読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか


こんなタイトルがついてんねんからおもろないわけないがな、って普通誰でも思てまうがな。
「幸せは歩いてこない だから歩いてゆくんだね」
「人生はワン・ツー・パンチ 汗かきべそかき歩こうよ」
365歩のマーチの引用と、汗かいてでもべそかいてでもええから小さな勇気を出してみようや、ちゅうイントロも悪くないがな。
そやそや。やらんと後悔して死んでまうぐらいやったらなんでも勇気出してやったらええがな。

そやけどな。そやけどやで。
・「電車で知らないオヤジに話しかける」
ええねんけどな。それそのものはそないに勇気もクソも無いやろ。
・「話しかけた後、一緒に飲みに行く」
これはあかんやろ。こんなもんポン引きに勘違いされるのんがオチやで。
まぁ、勇気のあるフリーライターには怖いもんも無いちゅう事か。
ところがどやねん。この人。
ほんまにフリーライターかいな。
人と話して取材してそれを記事にするのんを仕事にしてんのとちゃんかいな。
そのフリーライターにしては、なんちゅうアプローチの下手さやねん。
雑誌の企画やから何がなんでもちゅう気負いでもあんのんか。
それとも読み物としておもろいように過剰に表現してんのか。
まぁその両方があるとして、少々大袈裟に書いたとしてもほぼ実際に実行した事を書いてるんやろうな。
なんでもっと普通にいけへんねやろうな。
じーっとターゲットを観察してから、わざわざ他所が空いてんのに隣りに座っていきなり天気の話かいな。そら誰でも逃げ出すわな。

・「GWのお台場で孤独に見える青年に話しかける」
それもええんやけど、それがほんまにやらんと死んでから後悔する事なんかいな。
これも「電車の中でオヤジと」と全くおんなじや。
じーっと長い事観察して、待ち合わせやない事を確認してから近づいて行く。
ほんま、なんでこんな不審なんやろ。
誰が考えたってなんかの変な宗教の勧誘やんかいな。
しまいに一緒に観覧車に乗ろってな、一緒に来るやつ居るわけないがな。

・「公園で遊んでいる子供に話しかける」
これはさらにひどいで。
公園でじっくり子供を観察して、子供が遊んでいる所まで行って話しかけるってな、もうむちゃくちゃ危ないヤツやんかいな。
もうそれだけでも警察に通報されてもおかしないで。
それやのにこの人、子供が逃げ出すのんを「信じられん」とか「過剰反応」だとか言うとる。
なんかずれまくってんのんとちゃうんかいな。
フリーライターやったらいろんな記事も目にするやろうに。
その「過剰反応」をせーへんかった子供がどんだけ誘拐されたり殺されたりしてんねんな。
子供には寄って行ったらあかんがな。寄って来てもらわな。

・「激マズ蕎麦屋においしくない事を指摘する」
ってな。これのどこに勇気が居るんかさっぱりわからんわ。
「まずいでー」「しょっ辛いでー」って言うてあげるんは当たり前とちゃうんかいな。
そこに勇気ちゅうもんが介在せなあかん事の方が信じられんわ。
最近、近所に出来たラーメン屋がある。
そのラーメン屋からかん水のええ臭いして来たから、ふらふらーっと入って注文したら、出て来たラーメン麺がちゃんと湯だって無い。
ダシも今一や。
「せかっくええ臭い出してんのに、外のええ臭い負けしとんがな。麺もちゃんと湯だってないし。晩やから言うて手ぇ抜いてたら半年持たんと潰れてまうでー」
ってちゃんと言うてあげるのんが親切っちゅうもんや。

