読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



砂漠


「俺達がその気になれば、砂漠に雪を降らせる事ぐらい余裕で出来るんですよ」

その本意を汲み取ることが出来たのなら、なかなかにしてインパクトのある言葉ではないでしょうか。
この本の主題がこの言葉に集約されているようにも思えます。
この言葉、大学の新入生が交流を深めるための宴会に参加した西嶋という男の発言。
この西嶋君、遅れて乱入しながら、アメリカの中東への軍事介入を大声で非難したかと思うと地球温暖化を嘆き、宴会という場のTPO(Time,Place,Occasion)を全く度外視した男。

少し前の言葉ならKYというやつでしょうか。空気が読めない、のではなく空気を読まない男。それが西嶋君なのでしょう。

今頃の学生の言葉で言えば「イタイやつ」ということになるのでしょうか。
「アイツ、イタいわー!」と聞こえてきそうです。

そのイタイ男、西嶋というキャラクターを無視せずに仲間にとして扱うのが、覚めた美人キャラの東堂、超能力があるかもしれない南、ちょっとはすっ葉な鳥井、そして主人公の北村という物事を俯瞰して見る、と言われる男。

ここで既に東堂、南、西嶋、北村とトン、ナン、シャー、ペイが揃ったあたりで何か予感めいたものが頭をよぎるのですが、案の定、麻雀の場面が何度も出て来ます。
そのあたりもなかなか読めますよ。
確率論 VS 麻雀とはこうあるべき論 なんてね。

世の中は平和であるべき、とピンフのみでしかあがろうとしない西嶋君。
まぁピンフは麻雀の基礎でもあり王道でもあると思えなくもないのですが、何故か西嶋君はいつも一人負け。

その大学生活を四年共に過ごすなかで、寒い、痛いはずの西嶋君の影響をだんだんと皆が受けてしまっているところが面白い。
俯瞰的な立ち位置のはずの北村君も感化されている。

この西嶋君、単なるKYな平和論者なのではないのです。
「彼方で人が難破している時に手をこまねいてはいられない」男であり、常に行動が伴う男。
「人間とは自分に関係の無い不幸な出来事にくよくよする」男でもありつつ、目の前で行われる空き巣犯人達を放置することなど到底出来ずに勇猛果敢に立ち向かっていく勇気のある男でもあるのです。

友人が落ち込んでいる時に、その窓から見えるビルの電灯を麻雀の「中」に見立てて、ビル全体に「中」を浮き彫りにするなどという途方もない根回しをして元気づけてやるような、到底KYとは思えないことまでしでかしてしまう男。

だからこそ冷めた人間も感化される。

歳こそ近いが既に社会人になっている女性がつぶやく。
「あなたたち、学生は小さな町に守られている」と。
その外の世界は一面、砂漠が広がっている、と。
一旦、社会に出ればそこは砂漠ような過酷な世界が広がっているのですよ、と暗に諭したのでしょう。
彼らはその砂漠にどうやって、どんな雪を降らすのでしょう。

この話、伊坂氏のいつもながらの東北、仙台が舞台。
この大学のこの仲間達はまぎれも無く、東北大学法学部なのだと読めます。

まさに著者の出身校。

著者は自らの学生時代と何かをかぶらせたのでしょうか。

読後、サン・テクジュベリが読みたくなってしまいました。

「人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」

砂漠 伊坂幸太郎 著(実業之日本社)



甲子園への遺言


「覚悟に勝る決断無し」
プロ野球の世界で首位打者をはじめとするタイトルホルダーを30人以上も育てた伝説の打撃コーチ、高畠導宏氏が残した言葉である。

打撃コーチとして30年。
プロの世界で一軍の打撃コーチで30年の永さ、それだけでももの凄い事に思えるのだが、いったいどんな野球人生だったのだろうか。

社会人野球では日本代表の四番バッター。
社会人NO.1のスラッガーと言われた人。
かつて社会人に入る前には王・長嶋全盛期、V9時代の巨人軍から王・長嶋が3番、4番、その後の5番を打てるバッターとして、また王・長嶋後の巨人の中心バッターとして巨人軍入りを嘱望されていたほどの打者。当時の社会人監督の選手囲い込みで実現はしなかったが。

プロでの現役生活は新人1年目の春季キャンプで、いきなり不幸が訪れ、強肩だった肩を不慮の事故にて壊してしまい、守備では投げられない。

DH制のない時代なのでここ一番での代打バッターとして一軍入りするが、肩の故障はバッターとしての迫力にも影響を与えるのか、社会人時代の豪快なスイングを知るピッチャーはかつての打者としての力の無くなった姿を嘆く。

結局5年で現役生活を退き、28歳という若さで打撃コーチに就任する。

以降30年、1年契約のバッティングコーチという明日の保障の無い世界に身を置くことになる。そんな人の言葉だからこそ重たい。
「覚悟に勝る決断無し」
氏にしてみれば、毎年、いや日々が覚悟の連続だったのではないだろうか。

以来、タイトルホルダーを次々と育て上げて行くのだが、その育成の仕方は他のバッティングコーチとはちょっと毛色が違う。

他のバッティングコーチは欠点を直そう直そうと画一的な指導をするのに対して、高畠氏の指導は個人個人で異なる。
欠点を無理に直そうとするのではなく、良いところを見つけてそれをとことん伸ばすための特訓をとことんやる。
とことん持ち味を伸ばすうちに知らないうちに欠点も直ってしまう、というやり方。
練習方法も小道具を用いたり、アイデアにとんでいる。

