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地球温暖化後の社会


この著者の書き進め方、非常に好感が持てます。
温暖化だ!温暖化だ!とエキセントリックに騒ぎ立てているるのでは無く、誠に冷静な目で事実を分析しようとしていらっしゃる。

「うちエコ」という言葉をご存知でしょうか。
・車の運転で発進時にふんわりとアクセルを踏む・・207g
・ホットカーペットの設定温度を「強」から「中」へ・・193g
・自動車の代わりに自転車を使う・・180g
・エアコンの冷房を22℃から20℃に・・96g
・エアコンの暖房を26℃から28℃に・・83g
・シャワーの使用時間を1分減らす・・74g
・主電源をこまめに切って、待機電力を50%削減する・・65g
・冷蔵庫の設定を「強」から「中」へ・・64g
・車を運転する時1日5分のアイドリングストップを・・63g
 XXgは二酸化炭素の削減量の目安。

などなどの個人レベルもしくは各家庭レベルで出来るエコ活動を「うちエコ」と呼ぶそうです。
上記の様な「うちエコ」を筆者は紹介しながらも、個人で出来るレベルの削減効果のMAXは17%でしかない、と述べ、「うちエコ」を最大限行ったところで根本的な解決には程遠いともおっしゃる。
但し、そういう意識を持つ事は大切なのだ、と。
アメリカの人、人にもよりますが、あのとんでもない浪費癖、エネルギーの無駄使い癖にはエコなど意識したことのない日本人でも驚くという話を良く聞きます。
日本人にはエネルギーの無駄使いを無くそうとする癖が元来あるように思えてなりません。
根本的な解決には程遠いと言いながらもその押しつけがましくない表現で伝えられるので、読む側は元々そういう意識が潜在的にあるだけに逆に「うちエコ」を意識してしまう。
この筆者にはそういう伝達力の巧みさを感じます。悪い意味では無く。

また、ゴミの分別やリサイクルについてもリサイクルを行う事で余分に化石燃料エネルギーを消費する様なリサイクルならやらない方がマシ、と述べる。

まさに当たり前のことなのですが、世の中なかなか当たり前が当たり前じゃないことしばしばです。

序章で温暖化に伴って発生するであろう異常気象などを列挙しておられるので、あぁこの方も環境オタクなのか?と思ったのですが、どっこいそうじゃなかった。
もちろん、環境を大切にする気持ちは同じでも、ものの見方が非常に冷静なのです。

二酸化炭素の増加と温暖化の関連性についての科学的根拠に否を唱える論に対しても敢えて反論をされない。
それでも歴史的背景から見て、産業革命以降に、更に第二次大戦後の石油エネルギー全盛時代に、さらにここ10年で温暖化が急速に進んで来た、という事実を淡々と述べられます。

筆者は既に温暖化がかなり進行していることを認識されています。
二酸化炭素の排出量を現在時点で西暦2000年レベルまで戻したところで、温暖化そのものが即座にストップするかと言うと、この先20年は続いてしまうのだそうです。

ということはもはや温暖化時代に突入して、これはもう避けられないものと認識した方が良いのでしょうか。

結局、産業が石油をはじめとする化石燃料を消費している限り、個人レベルにてはどうにもならないのが現実でしょうし、仮に排出がSTOPしたところで、一旦走り始めた温暖化を逆戻りさせるのには何十年の歳月が必要。

何か抜本的対策があったらいいのですが。

二酸化炭素が問題ならばCO2をCとO2に分解してしまうということは出来ないものなのか。
実際に二酸化炭素増が水蒸気増につながり、それが温暖化をもたらすのであれば、世界各地の水蒸気を定期的に雨にしてしまう、とか。

北朝鮮もテポデンや短距離ミサイルを発射する代わりに、中国が北京オリンピック直前に披露してみせたみたいな、人工降雨ロケットでも飛ばせば、ちっとは評価も変ったでしょうに、ってそれも領空侵犯は領空侵犯だし、そういう名目で長距離ミサイルを開発されても困るか。ましてあの国がそんなことするわけないし。

