読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



ひとり日和


芥川賞受賞作なのです。
石原慎太郎氏はじめ芥川賞選考委員の村上龍さんも絶賛。
なんなんですか、それ。
小説家は小説家なりの評価方法っていうのがあるのは良くわかりました。
確かに駅のホームの片隅から描いているその借家の風景だの描き方は見事ですし失点は無いでしょう。
でもいつから芥川賞は減点主義になったのですか?
この小説、失点は無いかもしれませんが、逆に言えばそれまででは無いのでしょうか。
河野多恵子さんの評には唖然!ですね。
よい小説の書き方だとおっしゃる。
あーた方プロから見るよい小説と言うのは失点の無い小説という事なのでしょうか。

正直、この小説を読んで素直に面白いと言った人が居たら驚きですよ。
選者も誰一人このストーリーを面白いとは思わなかったのではないでしょうか。
芥川賞と言うのはこれから育つ人を選考する賞だというのはわかっていますが、そう言う意味ではこの人はもう熟成しているのではないのでしょうか。

なんなんでしょうね。このだらだらとしたストーリー。
主人公に魅力が無い。
手くせも悪い、性格も悪い、こんな女性に感情移入できますか?
主人公に感情移入するどころか、去って行った男達の方に感情移入してしまいますよ。

だいぶ以前にもうそろそろ芥川賞なんてやめてしまえばいいのに、と思った事があります。
正直面白く無い。意味がわからない。それは読んでいるこちらの読力不足なのですか?
でもいくらプロ受けしたところで小説なるもの読者があってのものでしょう。
『限りなく透明に近いブルー』あれはおそらく賛否両論あったのではないでしょうか。
でも私にとっては、あれが芥川賞の最終回だった。
活字メディアが衰退している今日この頃ですから、やめてもらうのは困りますが、河野多恵子さんばりのよい小説の書き方をしている人を選考するぐらいなら、いっその事、賞のタイトルを変えたらいい。
「減点の無い良い小説を書いた人賞」と。
太宰は芥川賞を受賞していない。
おそらくその素行故に。
この青山七恵氏の「ひとり日和」より太宰の作品が劣っていると思う人がいるのでしょうか。
居れば会ってみたい。ウソ。会いたくも話したくも無い。
芥川賞受賞という冠なしにこの「ひとり日和」に出会っていれば別の感想になったかもしれません。
でもそもそも購入してまで読もうとは思っていないか。
という事は出会わなかったでしょう、という事になるのかな。



卒業


重松清続きとなります。
哀愁的東京の評は「なんとももの哀しい」の連発で終っていますが、哀愁的東京はもの哀しいだけの話ではなく、やはり重松さんならではの心優しい視点がある様に思います。
まだ幼稚園のかわいい女の子が父親に遊園地へ連れて来られて楽しい思いをする。
その遊園地へ行ったその日に覚醒剤で錯乱状態になった父親に殺されてしまう。
あまりにも可哀想なその話を取材した後に主人公のルポライターは殺されたあかねちゃんという女の子を主人公に描いた『パパといっしょに』という絵本で賞を取り、絵本作家としてさぁこれから、という状態であるにも関わらず、幸せな事の一つも無かったあかねちゃんを題材にした本で賞を取り、しかも事もあろうにそのタイトルは『パパといっしょに』そのなんとも残酷な事をしてしまった思いがトラウマとなり、『パパといっしょに』以降、一切新作の絵本が描けなくなってしまう。
それはもの哀しい反面、人の不幸を書いてその文章を切り売りするルポライターにしてはあまりにも繊細で優しさを持った主人公が浮かびあがります。ですから主人公はフリーのルポライターでは無くやはり絵本の描けなくなった絵本作家が正しいのでしょう。
重松さんの書いているものの底流にはいつもこの優しさがあると思うのです。

