読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



金魚生活


中国では縁起をかついで、時に人間より大事にされる金魚。

ひたすらその金魚の世話を店主から任される主人公の女性。
この女性は中国人のタイプというより寧ろ、控え目な日本人のタイプに近いように思える。
もちろん人口12億も居る国なので、一括りに「中国人のタイプ」などがあるわけもないのだが・・・。

それでもこの作者がそうであるように、大陸的な大らかさというか、細かいことを気にしない気風が一般的なのではないだろうか。

細かいことどころか他の民族はそうそう容易く国籍を捨てたり変えたりはしないだろうが、彼の国の人はいとも容易く他の国籍に乗り換えたりする。

主人公の娘はそういう意味で非常に彼の国の人らしい生き方をする。
日本の国籍を取得し、日本で働き、出産を迎えるに当たって未亡人であった母を呼び寄せ、そのビザの期限が切れる前になんとか母を日本人と結婚させて日本国籍を取得させようとする。
そんな彼の国の人らしい割り切りのはっきりした娘の親にしてはなんとも主人公の女性は奥ゆかしい。

まぁ、感想はそんなところです。

この「金魚生活」というタイトルは主人公に狭い金魚鉢の中で飼われる金魚を重ねようということなのだろうか。
良くわからない。
主人公の女性が日本へ来た時にも好んで着た金魚色の様な服と金魚を重ねて、結局自由に生きることを望まない主人公と鉢の中の囲われた金魚を重ねているのだろうか。

深い感想文にはならなかったが、芥川賞を受賞した作品よりも洗練されている様にも思えましたし、楊逸さんへの期待度は高まりました。

金魚生活 楊逸 著 (文藝春秋)



黄落


59歳からまもなく還暦を迎えようという主人公。
その父母は各々93歳、88歳にて健在であるが、当然のことながら、老いはやって来る。
この本を「壮絶な物語」などというすっとぼけた表現で取り上げている書評を目にしたが、何が壮絶なものか。
これこそが現代日本の縮図であり、近いうちにほとんどの日本人が体験する道のりだというのに。

それにしてもこの主人公は作家という職業柄、自宅に居ることも多く、比較的自由に時間を使える。
世間一般の男達にはこんなまめに親の面倒など見れるものではない。

それでもまだ足りないと自身で思っているところが驚きである。
妻に親の面倒を見てもらうほど心苦しいものは無い、その意識が尚のこと、彼にそう思わせるのだろう。

息子が親の面倒を見る、という一昔であれば当たり前だったことも、それを真っ正直に現実のものとして取り組んでしまえば、息子の家は崩壊の一途を辿る。

なんと言っても息子は外で仕事をして稼がなければならない。

そのしわ寄せは必ず妻に行き、妻は一家の家事と親の介護で疲れ果て、それだけならまだしも、老人は時にわがままで強欲であったりする。
「感謝されない」などということでもあろうものなら、「なんでそこまでして私が!」と怒り狂うのは自明のこと。

ならば俺が世話をするから、と仕事を辞めてしまっては収入が絶たれ、いずれにしても崩壊の道へまっしぐら。

介護施設の完備された有料老人ホームにて面倒を見てもらうことで、親を捨てたなどと陰口をたたくご時世ではないだろうし、そんな声を無視してでも自らの家庭を維持する方を優先するしかないのではないか。

確かに赤の他人様に親の面倒をみて頂くこと、お金を支払っていたとしても心苦しいことこの上ないに違いない。
それでもそんなことよりむ寧ろ自らが生きることを最優先すべきなのだろう。

有料ホームに入れられる人は、そんなことを気にするよりも自らにそれだけの資金的ゆとりがあったことに対して感謝すべきなのだろう。

完全介護の有料ホームだって、なかなか預けっぱなしというわけにはいかない。
週に一度やそこらは見に行かなければ、ならないものだという。

以前、ニュースの特集のような番組で、そういう介護施設で働く、若いヘルパーの女性たちの仕事ぶりを映していた。
テレビは非常に献身的に働く彼女らの仕事ぶりを放映した後に、スタジオ生出演してもらったヘルパーさんたちに直接インタビューを行う場面があった。
「ご自身が老人になった時にはどんな介護を求めますか?」の質問に
若い方のヘルパーさんは思わず答えてしまった。
「私が歳を取ったら、介護される状態になる前に死にたいですね」

番組としては
「私が歳を取った時にこんな介護をしてもらって良かったという介護をしたいと思います」的な回答を段取っていたのではないだろうか。
そうそうにインタビューを打ち切ってしまわれてしまった。

そんな一例を持って、介護の現場を語る気はもうとうないが、
「介護される状態になる前に」というのは若いもの誰しもの考えなのではないだろうか。
そういう意味ではこの小説の中に登場する母の生き様、いや死に様は、未読の方のために詳細は書かないが、新たな可能性を与えてくれたような気がする。