まぁ口に出して言わん時もあるけどな。
はるか昔の学生の頃のこっちゃ。
東京行って入った喫茶店でカレー頼んだ事がある。
見るからにまずそうなカレーやった。
テーブルの上にソースを探したけど見当たらんから、
「ちょっとソースもらえますか」って持って来たオバちゃんに言うたとたん、
「ウチはソースをかけなきゃ食べられない様なまずいカレーは出しておりません!!」
と来たがな。
なんちゅう居丈高な。
なんちゅう気ぐらいの高さや。
そらカレー専門店で言われんやったらまだしも。たかだか喫茶店カレーやろうが。
どないしたら喫茶店カレーぐらいでそないに高いプライド持てんねん。
一応ソース無しでトライしてみたけど案の定まずい。
結局、隣りの隣りのテーブルにあったソースをかけてみたけど、そんなもんではどうしようもないレベルやったから。
結局諦めた。
なんぼ喫茶店カレーでもこれは無いやろ。これやったらレトルト温めて出した方が千倍マシやで。
大阪やったらこの店焼き討ちに遭うてもおかしない。
おばちゃん、関西人はカレーにソースかけるもんと思てんのかもしれんけど、本場のインド料理の店でいろんなルーを仕込んでるもんにまでソースはかけんわいな。
ほんでもさすがに口に出して言うのはちょっと喧嘩売ってるみたいになってまうから、紙ナプキンかなんかに
「ソースかけても食べられないぐらいのまずさでした!」
ってしっかり書いてカレーの皿の下に置いて、勘定して店でたがな。

はたまた某高速道路のインターンチェンジで牛丼を頼んだ時のこっちゃ。
牛丼を頼んだんは俺だけとちゃうで。
俺のテーブルの友人も全員、隣りのテーブルでも他所の人が頼んどったわ。
順番に牛丼が運ばれて来て、順にふたを開けて食べ始める。
俺のところへ来た牛丼のふたを開けて、目ん玉飛びでそうになったで。
な、な、なんと巨大なゴキブリが・・・しかもしっかりと煮詰まった飴色のゴキブリがこのワシが目に入らぬか、とばかりにドデンと居るがな。
なんなんや、これ。
普通、肉盛りする時に気ぃ付くやろ。
当然の事ながら、交換してもらお、と思たんやが、廻りのみんなはもう食いはじめてる。
ようよう考えて見たら、たまたま俺の丼の中にゴキちゃんは居っただけで、鍋の中で煮詰められてる時には廻りのみんなの丼にも隣りの他所の人の丼にもゴキちゃんのエキスはしっかりと出てるはずや。
そない思たら、このゴキちゃんをふたへ移したら、みなと条件は同じや。
「この丼、ゴキブリおるでー」なんて大声で言うたら他所の客も皆、気分が悪うなるやろうし。
こういう所で働いてるのんは大概アルバイトの人や。そんなん言うてアルバイト困らせてもしゃーない。
という事でゴキちゃんにはふたへ移動してもらって、残さずきれいに食べたった。
一応、その店の今後の事も考えて、
「ゴキブリのええダシでとったわ」
ってメモをふたの下に入れておいて店員が片付ける時にゴキちゃんとメモはしっかり目に入る様にして、勘定して出た。
まぁ直接口に出して言わん事もたまにはあるかな。

・「友人に貸した小銭」の話はちょっとせこ過ぎて読んでられん。

いずれにしたって、このライターさん後悔せんようにやってるはずやのに。
もう二度とせんとこ、ちゅう感じで終ってるで。
「それでも私の中で何かが変わった」ってちょっとは世間が見えて来たんかいな。
ここで言うてはる小さな勇気って世にも有名な大阪のオバはんにしてみたら勇気でもなんでものうて、それこそ日常なんとちゃうやろか。

ちゅう事でこのへんで終わりにしよか、と思いつつもこのままやったらこの作者の事いっこも誉めてないがな。そら、まずいやろ。

・「鼻毛が出てますよと言えるか」
でいこか。
これはちょっと微妙やな。
どのぐらいで鼻毛ちゅうものは出てる事になるんか。
何本ぐらいやったら出てる事になるんか。
社会の窓が開いてる相手への伝え方はそれなりに心得てるつもりやけど、こっちの鼻毛の方は、その基準がようわからん。
しかも相手は初対面やろ。
無理やな。俺は言わんやろうな。
言われたらどうか。お互いの立場も関係して来るかもしれんけど、
たぶん「それがどないしてん」って返してまうんちゃうか。

