読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



狼と香辛料


特定の場所に店を構えず、商品を持ち歩いて売り買いをし、さやを稼ぐ。
ここで登場する主人公も北から南へ西から東へ塩を運び、麦を持ち帰る、というような行商人である。
麦を仕入れに行ったとある村で、麦の豊作を司る神の化身である狼を祭ったお祭りに出くわし、その帰りになんと「麦の豊作を司る神」の化身である狼のさらなる化身である少女が旅の道連れとなる。

この物語、冒頭より麦の先物買いだとか、先物だの為替だのという用語が出て来る。

為替取引の起源に近いようなやり取りまで出て来る。
ある町の商会で塩を買った時にそこでは金は払わない。何故なら別の町で同じ商会の支店に同額の麦を売っていたからだと言う。
これが為替取引なのだというくだりがあって、しばし考えてしまった。
しかも南の商業国で発明された画期的なシステムだという。

いわゆる物々交換としての為替取引、物々交換としての取引は貨幣というものが生まれる前のものではなかったのか。
しかしながらこの物語の時代には既に貨幣は存在している。
ある町と別の町での流通貨幣が異なるため、その為替損益をリスクヘッジするための実物取引なのだろうか。
もしそうでないとしたら、その取引の目的は何なのだろうか。
別の町で同じ商会の支店に同額の麦を売ったのなら現金決済をしてもらった方が行商人という明日をも知れぬ立場なら有り難かったのではないのだろうか。
麦を売った際に当然、証書的なものを受け取るだろう。それが99%信用出来るものだとしても、別の支店でちゃんと塩が用意されているかどうかのリスクを負う。
塩ならまだ天候に左右される要素は少ないが、それが逆ならどうなのか。
塩を売った金を受け取らず、麦を受け取る権利を得る。別の町で麦は天候不順で不作かもしれない。
それでも受け取る権利がある以上、不作なら高値の麦を受け取れるという仕組みなのだろうか。
不作なら安値の麦を受け取らざるを得ない。
何やら行商人という立場の方が商会側よりはるかにリスクも高いように思えてしまうのだが・・。
リスクが高い分、現金決済よりも取引を優遇してもらえる仕組みなのだろうか。

日本でも貨幣経済が確立した後であっても武士がもらえるはずの何百石=つまり米なのだが、その米を実際に受け取らなくても受け取るはずの証書=つまりその当時でいう為替を持って他の商品購入にあてるという形式はあったはずだが、これなどは証書=紙幣と同じことなので同じ理屈は当て嵌まらない。

では、なんだろう。
現金決済をしないことのメリットはせいぜい多額の現金を持って夜盗などに襲われて奪われるリスクをヘッジしたもの、ぐらいしか行商人の立場からは思いつかない。

おそらく読み手のこちらがちゃんとシステムを理解していないからなのだろう。

話の中ではなんで?という疑問への解答は書いていないが、作者にしてみればそんなことは書くまでもない常識だろ、ということなのか。
いや、ストーリーの本筋とは違うから、深く突っ込んでくれていないということなのだろう。
本筋のストーリーが気に入らないわけではないのだが、そういうところがクリアにならないとなかなか、ストーリーにすら入っていけない読者というものも困ったもんだ。

この物語、ライトノベルというジャンルでありながら、いや、そんなジャンル分けに意味があるとは思えないのだが、商談にあたっての真偽について、真であれば儲ければ良く、偽であれば、注意深くその裏をかけば大抵は儲け話になる・・などというやり取りなど、この作家、商社にでもいたのではないか、などと思えてしまう。

商会との商談での駆け引きなどはなかなか読みごたえがある。

はたまた、このストーリーには貨幣の投機というものが根底にある。

貨幣の信用度という言葉も度々登場する。

国の貨幣の流通は即ち国と国との戦争に匹敵する。その国の貨幣に席巻されること、即ち経済的には属国となるに等しいとまで触れている。
ドルの信用が落ち、ドル決済が減る。これまでは元などで決済することは考えられなかったものが、中国元での決済が今や急激に伸びているという。
この移り変わりをまさか触れているわけではないだろうが、なかなかにして正鵠を得ている類の会話が散見されるのである。

ストーリーの本筋にはふれずにおくが、この物語、本何やら電撃大賞とかいうライトノベルの小説の銀賞を受賞した作品なのだとか。

ジャンル分けには興味が無いと書きながらも思うのである。
ライトノベルと言われるジャンルものは何故か無くてもいいイラストがついており、だからライトノベルなんだよ、と言われるかもしれないが、何故かちゃんと一巻で綺麗に完結出来てしまえるものを続き物にする傾向がある様に思える。

この物語も綺麗に完結出来たであろうに、どうも続き物になっているらしい。

だからライトノベルなんだよ、とまたまた言われてしまいそうだが、そういうところがなんだかなぁ。



文学少女と神に臨む作家


『死にたがりの道化』では、太宰の人間失格をモチーフに、『飢え渇く幽霊』では「嵐が丘」をモチーフに・・と原作をモチーフに、それを題材にして且つ原作を掘り下げて、そんな読み方もあったのか、という切り口も入れながら作者ならではの新たな物語を再構築するという試みなのだが、連作が進んで行く内に原作の再構築という姿ではおさまりきれず、原作をモチーフにしながらも平成の世の学生達を役者に揃えての作者の独自の長編物語が頭角を表して行く。

