読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



abさんご


いやぁ、どんだけ読みづらいんだ。

こんな読みづらい読み物ってそうそうあるもんじゃない。

小説が横書きだとこんなに読むづらいものなのか。
いや、横書きというだけでなく、ひらがなばかりというのはこんなに読みづらいものなのか。
「アルジャーノンに花束を」で主人公のチャーリイがだんだんと元の知能に低下していく最中の文章 「 けいかほうこく 」 みたいなのが最初から最後までだったらどうだろうか。

冒頭3ページを読んで、結局何も頭に残っていないことに気付き、また先頭から、ということを何度か繰り返えすうち、これはこのまま読み進んだ方が良いのだ、とばかりに最後まで一気に読んではみた。読んではみたと書いたが実は読んだとは言えないのだ。文字の上も目がなぞったにすぎない。

なるほど、確かに中ごろになると少しは横書きにも、ひらがな文にも多少は慣れては来るが、内容を理解したとは言い難い。

二度目のチャンレジをしてみてもまだ、ようやくおぼろげに、といったところか。

読みながら、なんでこれが芥川賞なんだろうか。と何度いぶかしく思ったことか。
なんでも作者は校正を手掛ける人。
常日頃、作家はかなり校正者にお世話になっているのだという。
まさか校正者へのおもねりではあるまい、と、選者の先生方の評を読んでみると、どうだろう。結構選者先生達も苦労して読んだらしく少し安堵。

3回読んでようやくわかった、という人もまでいる。

選者の先生方の評を読んでようやくわかったことはこの本はあえて読みにくく、ゆっくりと何度も反復して読まれるように書かれている、ということ。

では、なんでそんなに敢えて読みにくく書く必要があったのだろうか。

作者のインタビューの中に答えがあったように思う。
この作者、一作を仕上げるのに10年の歳月を費やして推敲を重ねるのだと言う。

10年もかけて書いたものをたった2~3時間で読み終えさせてたまるか!
この作者はそんな無粋な言葉は言わないだろうが、あえて何度も反復して読まれるように、という気持ちの本音はそれだけ推敲した後をしっかりと探しなさい、という意思の表れなのかもしれない。

「蚊帳」のことをわざわざ「へやの中のへやのようなやわらかい檻」と表現し、「傘」のことをわざわざ「天からふるものをしのぐどうぐ」と表現するところなど、ある選者をして自分なら絶対にしない表現と言わせてはいるが、こちらはそれが蚊帳とか傘だとか、選評を読んで初めてわかったほどだから、選者先生はさすがにプロなんだなぁ。

なんでわざわざこういう表現をするのだろう。

それも 作者インタビューにその答えがあるように思う。
作者は、幼児の頃に物の名前を自分なりの表現の仕方で呼んでいたのだという。その幼女がそのまま大人になった。
そんな表現がいたるところにある。

選者の先生達は読み込むことで、大和ことばの美しさを見つけたり、強固な文学観をみつけたり、稀に見る才能を発見したり、たゆたうリズムが心地よくなられたりしたらしいが、我々シロウトにはあまりに高尚すぎて、この本の良さにまではなかなか辿りつけない。

abさんご 黒田夏子 著 第148回 芥川賞 受賞作



昭和史〈戦後篇〉


いわゆる戦後史というものを体系だって読むのはおそらく初めてかもしれない。
断片的にはそれぞれ知っていることでも一気通巻で読むことでその流れが良く分かる。
戦後史というものを眺めてみると、その中における昭和天皇の果たし役割りがいかに大きかったかが良く分かる。

日本がポツダム宣言の受諾を連合国側へは伝えたのは8月14日。
従って本当の終戦記念日は8月14日のはずなのだが、何故8月15日になっているか。
昭和天皇の玉音放送が流れたのが、8月15日だからである。

いくら政府がポツダム宣言を受諾したところで、軍の強硬派は徹底抗戦をするのではないか、連合国側もそう思っていたはずである。

それがあの玉音放送一つで、兵は銃を捨てた。

マッカーサーと昭和天皇との11回に及ぶ会談の内容も興味深いが、何と言っても初対面の時に、昭和天皇が発した「すべての責任は自分にある。自分の処分をあなたに委ねます」の潔さ。
地下室に隠れてみじめな姿で発見されたイラクのフセイン元大統領は記憶に新しいが、自らの命運が尽きた後の一国の独裁者の末路は、かなり憐れである。
国外への亡命を希望したり、命乞いをしたり・・と。
ところが、連合国側からは専制君主と思われていた昭和天皇のあまりの潔さにマッカーサーは天皇の処置を決めるより前に逆に昭和天皇を尊敬してしまう。

実際にマッカーサーの元には老若男女の日本人から山のような手紙が寄せられたのだという。
天皇に何かがあれば、日本人は未来永劫にその相手に憎しみを抱き続けるだろう、とか。もし、天皇に危害が加わるなら、占領軍はこの先10年先も兵を引くことができなだろう、と暗にゲリラにての徹底抗戦を辞さないことを記す、ほとんど脅しと言ってもいいような手紙まで寄せられる。

かくして天皇の無事を確約した後、GHQによる徹底的な日本人の精神的な骨抜き戦略が始まって行く。
その最たるものが現在の憲法だろう。
この憲法の改正のきっかけとなったのは単なる誤訳だった、という逸話まである。
近衛文麿がマッカーサーの元を訪れて、いろいろお伺いを立てていたそうな。
その際に 国の Constitution(構造)を変えねば、と言われたのを、Constitution(憲法)と誤訳されてそのまま、憲法改革の委員会などを立ち上げるきっかけを作ってしまった、と言うものだが、この逸話は少々眉つばものかもしれない。