と、とんでもないところに話が流れてしまいそうですが、そんな緊急の特効薬でもない限りはもはや「STOP・ザ・温暖化」どころではないのではないのでしょうか。

せめてもの提案。
ビルというもの屋上緑化はもちろん、壁面にも緑化工事を義務付けしてしまう。
管轄がもし、国土交通省なら、道路を作るお金をビルの緑化工事助成にでも使って頂けないものでしょうか。
温暖化ストップはともかくもここ近年続いているヒートアイランド現象の対策には少しでも役立つのではないでしょうか。

筆者は江戸時代の人々がいかにものをリサイクルしていたか、環境に優しかったかを書いておられるが、自ら述べておられるように今更、江戸時代に戻れるわけでも無し。

筆者は、
低炭素な街づくりを、
新しいビジネルモデルを、
もったいなくてもエコ製品へ買い替えを、
と解決策を模索される。
また、折りしも、昨日には温室ガスを2020年までに15%削減するという方針が首相より発表された。

しかしどうなのでしょう。
この筆者も政府も温暖化防止のための明確な答えを持ち合わせているわけではないのでしょう。
いくらビジネスモデルが少々変ったところで産業構造が少々変化したところで、個人個人の意識レベルが向上したところで、この温暖化のスピードを緩めることはあってもストップさせるわけじゃないでしょうし。
筆者も自ら述べておられるように慣性の法則ではないですが、STOPさせてもSTOPするまでに何十年かかるのですから。

では、どうすれば良いのか。
個人個人としてはもちろん出来る限りの「うちエコ」をしつつも、来たるべき温暖化社会、いやもう突入しているのでしたっけ。
その温暖化社会の中で生きて行く覚悟を持つべし、ということなんでしょうかねぇ。
最終的には。。

地球温暖化後の社会  瀧澤美奈子 著(文春新書)



墜ちてゆく男


出だしの描写が凄まじい。
あの貿易センタービルが倒壊していく映像は未だに記憶に新しい。
まさしくその9.11の現場に立ち会った人でなければ表せない様な描写が続く。

貿易センタービルから脱出したビジネスマンが目的も行き先もわからないまま、ブリーフケースを片手に歩く姿から話は始まる。

この本は読んでいて決して楽しい本ではない。
ストーリー性がほとんどないのだから。
ノンフィクションではないが、限りなくノンフィクションを再現しようとしたフィクションと言うべきか。

9.11事件に関してはあまりにもまだ生々しすぎて、脚色付けなど出来ないのかもしれないし、ドン・デリーロという作家がそういうもの書きなのかもしれない。

ストーリー性がほとんどないということは、一旦読みづらいと思った人にはとことん読みづらいかもしれない。
また、シチュエーションが変る毎に語り手が変るというのは良くあるパターンだが、いつの間にかシチュエーションが変っていて、そこでの彼、彼女はいったい誰のことなんだ?なんてことがしょっちゅう。
これも作者が因なのか、訳者に因があるのか、はたまた読み手が読解力を駆使していないことが因なのか。

9.11は映像を見た世界中の人に衝撃を与えたが、中でもアメリカ人にとっては、衝撃などという言葉では表しきれない出来事だっただろう。
真珠湾どころじゃない。本土の中枢部が攻撃されたのだから。
まさにこれは戦争だ、と当時のプレジデントの発言を待つまでも無く、そう思った国民は大勢居たのかもしれない。

片や、この本ではテロの実行犯をも登場させ、彼らの行動と命をかけて突き進む気持ちを描こうとしている。

この9.11の前からも散発的にアメリカ人を狙ったテロは頻繁に発生していた。

また、アメリカは宣戦布告をするわけでもなく意味も無くアフガンへの空爆などを頻繁に行っていた。

かつて、中東で仕事をしていた友人が言っていた。
アメリカ人には何故自分達が嫌われているのか、という事はおそらく一生わからないだろう、と。

この作者はその気持ちをわかろうとした唯一の人なのかもしれない。

丁度、本日6/5配信のニュースにてオバマ大統領がスラム世界に向けて演説を行い、イスラム世界との関係を新たな始まりに導く意向を示したが、果たしてどうなのだろう。
まだ、アフガンへの増兵などと言っているうちは、私の中東の友人に言わせれば、やっぱりアイツもわかってないヤツ、の一人にカウントされるのかもしれない。