『繋がれた愚者』では武者小路実篤の「友情」を、『穢名の天使』では「オペラ座の怪人」を、『慟哭の巡礼者』では宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフにする。

この『慟哭の巡礼者』で完結するものと思っていた。
この話のエピローグであとは読者の想像に任せるものだと。
と思いつつも名作をモチーフにした新たな物語づくりというものに期待を寄せてもいた。
『慟哭の巡礼者』で描かれる「銀河鉄道の夜」。カムパネルラとジョバンニの心内をこんな風に読むんだ、と感心しつつも実はその名前すらもこれを読んでいる内にかろうじて思い出した程度で、ストーリーすらほとんど忘れかけていた。
読んでは忘れ、読んでは忘れ、読書とはそんなもの、ぐらいに思っていたのかもしれない。でもこの作者の野村美月という人は何度も何度も読んで読んで、また更に別の切り口で読んでおられるのだろう。

主人公はかつて14歳で井上ミウという女の子の名前で小説を書いてしまい、それが新人賞をとってしまった男の子。
細かいことは書かないが二度と小説など書くまいと思って高校に入って出会うのが、自ら文学少女と名乗る天野遠子という先輩。
遠子先輩はまともな食事は一切味わえない。
食事は本。
本を契っては食べ、これはレモンパイの甘酸っぱい味わい、とかしょっぱい、にがい、などと味合う。
本を味合うっていうのはわからなくもないが、比喩ではなく実際に食べてしまうのはどうなんだ、と思いつつもそこはご愛嬌だ、と流せしてしまう。

主人公の男の子の周辺には常に女の子の登場人物が現れ、男の子は流されるタイプで心の強い女の子が物語をリードして行く、そういう形式の話が近頃の若者向けの物語には多いように思えるのは気のせいだろうか。
西尾維新なんかの本の中でも主人公の周囲には常に複数の強い女の子が居て主人公はモテモテだったりする。

それはさておき、このシリーズでは毎回モチーフの文学作品の登場人物にこの本編の登場人物が置き換えられ、話を展開して行く。
嵐が丘のヒースクリフが登場人物に重なり、オペラ座の怪人のファントムがまた別の登場人物に重なり・・・。

物語にはその登場人物の数だけの読み方があるのだ、と遠子先輩は言う。
そしてそれだけの複数の読み方をこの物語で実践してみせ、且つこの本編の登場人物分の物語を作者は作りあげていく。

だから、井上ミウが書かなくなった理由となる問題がクリアになった『慟哭の巡礼者』だけではまだ終わらなかった。

学園理事長の孫娘で大抵の事は頼めばなんとかなってしまうような存在でありならも脇役の一人であった麻貴先輩を『月花を孕く水妖』として泉鏡花の作品をモチーフに描き、さらに最後は文学少女の主役たる遠子先輩の存在を、その家族をアンドレ・ジッドの「狭き門」をモチーフにした『神に臨む作家』上下巻で完結させる。

この遠子先輩という人、明るく、大きく、時におっちょこちょいで無邪気でお気楽で、しかし強く、とにかく前向きでひたむきで・・・だが切ない。
その切ない文学少女の主役たる遠子先輩の存在を、その家族をアンドレ・ジッドの「狭き門」をモチーフにした『神に臨む作家』上下巻で完結させる。

作者はあとがきで毎巻、改稿、改稿、改稿の連続だったと書いている。
そりゃそうだろうと思う。
この作者の挑んだチャレンジに感服すると共に、本というのは作者と出版社の担当との二人三脚なところもあるんだろうな、と思ったりもするのでした。



COW HOUSE


久しぶりに心暖まる話を読んだ気がする。
こともあろうに会議で上司のさらに上の役員を殴りつけてしまった主人公。

シビアなことで有名な部長は彼にクビを言い渡すのかと思いきや、バブル前に会社が購入し、売り損なったまま残されている会社保有の豪邸の管理人をせよ、という。
豪邸と言ったってそんじょそこらの豪邸じゃない。
部屋がなんと20いくつもある。
家の中で迷子になってしまうほどの豪邸。

この主人公の人柄なのだろう。

この屋敷にはだんだんと住人が増えていってしまう。
それぞれ、大きさの違いこそあれ、家庭に事情を抱えた人たち。

主人公の青年はそんな事情を抱えた人たちを救う起死回生の一手を放つ。

COW HOUSEとは別に牛小屋のことではない。
たまたま集まった人たちが丑年生まれだった、という他愛もない命名なのだが、やり手の部長はCOWに無理やりCenter of Wonder なる造語を嵌めてしまう。「この世の中の素晴らしいものの中心になる家」なのだそうだ。

この部長も暖かい。登場人物が皆暖かい。

文学少女に食べさせたら、あったかくてほんわかした蒸しパンの味わい、とでも言うのだろうか。

COW HOUSE―カウハウス