立派や。ライターさん、よう言うた。良かった。ようやくこれで誉めて終れる。

最後に一言。
大阪のオバちゃんやったら、前後関係全く関係無しで言うてまうんやろうな。

「兄ちゃん、鼻から花咲いてんで」って。

キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか  北尾トロ著



華麗なる一族


だいぶ以前に読んだ事があるがほとんど詳細は忘れてしまっていた。
今回ドラマ化という事で結構騒がれていた様子。
ドラマ化にあたって何かが違うなという違和感が拭えなかったので再読してみた。
そう。主人公が違う。華麗なる一族は本来万表一族の長たる万表大介が主人公のはず。
それがドラマでは息子の鉄平が主人公になり木村拓也が演じている。
まぁ悪役が主人公では視聴率もとれないか。
しかしドラマの中に出て来る昭和40年代前半の街の風景はどうだ。
あれは大阪でも神戸でも無い。いつの時代の日本でもない異様な風景である。
それもそのはず、当時を再現するために上海でロケをしたとか。
それに「華麗なる」を強調しようとしてか、異様に目立つ調度品、インテリア。
下手をすれば役者を食ってしまいかねない。
番宣が効きすぎているので余計にそう見えてしまうのか、シャンデリアやらなんやらに億を投じたとかなんとか。
そんなものに何億かけなくても「華麗さ」を演出するのがテレビ屋さんや映画屋さんの仕事だろうに。
またドラマの中の万表頭取はあまりにも口が軽い。
「経営者たるもの時にはウソをつかねばならない時もある」なんて、いくら心で思ってはいてもそれを露ほどにも見せないのが万表頭取ではないのか。
それに大同との合併にしたって心の内を明かすのはほんの一握りのはず。
でなければ秘密裏に画策したことにならない。
ドラマは全てをナレーターが語っては成り立たないので止むを得ないのだろうけど。
ドラマ化と併行して再読したので、どうしても原著とそのドラマ化されたものを比較する格好になってしまう。
そうなれば軍配は原著に上がるに決まっているのでドラマの事はおいておこう。
それにしてもドラマ化されて再読するとなんとその演者の顔と被ってしまうものかが良くわかった。

山崎豊子という人、徹底した取材をする事で数々の名著を世に送り出している。
華麗なる一族でもその本領はいかんなく発揮されている。
「阪神特殊製鋼」という会社での高炉建設にあたってのプロ顔負けの専門知識は、同じく山崎氏が著した「大地の子」の中で中華人民共和国初の国家の大プロジェクト、中国初の大製鉄所の高炉建設を成すべく、数々の困難に立ち向かって行った日本の技術者達への取材と通ずるものがある。
おそらく「華麗なる」の方が先に書かれたのであろうから、その下地はこの阪神特殊製鋼を描く時の取材に有ったと言えるのだろうか。

万表一族が閨閥結婚を進める中で登場する大阪船場の仲人役の人の描きはまさに大阪船場の御料人さんにSPOTをあてた「女系家族」を読んでいれば、そのプライドの高さは良く理解出来る。

高炉建設中に事故を起こして死者まで出してしまった万表鉄平がその遺族に謝罪に行くあたりは「沈まぬ太陽」で日航機事故の後始末で遺族に詫びる役目を負った主人公を彷彿させる。

この「華麗なる」の目玉はなにより金融業界である。
金融の企業ものでまず思い浮かぶのは高杉良。でも高杉良の方が舞台は新しい。
以前のもので金融の企業モノと言えばモフ担(大蔵省担当)にスポットを当てて、いかに銀行たるもの大蔵省の動向を気にかけているか、というあたりを描いた作品があったが、タイトルも作者も思い出せない。城山三郎だっただろうか・・。
このモフ担に相当するのが、阪神銀行の東京支店の芥川常務を頭とする忍者部隊に相当するだろう。
原著の中ではこの芥川常務が合併の画策に最も貢献しているのではないだろうか。
ドラマではあまりに登場人物が多いと判りづらいのか途中で詰め腹を切らされる役割りだが・・・。

