読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



新世界より


2050年頃にはこうなる、あーなるという話を良く聞く。
2050年はおろか、2030年と言われたってなかなかイメージすら湧いてこない。

そこへ来て1000年後の世界などだという。
1000年後の世界を描いているSF長編。

冒頭、読みだした時は、1000年前の間違いじゃないのか?などと思ってしまった。
呪術だの迷信だの仏教用語のようなものからお化けみたいな話から始まる。

しかし、未来だった。
呪術とはすなわち現代でいうところサイコシネシスなどの超能力。

1000年後の世界は今でいう超能力者達が支配する世界だった。

その世界では人が人を殺めるなどということは有り得ない。
過去にも未来にも・・子供達は、そう思っている。いや、ほとんどの大人もか。

過去の歴史は封印され、歴史の授業で習うこともない。

歴史年表など戦争の年表のようなものなのだが、人が人を殺めたような歴史などは知ってはならない世界なのだ。

そういう社会は好奇心旺盛な子供達にとってはとんでもない管理社会。

自分達の周囲にかつて居た子供がいつの間にか居なくなっている。
何故だか名前が思い出せない。
そう、大人達は子供達の記憶を改ざんしてまでして、不穏分子が育たないようにしている。
基本的人権は17歳までは存在しない世界だ。

現代からその1000年後に至るまでの間には、まず超能力者が生まれ、そして増える。となると、今度は疎んじられ、中世の魔女狩りのようなことも行われ、やがては超能力者対一般人の戦争に。
そして最終的には力をつけた超能力者達が勝ってしまう。

1000年の間にあまたの戦争があり、超能力者達の無謀もあり、平和な社会のために、人を殺めるために超能力は使えないように植えつけが行われる。

人に危害を加えるような行為をしようとしただけで、その人は命を落とすことになる。
だからこの時代には殺人というものは存在しない。

だが、もしその成長過程で何らかの要因にて人を殺めてもなんともないような人が出来てしまった場合、その世界ではもはや対処のしようが無くなる。

それは悪鬼と呼ばれるが、悪鬼も人なので誰も彼を攻撃出来ないのだ。
攻撃しようとした途端に自分に抑制がかかってしまうのだから。

だから、一旦そういう人間が出来てしまえば、ひたすら、人々は惨殺され続けるしかなくなる。

そういう理由で、成長過程にある子供達は、がんじがらめの管理を施し、その社会に適合出来ない子供と判断されれば、教育委員会が処分の決定を下し、同級生の記憶からも抹消される。

もう何年か先には無くなるのではないか、とまで言われている「教育委員会」が1000年後に登場するのには少々苦笑してしまった。

主人公がまだ小学生の頃から、中学に相当する全人学級へ、そこから始まる冒険譚。
その冒険譚の続きは、主人公が成人した後にものすごい展開へと拡がっていくわけだが、この本、未来SF小説としての面白さ、冒険ものとしての面白さ、登場する幾多の耳慣れない名前の動物たちについての綿密な生態説明、それらが作者の綿密な設計によりなりたっている。

上・中・下巻の結構なボリュームの読み物だが退屈するどころか、後半へ話が進めば進むほどおもしろくなって手放せなくなる一冊。いや三冊か。

新世界より 貴志祐介 著



光秀曜変


明智光秀と織田信長って同世代だとばっかり思っていたが、実は違った。

この本に登場する明智光秀は67歳。

織田信長の年齢は書いていなかったと思うが、
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば~・・」と舞いを舞ったぐらいだから信長はせいぜい50歳か。

明智光秀が信長よりそんなに年上だったとは知らなかった。

御承知の通り、明智光秀は本能寺の変で自らの主である信長を討ってしまい、謀反を起こしたとんでもない男として歴史に名を残すことになってしまったわけだが、なんのことはない、人生50年と言われた中で67まで生きてしまえば、ここで一花咲かそうとしたとしてもいかしくはない。