GHQは農地解放だの財閥解体だの公職追放だの、とおよそ日本人自身では為し得なかった改革を行いつつ、併行して徹底的日本人精神骨抜き改革を行っている。
教育勅語を廃止し、先の戦争にては日本人は騙され、いかにひどいことを世界にして来たかを繰り返し繰り返し国民に聞かせ、自信を喪失させ、また言論統制は戦時中よりよほど厳しかったのだという。

筆者はそんな日本に4つの選択肢があったのだ、という。
・陸海空軍を整備した普通の国への道。(1)
・社会民主主義国家への道(ソ連参加ではなく、米とも欧とも違う独自の道)(2)
・スイスやスエーデンのような中立国家。(3)
・軽武装・通商貿易至上主義国家への道。(4)

果たしてそうだろうか。
(2)に関してはソ連とアメリカとの冷戦の日本がその橋頭保である以上、選択肢としても上がって来ようがない。
(3)も同じ理由で選択肢には成り得ないが、この選択肢の中立を維持することはすなわち、強力な軍事国家を維持せねばならず、(1)よりもはるかに困難な選択肢だろう。

(1)の陸海空軍を整備した普通の国家の実現に取り組んだのが鳩山一郎さんなのだという。ルーピーさんのお祖父さんは、ものすごくまともな人だった。
結局、岸内閣の後の池田内閣は(4)を選択肢し、所得倍増計画を打ち出してまたそれを実現させた。

今ここにきて、いきなり(1)へとは思わないが、この生い立ちの不純な憲法を変える手段さえほとんどない状態からは早く脱却すべきだろう。
幸いにしてこの夏の参議院選挙、96条(改正手続)の変更が争点になるかもしれない。

「もはや戦後は終わった」の言葉は何度も登場するが、真に戦後が終わるのは自らの国民の手で憲法を変更可能になったときなのではないだろうか。


昭和史〈戦後篇〉1945-1989  半藤 一利 著



空の拳


あの「八日目の蝉」とかを書いた角田光代さんがボクシングを題材に?
ハテナマークが付きすぎてしまう。

文芸部を希望して出版社に就職した主人公氏。
配属されたのは念願かなわず「ザ・拳」というボクシング専門の雑誌の編集部。

主人公氏にしてみれば、全く志望と異なる部署になるわけで、左遷されたような気分で出社するのだが、取材に行った先のジムで、「習いに来たら?」と誘いを受け、そして入会し、やがてボクシングのとりこになって行く。

そのシムから新人王決定戦への出場選手が登場する。
その名もタイガー立花。

リングに上がる前にゾンビの格好で出て来てみたり、相手の選手を睨みつけてみたり、勝ったあとのインタビューでは、悪態をついてみたり、舌を出して中指を突き立てみたり、KO予告をしてみたり、と嫌われそうなキャラクターを演出しながらも、ボクシングの試合そのものに花があるためか、人気がある。

その立花のとんでもない生い立ちをトレーナー氏が披露する。
幼くして父母を失い、親戚家へ預けられるが、邪魔者扱いされ、今度は祖父母の元へ。
そして不良仲間とつるんでいるうちに少年院へ。
少年院を出たり入ったりを繰り返した末に出会ったのが、ボクシングだった。

その生い立ちをトレーナーから聞いた主人公氏は、「ザ・拳」の雑誌で大きく取り上げる。
ところがその生い立ちはトレーナーが作ったキャラ作りの一環だった。
彼は両親健在、普通に高校へ行き普通にサッカーをやっていて、普通に大学へ行く犯罪歴もない健全な青年だった。

そんなトレーナーのオチャメなはずのキャラ作りも、一旦ウソだとわかると、一勢に経歴詐称だと大騒ぎになる。
最初は売れてない雑誌一誌が書き始めてから、週刊誌各誌、スポーツ新聞・・軒並み経歴詐称だと立花をこき下ろす。

ネットでも経歴詐称男として悪く書かれ、試合にのぞんではかつての人気はどこへやら。完璧アウェイ状態。

そんな状況を見たベテラン編集者は嘆くのだ。
いつからこんなみんなで正義を声高に叫ぶ世の中になったんだ、なんでこのくらいのこと笑ってすませられないんだ。
人のちょっとした過ちを見つけたらとことん糾弾する。
いやな時代になってしまった・・・と。

格好良くそして圧倒的に勝ち続けるつことでしか、その傷は払拭されないのだろうか。

作者はボクシングを題材にしたのはこれを書きたかったからなのか・・。

立花はこんな言葉を残している。
「強いやつが勝つんじゃない。勝ったやつが強いんだ」

なかなか、 ボクシングの試合の描写などはかなり微に入り細に入っているのだが、どうしても女性の視点だよな、と思えてしまう。
ボクシングしている姿を見ながら「痛い」とかって思うかな。
主人公氏がなよなよしているからかもしれないが、その設定そのものが作者が女性であることと無縁ではないだろう。
彼は見る側に徹してしまうが、同じジムで練習していたら、パンチも出したくなりゃ、試合も出たくなるだろうに。

作者はボクシングの試合をかなりの数観たのだろう。
ものすごく研究はしているが、それはあくまでも観察者としてのものだ。

実際にグローブをはめてボクシングにむかっていたら、「八日目の蝉」もびっくりのすごい作品になってたんじゃないだろうか。

空の拳 角田光代著 日本経済新聞出版社