いずれにしても「華麗なる」の舞台は昭和40年代前半である。
その時代に本当に大蔵省は金融再編を考えていたのだろうか。
その時代の本なのでここでも当然大蔵省と記述するが、少し前までは大蔵省や通産省というその呼称が無くなった事の方に違和感を感じたものが今では、懐かしいとさえ思えてしまう。

かつて日本の銀行は横並びの護送船団とも呼ばれていた。
都銀は都銀で横並び。信託銀行は信託銀行で横並び。
信託八行に至っては、ビッグ、ヒットという金融商品の新聞広告でさえ同じ日に同じ新聞で横一列に並んで掲載されていたのもほんの少し前までは当たり前の事だった。
そのはるか以前に金融再編を画策していたのだとしたら、旧大蔵省銀行局の壮大な計画は、20年いや30年たってやっと実現された、という事になるのか。
まさか太陽と神戸がくっついて太陽神戸となった事を指しているわけではあるまい。
筆者が書いていた頃はおそらく昭和50年代だろうが、その時代に現代のメガバンク誕生の先駆けとなる再編を描くとは、なんという先見の明。
今やかつての都市銀行でそのままの業態を維持しているところはもう無いだろう。
合併に次ぐ合併で、もはやかつてどこの銀行だったのかさえわからなくなってしまったほどである。

万表頭取の取った行動は息子を切り捨てるというよりも寧ろ万表コンツェルンの一角を担う核の企業を切り捨てる事でオーナー経営者としてはなかなか決断できない事だろう。
息子の出自がどうのという問題と阪神特殊製鋼をどうして行くかという問題の根が同じ所にあるとしたらそれこそ経営者以前の問題。
息子の出自がどうであれ、やはり万表頭取は阪神特殊製鋼を切り捨てたのではないだろうか。
万表頭取が芥川常務の部隊を使ってモフの情報集めに腐心している最中、大同銀行の三雲頭取は天下り元の日銀へ阪神特殊製鋼への日銀特融を頼みに行くだけでそれまでモフの情報収集や根回しを怠っている。

阪神特殊製鋼にしても自己資本の何十倍もの借り入れをして設備投資をするという、ハナからが銀行頼みの計画では銀行に裏切られて破綻しても止むを得ない。
銀行が裏切らないなんて思っている人はおめでたい以外の何者でもない。
それとも高度成長真っ盛りの時代では当たり前の事だったのだろうか。
少し早めにオイルショックが来てしまったらやはり破綻だったのでは無かったか。

三雲頭取にせよ万表鉄平にせよ経営を政治ととらえる万表頭取にしてみれば政治的には赤子の様な存在だったと言う事か。
戦をさせれば天下一品の義経が政治的にあまりにもオンチだったために頼朝に追討されてしまうが如くに。

いやそう片付けてしまってはあまりに鉄平が可哀想か。
ドラマの方は原著ではもみ消された裁判沙汰にこれから突入するようだし。原著とは違う終え方をするのかもしれない。

それにしても万表鉄平とうよりキムタク演じる万表鉄平のテーマソングになった感のあるイーグルスの「Desperado」。(邦訳「ならず者」なのでイメージはほど遠いのだが)
あの心に響く曲が頭に残って仕方が無い。
Desperado, why don’t you come to your senses.
・・・・

最後のこの一節は鉄平では無くいずれ再合併されて呑み込まれてしまう万表大介頭取のためにある様に思えてならないのである。
「You better let somebody love you before it’s too late.」

華麗なる一族 山崎 豊子 (著)



DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件


DEATH NOTEのノベライズもので、西尾維新がどんな切り口でDEATH NOTEを切って来るのか、楽しみでした。
この本にはデスノートというノートは出て来ません。
主人公は DEATH NOTE の本編では脇の脇役にすぎなかった美空ナオミ、とL。
内容は、デスノートがこの下界へ現れるより以前に発生した「ロサンゼルスBB連続殺人事件」。
デスノートとは全く関係の無い、Lとワイミーズハウスの物語と言ってもいいでしょう。

