読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



ポトスライムの舟


平日の昼間は工場で働いて時給850円のパートから月給13万8000円の契約社員に昇格。
それだけでは足りず、友達が経営するカフェでアルバイト。
休みの日はパソコンのインストラクターで働く。
そんな29歳の女性が目にとめたのが世界一周の旅行ポスター。
その料金は163万円。
工場での1年間での年収にほぼ匹敵する金額。
その女性は何故か、その世界一周ツアーへ行くことを目標にする。
工場での賃金をまるまる貯金して、他のアルバイト分だけで生活すれば、1年で達成出来る。
彼女の生活はして豊かなものではないが、特に貧しいという暗さも無い。
だからどうした、というのか・・。

どうにもこれは感想文になっていない。
どうにも書けない。
ということで書き手をバトンタッチしてもらいます。

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今や内需拡大せなあかんご時世や。
そやのに世の中、あっちでもこっちでも節約術の大流行や。
そういう意味で言うたら、どんな節約術よりもこの女の人みたいに働きづめに働くんが、一番の節約やろな。

しかしまぁ、なんなんやろな。芥川賞って。
毎回毎回、ようわからんわ。
そらまぁ、将来有望な新人作家に与えられる賞なんやろうけど、将来有望ちゅうだけやったら、小学生の作文かて「おっ、こいつは将来有望やで!」なんちゅうことも有り得るわけやけど、そんなことは過去にあった試しないしな。
当然ながら、このまさに受賞した作品が賞に値するっちゅうことなんやろ。

最近の受賞作ってどないやねんな。
・青山七恵の「ひとり日和」、なんやっちゅうねん。
・諏訪ナントカの「アサッテの人」、これまだマシやった。
・川上未映子の「乳と卵」、これはひどかった。
・楊逸の「時が滲む朝」、タイトル負けやろ。

それに比べたらこの「ポトスライムの舟」は、まだマシなほうか。
「乳と卵」っちゅう大阪のキタ新地で働いてはる人が書いたんよりもはるかに大阪弁
の使い方がうまいし、まともや。

工場で働く契約社員の女の人が主人公や。
新聞もテレビも非正規社員の不遇たら雇用問題ばっかりのこのご時世や。
契約社員からっちゅうてなんも卑屈になることも不安だけで生きることもないわな。
世界一周を目標にするなんちゅうのんは、心がけとしてはなかなかええんちゃうやろか。
そやけど、団体ツアーみたいなもんに一人で参加してなんかおもろいんかいな。
まぁここは団体ツアーがどうったらっていうことよりもそういう仮の目標を唯一おいたちゅうだけで、ほんまつましい女性の日常、ほんまの夢も目標もなーんも持たんそういう日常。現実こういう人っちゅうのは結構多いんかもしれんけどな。

はっきり言うわ。
おもろないんやな。この話。
文章表現が巧みやとか、描写が正確やとか、そんなもん読む側にしてみたら二の次、三の次とちゃんかいな。
終始たんたんと、つましい生活を描いて、大した夢も希望もなーんもないだけの話がおもろいわけがないんとちゃうんかいな。

選考委員と一般の読者の評価基準はだいぶんと差があるような気がしてならん。

ポトスライムの舟 津村 記久子 (著) 第140回芥川賞受賞作



赤毛のストレーガ


今でこそ、幼児に対する猥褻な行為や幼児のポルノなどに興味を持つ人間がこの世にはいるものなんだ、ということが一般に知られるようになった。
こういう趣味の人がこの日本において最近になって表れ始めたのか、それとも元来そういう人達は存在していていたのが、主にインターネットという媒体によって徐々に表面化して来ただけなのかは不明である。

登場する主人公であるバークという男。
ファーストネームが無い。
ものごころついた時には両方の親が居らず、従って親の顔も知らない。
少年院に入っていたり、成人してからも犯罪という世界に身を置き、塀の中と外を行ったり来たりのアウトロー。

一瞬、リチャード・スタークの描くパーカーを思い浮かべたが、パーカーは簡単に刑務所に入るようなドジは踏まない。

そのバークがポン引きから子供を救い出したり、幼児猥褻写真を売り物にする輩に立ち向かって行く。

これが書かれたのはまだインターネットも普及していない時代。
かろうじてモデムを使ってのBBS通信などがマニアの間で行われていた時代である。

その時代にもアメリカにはその手の趣味を持つ人達がかなり居たのだろう。

話の中に登場するマニアの人物に「子供を愛して何が悪いのか、実は政府のかなりの上層にもそういうマニアは居るんだよ」と言わせている。

バークの周辺に表れる人というのがまた多様なのである。
武道をたしなむモンゴル系の男。耳は聞こえないが滅法強い。
中国系移民の行きつけの店のママ。
ゲイの秘書役。
ユダヤ系の男も居れば、もちろん黒人も居る。
はたまた、ナチの残党みたいな連中。
こっちの友達の友達はこっちの友達の最も忌み嫌う敵だったり・・。

民族も宗教も肌の色も価値観も何もかも多様そのもの。

オバマ新大統領はこの多様な人達で成り立つ国を一つにしようと言う。
自らも「我々の多様な出自は強みであって弱みではない」と言い切る。
「かつての憎しみはいずれ消えて我々を分け隔てた壁はいずれ消えるのだ」とも。

並大抵のことではない。

9.11テロ直後の高揚した時期でもないのに、あの多様な価値観の中でのあれだけの高支持率を得ている、という事は驚愕に値する。

自らの父親がケニア出身で尚且つ、かつてはイスラム教徒だったなどとなれば、多様化を強みだ逆に言えば言わざるを得ないか・・・、などととんでもない方向に話が飛んで行ってしまった。
ここらで締めくくっておこう。
アンドリュー・ヴァクス、もっと読みたくなりました。

赤毛のストレーガ アンドリュー・ヴァクス 著 佐々田雅子 訳(早川書房)



ラグナロク-黒き獣


「ラグナロク」というのは剣の名前。
この剣が何故か話すことが出来て人格を持っている。

主人公は傭兵としての最高レベルまでのぼりつめながらも自ら昇進を辞退して官製の傭兵を飛び出していったリロイという青年。
正義感が強く、弱者を救済し、魔族を次から次へとバッタバッタと倒して行く。

小説としてはどうなんだろう。
小説というもの何某か作者が読み手に伝えたいことがあると思うのだが、伝えたいことが何なのか、最後までわからなかった。
格闘シーンというのを文章で描くのは難しいものなんだな、とつくづく思う作品なのです。

この本、格闘シーンに次ぐ格闘シーンの連続で最後にラスボスの様な強敵との格闘シーンが待っている。

「ラグナロク」というのは神話の世界のハルマゲドンのことらしいのだが、続き物の先にはそんなタイトルに相応しい展開になって行くのだろうか。

2巻目「白の兇器」もやはり同様に格闘シーンに次ぐ格闘シーンの連続であった。

これは、読み物として書かれて文章で読むものではなく、アニメやゲームにした方が向いているのではないか、などと思っていると、本当にDSのゲームに同じ名前のものを発見してしまった。

本書は格闘ゲームがお好きな方にはうれしい本なのだろう。
その「ラグナロク」というゲームを楽しんでおられる方々にはゲームのキャラクターをより堪能するためのありがたい本なのかもしれない。

ラグナロク-黒き獣  安井 健太郎 著(角川書店)