読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



DIVE!!


夏の高校野球の出場校 全国で4112校。大阪だけでも188校。
サッカーとなるともっと多い。高校選手権の加盟校は大阪だけでも223校。その比率で行くと全国では5000弱ほどか。中学、大学、社会人、プロ、少年クラブ、その他クラブ・・・そのチーム数掛ける1チームあたりの平均選手数。どれだけ凄まじい人数になるのだろう。
その頂点に立つ選手の出した答えが先日のイエメン戦だとしたら少々寒いものがあるが、本題からはずれるのでその話はよそう。

このDIVE!! という本、飛込み競技でシドニーオリンピックを目指す若者達の物語である。
この本の中にも書いているのだが、日本での飛込み競技人口はたった一つの高校の生徒数程度。せいぜい600人なのだそうだ。

いかにマイナーなスポーツかがこの数字に表れている。
競技中も隣りで競泳をやっているので、観客はその競泳の一着、二着にどよめく。
そんなどよめきとは無関係に飛込み競技は行われるのだそうだ。
同じ競技場で複数の競技が行われるという意味では陸上でも同じ様な事がいえるかもしれない。
トラック競技が行われている最中に走り高跳びが行われ、砲丸投げが行われ、・・・
選手は自分の競技に集中するのが大変だろう。
ましてや飛込み競技というのはほんの一瞬、たったの1.4秒にこれまでの練習成果を出さなくてはいけない。

マイナーなスポーツという意味では射撃の五輪代表やアーチェリーの五輪代表を知っている人はそうそういない。
だが時にマイナーなスポーツが大化けする事もある。
カーリングというスポーツがある事すら知られていなかったものが五輪終了後にはカーリングブームが起こったりもする。
カーリングの場合はあれなら自分にも出来るのでは?と思わえてしまう事がブームの発端だろうが、飛込みの場合はそうはいかない。
第一、競技をしようとしてもその競技をする場が無い。
この本の中では屋内ダイビングプールを有する施設は東京都内でもたった一つだけ。
記載されている東京辰巳国際水泳場というのは実在しているのでごたぶん事実なのだろう。
それに自分にも出来るのではないか、とは誰も思わないだろう。
きれいに入水出来なかった場合は、時速60キロで水面に激突する。その痛さは亀田興毅の連打をくらうより数段痛いだろう。
入水失敗も痛いだろが、飛び板に頭をぶつけてしまったら・・そういえばソウル五輪で実際に飛び板に頭をぶつけて頭から血を流している選手がいたっけ。
そのマイナーさを象徴する様に、主役達の所属クラブも高校生が1人、中学生が7人、小学生が26人。
その中学生もどんどん脱落して行く。尻つぼみなのだ。学年が上がる毎に減ってしまう。

最終的には同じクラブに所属する高校生と中学生がデッドヒートする。

一人は両親共飛込み競技の選手で共にオリンピックに出場し、自らも3年連続の中学生チャンピオン、高校1年にしてすでにインターハイの最有力選手。まさに飛び込みサラブレッドの要一。

また一人は伝説の天才ダイバーを祖父に持ち、津軽の断崖から海に向かって飛び込んでいた沖津飛沫。
その祖父の名前が沖津白波。まるでどこかの焼酎か地酒の様な名前だが、代々命がけで海に飛び込み海神の怒りを静めるという家柄に相応しいさんずいだらけの名前が水との縁の深さを強調している。

もう一人は動体視力の良さ故、ダイヤモンドの瞳を持つとコーチに言われた中学生、知季。

断崖から海に向かって飛び込むと言うとつい思い浮かべてしまうのが、あの自殺の名所の東尋坊の断崖絶壁から海へ飛び込んでいたオジさん。
これは「探偵ナイトスクープ」というローカル放送でだいぶん以前に放送していたものなのだが、それは競技用の飛込みでも何でも無く本当に単に飛び込んでいる、それだけなのだ。
何が楽しくってそんな所から飛び込むんでしょう、というのはオジさんには愚問だろう。
登山家に何が楽しくって山なんか登るんでしょう?って聞くのと同じ事だろうが、本当のきっかけはなんだったのだろう。
東尋坊あたりでは低い所から飛び込み位置を順番に高くする様な事は出来ないだろう。
本当は自殺志願者だったのかもしれない。死を覚悟して飛び込んではみたものの生きていた。
そしてあまりの気持ち良さに飛び込みの魅力に魅入られてしまった・・・?。