完全介護のホームではなかなか同じように出来ないかもしれない。
その手前での判断が必要なので、なまなかな人には出来ないことだろう。

黄落 佐江衆一 著 (新潮社)



グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに


昨年秋のアメリカ発の金融恐慌が全世界を巡った時、戦争の臭いを感じた人は少なくなかったのではないだろうか。
歴史が物語っているからである。
どんな有効と思われる経済政策も打開策には成り得ず、結局戦争が再生への最大のカンフル剤だった。

恐慌発生後、オバマが大統領戦に勝利し、イラクよりの撤退、イランとの対話を打ち出していたので、その状態からいきなり戦争はまずない。
しばらくの間は戦争への臭いは薄いものになるのだな、と感じたものである。

などという書き出しをしてしまうとこの本が戦争の臭いまでふれているように思われるかもしれないが、上記は本書とは関係無い。

アメリカのサブプライムローン問題に端を発した今回の世界同時不況については、これまでもメディアにても散々語られたことでもあるし、どの会社でも繰り返し話題になったことだろう。
したがって、そもそもの発端についてなどというのは、何を今更という感を誰しも持ってしまいがちである。

ところが、ことの発端の時点では日本へ及ぼす被害は少ないのではないか、との見方から、その後の急激な円高による輸出企業へ一打目の打撃。それそのものはドルの評価が下がり、円の価値が上がったわけなので、一時的な企業の為替損益や評価損益にて赤が出たとしても、寧ろ円が強くなることそのものを評価する向きも多くあった。
ところが円高が、輸出企業の首を絞めだすにしたがって、製造業そのものが苦境に立たされ、これは一時的な問題じゃない、とばかりに非正規の解雇、はたまた正規社員の解雇にまで発展。
そう、当初よりどんどん様相が変って来るにしたがい、当初のサブプライムやリーマンなどの話題などは消え去り、トヨタショックだの、未曾有の不景気だの、雇用を守れ、と今やそもそも「何がどうしてこうなった」のかさえ忘れがちになる。

そういう時期にあらためて、本書の「何がどうしてこうなった」の箇所は今更どころか忘れ去られようとしていた「そもそも」を思い出させてくれると共に、あぁ、そうだったのか、という今更を再認識する上で最も有効な読み物だろう。

現代の金融というものを分かりやすく解説しているので、普段そういう世界と縁のない人や、経済に無関心な人にもとっつきやすいだろう。

サブプライムだけの問題ではない、金融の証券化というものが数々の問題を引き起こすその構造。

2003年時点よりアメリカの実質金利がマイナスだったということを知っていた人がどれだけいるだろう。
実質金利マイナスということは金を借りれば得をするという状態。
借りれば借りるほど得をする。それに火を付けたのが住宅ブーム。

何やらどこぞの世界のいつか来た道に似てやしないか。
そう完璧にどこぞのバブルと同じ道なのである。

では、それを経験済みの日本はこの金融危機においての行く道筋を示すことが出来たのでは?については時が遅すぎた、と筆者は述べる。

オバマ大統領は日本の「失われた10年」を反面教師にすると演説で述べられていたが、日本は失われた10年からまだ完全に脱却しきれていなかったのではないか、というのが筆者の弁である。

日本の低金利、低金利どころか限りなく0に近い金利をバブル崩壊後維持して来たためにその金利に嫌気をさしたジャパンマネーが世界に流れ、投機マネーとして暗躍した。
なんと、では遠因は日本の低金利だったのか?

ではこの打開策とは何なのか。
過去の世界の歴史の中で起こった恐慌はすべからく投機というものが発端である。
金融というもの無しでは資本主義は廻らないのだが、筆者が述べるのは産業を動かす血流としての金融の世界と投機という全く違う目的で、全く違う原理で動く金融の世界を切り離すべきである、ということ。
そう、投機なんてこの世界で行うんじゃないよ。全くはた迷惑な連中だ。
宇宙の彼方でやってくれ、と言いたい。

まぁ、それは極端だろうが、いずれにしろ、切り離すべきと言ってもそれはあるべき姿を述べただけ。

この進行形の世界同時不況、先行きはどうなるのか。
6/16(本日)付けの日経の朝刊のトップには「社債発行、11年ぶり高水準」「金融不安が後退」の見出しが並ぶ。
果たしてそうなのだろうか。

各国政府は金融機関への資本注入や預金保護をはじめとする生命維持装置を取り付けたが、この一旦取り付けた生命維持装置は一体どうやってはずすのか、その基準が見えないところが危険なのだという。

「失われた10年」を反面教師とした結果は「失われた何年」になるのだろうか。

最終的には戦争で再生しよう、と言う結論だけは御免被りたいものである。

グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに 浜矩子 著(岩波新書)