『卒業』重松さんらしい四編がおさめられています。
「まゆみのマーチ」、「あおげば尊し」、「卒業」、「追伸」

「あおげば尊し」
ガンに冒され、長くて2ヶ月と宣告された父の最期を自宅で看取る事にし、病院から自宅へ連れて帰るところから始まります。
父は元高校教師。主人公は小学校の現役の教師。
父は厳しくて冷たい教師だった。生徒に好かれたいなどとはこれぽっちも思わず、素行に問題のある生徒は容赦無く切り捨てる。従って卒業生からは顧みられず、同窓会の案内も来ない。教え子の結婚式に呼ばれた事も教え子が家を訪ねて来る事も無く、年賀状すら教え子からは一枚も来ない。38年間教師をしていながら見舞いに来る教え子はもちろんゼロ。それでも自分ほど「あおげば尊し」を歌われるに相応しいと思っている父。
方や主人公も教員生活18年。火葬場へ出入りし、死体に興味があると言う生徒から「何故死体に興味を持ってはいけないのか」の問いに対して返す言葉を持っていない。
「あおげば尊し」を歌われる事に自分は相応しくないと思っている。
話す事も満足に出来ないが最期まで先生であろうとする父と死体に興味がある生徒との出会いを描く。

「卒業」
学生時代の親友の娘が突然職場に訪ねて来る。
親友はその娘がまだ妻のお腹にいる時に、突然飛び降り自殺をした。
なんとも身勝手で無責任な人だった訳ですが、成長してその事実を知らされた娘が父の友人訪ねて来て、なんでもいいから父の事(いや、父親になる前に自殺をしたのだから正確に言えば父親では無い)その人の事を教えて欲しいと。
主人公は学生時代の記憶を辿り、毎日その子の作ったサイトの掲示板へ思い出を書いて行くのですが、親友と言っても20年前の話。2週間も書けばもうネタは尽きてしまう。
『哀愁的東京』の中の「ボウ」という短編にも出てくる話ですが、大学時代の同級生が久しぶりに面会を求めて来たかと思うと「学生時代の自分の事を思い出す限りしゃべってくれ」と言われ、思い出す限りにしゃべってみても5分もすればもうネタが尽きてしまう。こちらは親友という訳では無いのですが・・。
実際にどうでしょう。学生時代、社会人になってからでも構わない。「親友」と呼べる人の事をいざ思い出して書いてみろ、と言われたら果たしてどれだけの事が書けるでしょうか。
2週間もよく書けたという方があたっているのではないでしょうか。
この物語は、苛め、自殺、リストラ・・などなどの重たい課題を背負っている話なのですが、ここでは敢えてそういう重たい課題から焦点をぼかして書く事にしました。

どうも長編でない本の感想というのは物語そのものの紹介になってしまいがちでいけませんね。
「まゆみのマーチ」と「追伸」については内容の紹介はやめにしておきましょう。
この四編の中で私個人として好きなのがこの二編。
特に「まゆみのマーチ」がピカ一ですね。
親の限りない愛情の表現にはいろいろな姿があるものです。
まゆみのマーチの母親はわかっていながらすっとぼけるのが得意な人なんでしょうね。
歌の大好きな娘に、所構わず歌ってしまう娘に対する周囲の苛立ちなどどこ吹く風。ひたすら愛しつづける。
成長しても一箇所に落ち着く事が出来ず、いわゆる世間一般で言うところのはみ出した娘も性根がはみ出しているわけでもなんでも無く、この母娘を理解してしまうと、一般の「普通」という概念がゆらいで来そうです。
主人公(優等生だった兄)が学校へ行けなくなった子供に対して取った行動は決して無茶なものでも何でも無く、ごく普通のもの分かりの良い父親の行動だったでしょう。
ですが、母の死を前にして妹が学校へ行けなくなった時の母親の行動を妹から聞いて、優等生だった兄も読者も「目から鱗」状態では無かったでしょうか。
母の行動はまさしく「まゆみのマーチ」そのものなのです。

ここには余分な事かもしれませんが、2/10のサンケイ新聞の夕刊に重松さんの小編が載っていましたので、それも簡単に紹介しておきます。

『季節風 バレンタイン・デビュー』
21歳になるまでバレンタインデーで義理チョコを含めて一つもチョコレートを受け取った事の無い父親が、高校生になる息子のバレンタインデーをまるで落第確実の受験の発表日の様に扱い、妻や娘にとにかく「その話」をしないように、と厳命し、やきもきしながらその息子の帰りを待つ、という微笑ましい話です。