沖津飛沫が子供の頃、海へ飛び込む姿を見た元飛び込み選手だったオーナーが感激してダイビングクラブを作ったという。
感激するぐらいなのだから、ちょっと危険すぎて考えづらいが、東尋坊の飛び込みオジさんとは違ってかなり華麗な飛込みを海に向かってしていたという事になる。
いずれにしても飛沫もダイブする事に魅入られてしまった一人には違い無い。
プールでの飛び込みなんて、と野性児の様な飛沫には幼稚なお遊びに見えていたものが隣りの競泳の観客の視線を独り占めするに到って競技としてダイブの魅力に魅入られていく。

この物語を急展開させるのは新任のコーチの夏陽子の存在。アメリカでコーチングを学び、飛び込みにかける熱意は並々ならぬものを持つ。
具体的で的確なアドバイス、そして選手を潜在能力を見出す能力。何より中学生の大会ですら上位にも入れない選手を見て、オリンピックを目指そうという無謀とも思えるこころざしの高さ。

そしてエリートなだけで面白みの無さそうな要一。
物語の中盤から徐々にこの少年の個性が光って来る。
「あがるのはダイバーとして素質がある証拠だ。大事な試合で緊張もしないやつには感受性がない。感受性がないやつには美しいダイブなんてできない」
と、本番を前にして緊張しているライバルに声をかけ、緊張を和らげる。
人からはサラブレッドと呼ばれ、そのプレッシャーを小学生時代から抱えながらも、自らクラブを引っ張って行くリーダーであり続けようとし、遊びも友達も部活動も休みもガールフレンドも、焼肉もプリンも・・・。
同年代の少年達が味わったであろう楽しみの全てを投げ打ち、飛び込みのためだけに全てを捧げて来た。
友達よりコーチに評価され、それを友達に嫉妬されて悩む後輩には、
「いつかどでかい会場で十万の観衆をわかせたいと思うなら、そばにいる一人や二人の事は忘れろ。いちいち気を配っていたら、十万の観衆をわかせるエネルギーなんか残らないぞ」と声をかける。
このスポーツそのものを背中に背負ってしまったかの様に、アスリートとして一流なだけで無く、時には名コーチの役割も担っている。

この本を読んだ後に飛び込みの映像を見るチャンスを得た。

高さ10メートル。とんでも無い高さだ。本当にそこから飛び込むのか?
これまでたまに見た事のある飛び込み競技は3メートルか5メートルだったのか。10メートルという圧倒的な高さにまず威圧される。
第一群 前飛込 第二群 後飛込 第三群 前逆飛込 もうこのあたりから唖然としてしまうのだ。
なんだなんだこの飛び方は?最初の回転で良く踏み板に頭をぶつけないものだ。第四群 後踏切前飛 第五群 捻り飛込 第六群 逆立ち飛込・・・。

前回のアテネ五輪の後、成績不振に終ったメダル候補の各競技の選手達の「楽しめたから満足です」のコメントラッシュに対して国を背負い国費を使っての五輪出場だというのになんというコメントか、という不評がプンプンであったが、結果についてのコメントそのものの是非を云々するつもりはない。

だが実際に、この高さ10メートルの踏み板を前にした時の選手の気持ちはどうだろう。
全てのプレッシャ-を抱えたままでの1.4秒はあまりにも重たい。
もう楽しんでやろう、もうそれしか無いのではないだろうか。

かくして私の中では次回の五輪では飛び込みは絶対に見逃せないスポーツとなったのだった。

DIVE!!  森 絵都著



活動寫眞の女


京都を舞台としたお話。
時代は映画の全盛期が終わりを告げ、東京オリンピックを境に急激にテレビの時代に変わりつつある頃の学生達の話。
太秦の撮影所でアルバイトをしている彼らの前に現れたのは30年前に死んだはずの大部屋のエキストラ女優。
あまりにも美しすぎたために役が廻って来ない、なんて事があるのでしょうか。
百人の男がいたとしたら、百人が百人とも振り返ってしまうだろうというぐらいの美しさ。映画に出演させると観客はその女優に見入ってしまってもうストーリーどころでは無くなってしまうのだと言う。主役をも喰ってしまうほどの美しさ。
だから万年大部屋でセリフの一つももらえない。
そんな30年前の女優が目の前に現れる。
幽霊という扱いになっているが、これは幽霊のお話などでは無い。
愛すべき日本映画が無くなってしまう、という時代を背景にして最も活動写真が盛んだった頃に最も映画を愛しながらも力を発揮する事の出来なかった人々が時空を越えて、映画最後の時代に何かを刻みたかったのでないだろうか。