墜ちてゆく男  ドン デリーロ (著) Don DeLillo (原著) 上岡 伸雄 (翻訳)(新潮社)



会社に人生を預けるな リスク・リテラシーを磨く


この本、リスクという言葉が一体何回登場するのだろう。
1ページに一回、二回、三回・・・と二十回を超えたところで数えるのを止めた。
サブタイトルにもある単語なので、何度か登場するべき単語なのだろうが、頭の良い人らしいので愚鈍な読者にこうやって繰り返し、繰り返し、同じ単語を使って、読者を洗脳して、いや教育しておられるのだろうか。
なんといっても「世界で最も注目すべき女性50人」の一人なのだと本の筆者紹介にあるほどの人だ。

先日サンデープロジェクトという番組に勝間和代という女性が登場していた。
あぁ、この人だったのか、と読んでいる本の筆者にテレビで遭遇。

その番組では月々17万の給与で保育園の園長をしながら二人の子育てをするシングルマザーがその日々の苦労を語り、この筆者はほんの二三回、話を振られた程度で、「政府はもっと子育てを支援しなければ・・」云々の様なコメントを述べておられたように思う。
この同世代と思われる二人の女性がテレビにツーショットになる絵、テレビ局にも本人にもその意思は全く無いのだろうが、どうしてもいわゆる勝ち組(この言葉はあまり好きではないが)とそうでない組のツーショットに見えてしまうのはなんとも皮肉であった。

そこで筆者が本でさんざん述べておられる「リスク」という言葉を持ち出して、
「結婚する時にリスクを考えたの?」
「子供をつくる時にそのリスクを考えたの?」
「離婚する時にそのリスクを考えたの?」
などと畳み掛ければ、なるほろ、この人は一貫しているんだ、などと変に感心してしまったかもしれないところであったのに。

それは余談。
さて、この本は一体誰に対してうったえたかったのだろう。

終身雇用の制度を奴隷制へなぞらえ、会社を辞めて転々とするとどんどん就職が困難になる現状について片や述べながら、会社に人生を預ける事を否定する。
現在就職している人や、これから就職する人達を対象に発しているのだとしたら、何か矛盾してやしないか。
世の中の経営者連中や大企業の採用担当へ働きかけるのであれば、それはそれで筋が通っているかもしれないが、会社を辞めて就職しづらくなっている人達に向かって就職が困難になるが、会社に終身雇用される考えを捨てよ、といってもそれは言う対象者が違うだろう、という気がしなくもない。

とは申せ、我々のコンピュータ業界ほど、終身雇用の概念の薄い業界も珍しいかもしれない。技術者はそれなりのスキルを身につければ、より条件の良い会社に転職するという事が最も他の業種よりも早くから行われていた業界である。
業界そのものにも転職者というものに対しての違和感が全くない。
このご時世でこそ、敢えて自ら退職して独立しようという人は少ないが、これまでは、転職の末、最後は入社せずにフリーの技術者になるというパターンも少なくなかった。
筆者の言うところのリスクとリターンは表裏一体であるという事を充分意識し、体現して来たのは我々の業界だったのかもしれない。

我々の業界はその動きが早かっただけで、一時、というより少し前までは終身雇用などはもう古いという風潮が当たり前になりつつあったのではなかっただろうか。

その最後のピークが、筆者の批判する小泉政権の時代だったかもしれない。

この本は一体誰に対して・・・の答えが読んでいくうちにわかったような気がする。
今の政治に対してうったえたかったのだろう

「よりよく生きるために」
「リスクを取れる人生はすばらしい」

これらの投げかけは目下の仕事を確保するのに精一杯の人達に対してのものではないのだろう。
政治に対して言いたい事が多々あるお方なのだと思われる。
まもなく総選挙もあることだ。
この筆者は政治家が向いているのではないか、とお見受けした。