ひたすらバットを投げる練習をさせてみたり、ひたすらファールを打つ練習をさせてみたり、小道具で言えば、すりこぎバット、スポンジボールを使ってのティーバッティング・・・などなど。

氏の力量は選手を育てることにとどまらない。
相手のピッチャーのクセを見抜く天才なのだった。

氏は相手のチームに新たなピッチャーが補強されたと聞くとその練習を視察して来る。その視察から帰った時にはもうすでに相手のピッチャーはまる裸にされている。
直接、指導を受けなくてもバッターボックスから球種を氏から教えてもらって、打率を上げた選手などはいくらもいるだろう。

今、WBC真っ盛り。ついつい選手に目が行ってしまいがちになるが、これを読むと、選手の力よりも寧ろ、相手を丸裸にしてしまうほどの裏方の力量同士の勝負ではないか、と思えて来る。

このWBCにも氏に育てられた選手が何人も入っている。

他にも大リーグで活躍している田口、40歳を過ぎても現役のホームランバッターだった門田、中日現監督の落合・・・、氏にとっては師匠にあたる野村現楽天監督なども球種では助けられた内の一人になるのだろう。

取材した選手達の口をついて出て来るのは、
「高さんが居なければ、今の自分は無かった」
「生涯最大の恩人」
「出会えて幸せだった」
というような言葉ばかり。
なんという人望の篤い人なのだろう。

この本にはイチローについて何故かその接点の記述がほとんどない。オリックス時代、田口を指導したのなら時期的にイチローが在籍していた期間とかぶるので、イチローとの接点が無かったはずはないのだが、著者は大リーグまで取材に行けなかったのか、イチローがその打撃の原点を著者に語ろうとしなかったのか、そのあたりは定かではない。

この本、昭和後期の野球史、いや、昭和いうと戦前も入ってしまうので戦後から今日までの60年の内の後半の日本プロ野球史の一面を描いているが、そういう一面を持ちながらも実際には野球に関することよりも一人の人間の生き様を描いている本なのである。

氏は、コーチという職業をとことん研究し、日本一の戦略コーチとして名を馳せながらもその探求欲は限りなく、心理学を追求し果てはそのメンタルな部分の基礎はプロになる前からが肝心ではないか、と高校の教員免許を取るために、コーチ職の残り5年間をその勉強にあてるのである。

この本にはいたるところに氏の遺した金言がある。
先の『覚悟に勝る決断無し』もそうだが、

『才能とは逃げ出さないこと』

『平凡の繰り返しが非凡になる』
 
などなど。

惜しむらくはこのタイトルである。
「甲子園への遺言」というタイトル、内容を知らなければ高校球児やかつての高校球児しか買ってまでして読まないのではないだろうか。
私も球児ではなかったので、もし人に薦められることが無ければ、この本を書棚から手に取ることは無かっただろう。

WBCこそ今、人気絶好調だが、野球のルールすら知らないという人達がかなり多くなった時代。
野球選手を目指さなくても、かつては小学生なら放課後は必ず野球をした。
そういう時代では最早ない。

この本は、というより高畠導宏という人のことはもっと多くの人に知られてしかるべきだと思うだけに、尚更である。

甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯 門田隆将 著(講談社)



傷物語


キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード、なんとも長ったらしい覚えにくい名前である。
主人公は「キスショット」と省略してしまうのだが。

500年を生きて来たという「鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼」。
史上最強の吸血鬼。

吸血鬼の現れるところには、吸血鬼ハンターが現れる。

吸血鬼ハンターに倒されかけて瀕死の状態になったキスショットに出会ってしまう。

それがそもそもの始まり。

阿良々木暦、羽川翼、忍野メメってどこかで見た覚えのある名前だとおもったら、「化物語」だった。

「化物語」というのは主人公の阿良々木暦の周辺に怪異が現れ、その度にこの廃墟の建物に寝泊まりしているいそうろうしている忍野という正体不明のオジサンに相談を仰ぐお話。

その「化物語」の中で「あの春休みの出来事」とだけふれられてその内容については最後まで明らかにされず仕舞いだったがその内容というのがまさにこの「傷物語」そのものなのだった。
「化物語」よりだいぶあとで出版されたはずのこの「傷物語」でありながら、なんとぴったりと嵌りすぎじゃないか。
化物語で怪異に遭遇するたびに、訪れる元塾の廃墟の建物。
何故かそこで阿良々木暦は幼い女の子に血を吸わせるのだった。

その不思議さには「化物語」の中ではとうとう触れず仕舞いだったが、この本で全てが明らかにされている。

「化物語」を書きながら、実はこの「傷物語」も書き上げていて、じっと眠らせていたのだろうか。

後付けで書いたにしてはあまりに嵌りすぎだ。

西尾維新は戯言シリーズの後で書いたであろう零崎シリーズなんかでも戯言シリーズの合い間をうまく埋めている。

自身の原作ものだけでなく、他人の原作ものにもそういう試みをいくつかしている。
そういう技が得意な人なのか。

まさに異能だ。

西尾維新こそが怪異そのものなのではないか、などと思ってしまう。