の時代から描いているのがこの「筆に限りなし」である。

城山氏が十代の若かりし頃、軍国少年であった事は折に触れ、本人が発言していた。
そのご自身の体験は『大義の末』を読むことで、戦前・戦後の正反対になってしまう価値観、またそこでうまく世渡りをして行く人間への軽蔑、憤り、というものを描いたことで、一読者としては一段落したものとばかり思っていたが、この伝記を読む限りそうでは無い。
城山氏は生涯を通じて「大義」を信じた時代と、「大義」を信じた自分と格闘していた。

また『輸出』に始まり『神武崩れ』、『生命なき街』、『大義の末』、『総会屋錦城』、『辛酸』、『乗取り』・・・などとそうそうたる作品を仕上げながらも、大学で教鞭をとることとの二束の草鞋を履き続けてまだ作家だけで飯を食うことには不安を持っていたなどと、後年の城山氏の読者にはにわかに信じがたい事が書かれている。

経済小説というものを書く事で文壇からは異端と言われ、足軽作家と言われた城山氏の心情を読者は知らない。

この作者、伝記といいながら城山氏をべた褒めしている訳ではない。
『落日燃ゆ』などは主人公に傾注しすぎであるとか、あの金解禁政策に賭けた名宰相浜口雄幸を描いた『男子の本懐』をして、踏み込みが足りない、執筆の熱気が薄まっている、とかなり手厳しい。

明治以前の日本の歴史は司馬遼太郎を師と思い、大正・昭和の歴史の師を城山三郎と思っている一読者にしてみれば、『男子の本懐』を貶されたのみならず、司馬遼太郎の作品が無自覚で、上から見下ろした俯瞰した視点で書いている、と切られる記述があるのはいささかショックであるが、やはりやむを得ないのではないか、と一読者としては思うのである。

真田幸村を主人公に描く人が徳川家康より真田幸村を魅力的に描くのは当たり前であり、広田弘毅を描く人が吉田茂より広田弘毅を魅力的に描くのは当たり前。

司馬遼太郎作品などは明らかに主人公が魅力的に書かれていることを承知の上で司馬遼太郎を読んでいる。

いずれにしろ、中には手厳しくもあるが、城山氏が如何に勤勉に自分の足を使った人であるか、自らの立脚点であった「大義」との決別を生涯風化させることなく持続させた人であるかを、この作者はあまりにも早い伝記にて教えてくれるのである。

城山三郎伝 筆に限りなし 加藤 仁 著