浅田次郎の作品で時空を越える作品と言えば「地下鉄に乗って」がある。
この作品は何度もタイムスリップを繰り返し、若かりし頃の兄に出会い、若かりし頃の父に出会う。古き時代をなつかしむノスタルジックな作品。

そういう意味ではこの本も映画ファンにとってはたまらない古き時代を懐古するノスタルジックな作品と言えるだろうか。

この作品是非とも映画化されて欲しいものだが、無理な注文というものなのでしょうね。なんと言っても見入ってしまってストーリーどころでは無くなってしまう女優がいなければならないのですから。

活動寫眞の女  浅田次郎著



マークスの山


行きつけの本屋で「李歐」と「マークスの山」が平積みにされていたので、何も考えずにまず購入してしまった。
購入した後で高村薫、高村薫、高村薫、高村薫・・どこかで聞いた覚えがあるな・・そうだ、レディジョーカーの作者では無いか。
あの「グリコ森永事件」を題材にほぼこれが真相に近いのでは無いかと思われる様な物語を書いた人だ。
「グリコ森永事件」と言うともうはるか前の事の様であるが、あの事件は地域性も身近であり、「けいさつのあほどもへ」で始まる挑発的な挑戦状が新聞トップを飾っていたのも印象に残っている。
あの事件を書いた高村薫の本か。と李歐をまず読破。
新しい形の美しく壮大な青春の物語だのなんだのっていう歯の浮いた様な誉め言葉が帯に書いてあったっけ。
そんなたいそうな、というのが実感。この本がそもそも書かれたのは大分以前であろうから、その頃にしてみれば現在頻繁に発生している中国人犯罪を予見していたと言う事だろうか。
出張など長旅のお供には丁度いい本かもしれませんよ。

さて、いきおいで買ったもう一つの「マークスの山」。
この本で面白いところは、警視庁という組織の有りようが良くわかるところだろうか。
同じ捜査一課でも係りが違えば、他所の組織となって情報のやり取りすらスムーズには行われない。
東京で発生した連続殺人。その関係者を調べて行くと、必ずや行き当たるのが某大学登山部の同期生。
各々が地位ある立場となった人達だ。またその人達も次々と死んで行く。
捜査に乗り出した刑事は上からの圧力との戦いをしなければならない。
犯人は自らをマークスと呼ぶ青年。
二重人格者なのか多重人格者なのか、それとも大人しい性格の時は、単に芝居をしていただけなのか、ついに最後までわからない。
結局、一連の事件の背後には十数年前、その地位ある人達まだ学生だった時代に遡る。

詳細は書かないが、事件の解明に至るのは、同期の登山部の卒業生の医者(病院長だったか)が、書き残した遺書である。
なんともはた迷惑な遺書を残したものだ。
同じ同期の登山部仲間と南アルプスへ登山した際に、同行した一人を不幸にも死に至らしめてしまった事について、遺書の中で詫びたいというのなら、その人に対する哀悼の念だけを書けば良いだろうし仲間の事も書く必要は無いだろう。
ところがこの医者、自分が癌で先が無いからと遺書を書くのはいいが、あまりにも饒舌なのである。
仲間の学生時代の秘密、裏口入学で入った事やら、交通事故のもみ消しが有った事やら、墓場まで持って行けばいい様な事を全て暴露しているのだ。全く遺書としては書く必要の無い事を書いている。
そういう内容の事を書き残す事で、それが少しでも漏れれば、仲間であったかつての同級生にどれだけ迷惑がかかるか、想像すればわかるだろうに。またそんなものどこから漏れるか知れたものじゃない。
自分の死を直前にしての仲間への裏切りであり、最後っ屁としか思えない。
この本上下巻の長編なのだが、作者は刑事に突き止めさせる努力を怠ってしまったのだろうか。

捜査会議の描写やら、キャリア対ノンキャリ。各捜査班同士の対立など、現実的に見える箇所がふんだんにあっていろいろな圧力の中苦労して捜査する過程を散々書いておきながら、この様な非現実的で一足飛びで真相解明の遺書の登場。
そして、犯人の青年についても記憶障害という病気でありながら、綿密な計画を立てて実行して行く過程についても結局非現実的のまま終ってしまった。

やっぱり、現実にあった事件をモチーフとしないとレディジョーカーの様な作品は生まれないのかなぁ。