いいですね。こういう軽いタッチ。
重松さんの作品にはイジメ、自殺、殺人、離婚、哀しさ、はかなさ、トラウマ、人の死、・・・などなどがこれでもか、と散りばめられていますから、そういうものの一切無いこの話、新鮮でしたし、読後ににっこりとする事が出来ました。

卒業  重松 清 (著)



哀愁的東京


取材対象となる人達は皆、もの哀しい。
新作の絵本を描けなくなってしまった絵本作家が、文章を切り売りするフリーライターとして取材をする、という事で話としては繋がってはいるが、個々の取材や話はいずれも短編として成立している。

その全てがもの哀しい話なのだ。
かつては人気を欲しいままにして来た人が下降線を辿り、もはや終ってしまっている事に自分でも気が付いている。
「注目を浴びているときって、こっちからは何も見えないんだ。・・・俺の方から見ると自分しか見えない。でも落ち目になると・・だんだん透けて見えるようになるんだ。・・みんなが俺にそっぽを向いているのがわかるんだ・・」

若くして億の年収を手にし、ネット起業家として独立して一時はカリスマ的な存在になったものの業績悪化で破滅寸前の起業家社長。
上の言葉は「学生時代に戻りたい」とつぶやく社長の言葉。

もうすぐ閉園する閑散とした遊園地のピエロ。

デビュー当時はミリオンヒットを連発させたが、もはや人気は下落し、あとは解散を待つのみのかつての人気アイドルグループ。

かつての人気週刊誌の編集長。その週刊誌も廃刊となり編集長も更迭される。

昭和の歌謡曲のヒットチャートを独占して来た往年のヒットメーカー。

テレビでのデビューでマジシャンとしての成功を夢見て東京へ出て来、挫折してカクテルバーで客相手にマジックを披露するマジシャン。

自信を喪失したエリートサラリーマン。

お呼びがかからなくなっても続けているかつての人気NO.1のSMの女王。

そう、どれもこれも皆、もの哀しい話ばかり。

自信を喪失したエリートサラリーマンは言う。
「俺が目の前のこいつでも、隣のあいつが俺でも、その隣のあいつが目の前のこいつでも何も変わらないだろ。誰も困らないだろ。・・・・俺のやっている仕事だって別の誰かがやれる・・・」
痴漢行為をする事で唯一生きている実感を持つとはもはや救いようが無い。

主人公も似たり寄ったりで、自分が消えたとしても他の誰かが書いているだけ、雑誌は何事も無かった様に店頭に並んでいるだろうと・・。
主人公の唯一の救いはいつかは書かれるかもしれない新作の絵本とそれをひたすら待ってくれている編集者のシマちゃんの存在か。
「今日」の哀しさから始まる「明日」の光を描く連作長編と謳い文句にあるが「明日」の光はいったいどこにあるんだろう。新作絵本の構想が明日の光?

「自分は居ても居なくてもいい存在」
「自分は何の役にも立たない存在」

古い映画だが「道」というイタリア映画があった。
大道芸人のお供として旅をする幼い子どものままの頭脳しか持たないジェルソミーナが、
「自分は何の役にも立たない存在」だと言った時に、
「この世で役に立たないものは何ひとつない。この石でさえ何かの役にたっている」
と返されるシーンを思い出した。

居ても居なくてもいい人間などいない。何の役に立っていない人間などいない。
代わりの聞く人間などいない。

少なくとも私の知っている限りにおいては。
私の代わりなど私の会社には居ない。
他の人間も皆そうだ。
きれいごとだろうか。
だが真実だから仕方が無い。
私の所属する会社には代わりのきく人間など一人も居ない。
それでは会社としての危機管理が・・という向きもあるかもしれない。
だから会社は存続はするだろう。
だが、誰かを失ってしまった後は、失った何かを引きずっての存続であって、消して元の状態にでの存続には戻れない。

もとより読者も作者もそんな事は百も承知だろう。
言わずもがなの事を書いている。

俺が目の前のこいつでも、隣のあいつが俺でも何も変わらない誰も困らない、そう言う不安を常に抱えているのが現代人であり、その象徴とも言えるのが哀愁のかたまりの東京なのか。

なんとももの哀しい話である。

哀愁的東京  重松 清 (著)