キラに関しては
「単なる恐怖政治を敷こうとした殺人鬼」
「馬鹿馬鹿しいほど幼稚極まりない」
と切って捨てただけでまるで相手にしていない。
賢いヤツほど自らの力を隠すのが当たり前なのに、キラはそういう力がある事を公開する自己顕示欲の塊で、ノベライズに値しないほどあわれなヤツと言うわけです。
ほどんど同感ですね。
私こそが新世界の神だ、と言うあたりはもう壊れちゃったのかな、とも思いますよね。
それに、ひっそりと悪人の名前だけ書いていればまだしも、自分を捕まえようとする人間まで殺そうとして、どんどん捜査の輪を自ら狭めてしまうという愚かさ。

また、人が人を殺害する、という事は大変な事なんだ。人はそう簡単に死なない。
それをノートに名前を書くだけで行ってしまうという事がいかにルール違反か・・・。
という記述には殺人に対するルール違反の裏に推理物を書く人間にとってのルール違反、「つまり人が人を殺害するについていかに綿密な計画作りをし、根拠付けをし、どうやったらそんな事が出来るの?というところを最後に種明かしして行く、逆に言えばそれだけ緻密に考え抜いた結果である、というのに、それをたったノートに一行名前を書くだけでというのは書く立場からもルール違反」と作者は言いたいのかもしれません。
実際にこの「ロサンゼルスBB連続殺人事件」は実に緻密な組み立てがなされています。
『クビキリサイクル』という見事な推理もので世に出て来た西尾氏ならではの作品だと思います。

あと、「本当の名前」というものへの問いかけもあったのではないかと考えるのは考えすぎでしょうか。
デスノートへ書く名前は偽名ではいけない。という決まりがありますが、本当の名前とは一体なんなんでしょう。Lはあるときにはエラルド・コイル、ある時にはドヌーヴ、ある時には・・・と探偵の名前を使い分け、それはエル・ローライトという名前よりもよほど名前として通っていた人なのですよね。
本当の名前とはいったい何か。
戸籍上の名前?
つい先日、20歳になるまで戸籍を取得していなかった男が逮捕された。
彼には書かれる名前が無いのか?
また世界には戸籍登録されていない人なども大勢存在するでしょう。
彼らには書かれる名前は無い?
名前とはその名前を聞いてその人を特定出来るもの。秀吉は木下藤吉郎か羽柴秀吉か豊臣秀吉か、どれもその時々で全部正式な彼の名前でしょう。
ではLはどうでしょうか。世界の大半の難事件を片づけたとされるL。
この時点ではLと名乗っている以上、Lが本当の名前では何故いけないのでしょうか。
別にコミック相手に熱くなっているわけではありません。
このノベライズはノートに書いただけで殺人を犯すという手段と同時に「本当の名前」を書くという行為、あたりも併せて指摘したかったのでは?
だからこそ、BBという「名前」というものに拘った殺人事件を描いたのではないでしょうか。
この作品は言うまでも無く推理小説です。しかもかなり緻密な。これを書く事で殺人事件というものはこういう緻密なものなんだよ、というお手本というより挑戦としてのノベライズ、ととらえるのは少々うがった見方でしょうか。
西尾氏自身が『DEATH NOTE』の一ファンだとどこかに書いていたのを記憶していますので、やはりうがちすぎですよね。

最後に死神の目(人を見るだけでその人の本当の名前と死ぬ日が見えてしまう目)を持ったBBには美空ナオミの死ぬ日はいつに見えていたのでしょうね。
言わずもがな、デスノートも死神の目も死神の道具。
デスノートで殺される日が見えていたなんてことがあったとしたら・・・

やめておきましょう。
Self-contradiction の世界に陥ってしまいます。

DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件  西尾 維新 (著)