まして、信長の率いる兵はわずか。

自らは信長から毛利を責める秀吉を助っ人に行くよう命令されていて、率いる手勢は一万を超える。

方や光秀のライバル達はどうか。

秀吉は助っ人を求めるぐらいだから、播磨を離れられない。

柴田勝家は北陸で上杉勢と対峙していて、これも離れられない。

滝川一益は関東で北条と対峙している。

信長を討った後、近畿圏内を手中に治め、維持し、上杉、毛利、北条と同盟を結んでいけば、存外に治まってしまうのではないか。

本能寺の変は光秀が信長に対する仕打ちを耐えかねた怨恨によるものという説が一般的だが、案外じっくり考えた末のことと思えなくもない。

だが、この本の中の光秀は違うのだ。

もはや本能寺の変よりだいぶ前から物忘れがひどくなっている。

まぁ、老人が呆けていくのは何も現代に限った話ではないだろうから、まんざら有り得ない話と切ってすてることもない。

この本の中の光秀に大きな影響を与えたのは信長が、織田家の譜代とも言える佐久間信盛らを追放してしまったことだ。

役に立たなくあんれば、自分もすぐに放逐されてしまう。

そんな恐怖心から、眠れない。
起きていても無の前に信長の姿が現われてくる。

そんな精神状態の光秀が本能寺の変を決意する。

想定外は、毛利と対峙して播磨を離れられないはずの秀吉が、速攻で引き返して来たこと。
味方につくと信じていた筒井順慶らがことごとく味方につかなかったこと、だろうか。

その後は負けるべくして負ける戦。

どれだけとめても聞かないわが主。主がそこまでの決心なら、とついていく家臣達。

負け戦の中でもわが主光秀のためにと、命を投げ出す家臣達がなんともいたましい。

光秀曜変  岩井三四二 著



幕末史


幕末と言う時代を舞台にした本はもうどれだけ読んだだろう。
司馬遼太郎だけでも相当な数があるはずだ。

司馬遼太郎にしても浅田次郎にしても個々の人物にスポットがあたるが、これだけ体系だてて歴史としての幕末を振り返ってみるのはなかなかいい試みではないだろうか。

しかし改めて歴史として見てみると、よくもまぁこれだけの短期間の間にいろんなことが凝縮して起こったものだ、とつくづく思う。

そもそもは1853年のペリーの来航から始まる。
それから瞬く間に、日米和親条約調印、日米通商条約調印、安政の大獄、桜田門外の変、長州征伐・・・もろもろの事件があった後、江戸城の無血開城が1868年。

ペリーが来てからほんの15年しか経っていない。その15年で江戸幕府は瓦解してしまうのだ。

さらには明治になって西南戦争で西郷が死に、大久保利通がその翌年に死ぬ。それが1878年。
ペリーが来てからたったの25年。

その25年の間に鎖国が無くなり江戸幕府が無くなるばかりか、版籍奉還にて全国の藩すら無くなってしまう。

徴兵制により、武士が要らなくなってしまう。
激動の25年だ。

今の時代は移り変わりが激しくなったと言われるが、25年前の1988年からこっち何が変わっただろうか。
バブルがはじけた、昭和から平成に変わった、携帯電話の普及そしてスマートフォンが普及するようになった、とはいえ、国家として25年前と比べて何が変わったというわけではない。
この25年で中国が台頭して来たのが一番大きいかもしれない。

その25年の歴史を駆け足で、語り口調でわかり易く語っているのがこの本。

大久保さん、西郷さん、勝さん、などと歴史上の人物をお知り合いみたいに語るのも特徴的だ。

自らが長岡の出身だけに薩長閥に対してかなりの嫌悪があるように見受けられる。

昭和初期でも海軍や陸軍の中将や少将の数は圧倒的に薩摩と長州が多いので、その時代まで薩長閥は続いたのだろう。

司馬遼太郎ほどではないにしても、やはり半藤さんにも自身の思い入れというものは入ってしまうのだろう。
勝海舟には特に思い入れが強い。
世界が見えていたのはこの人だけだとか。

そして、薩長の為した明治維新をして暴力革命と切って捨てる。

それはその通りだと思うのだが、半藤さんはどんな形が最適と思っておられたのだろう。松平春嶽やら山内容堂やら徳川慶喜やらの合議制の内閣が良かったという意見なのかもしれないが、徳川慶喜の存在だけで全ては台無しになるのではないだろうか。

戊辰戦争では慶喜は味方を置いてさっさと大阪から江戸へ船で逃げ帰ってしまうのだが、慶喜側の言い分としては水戸の出身としては錦の御旗には絶対に歯向かわないという心情からなのだとか。

明治に入っての政府の混乱ぶりについてはかなり辛辣だ。
海図を持たない船出をした政府の無能ぶりを語っておられる。

とはいってもその言われるところのシロウト政府にしては版籍奉還や廃藩置県なんて海図無しにしては、かなりダイナミックなことまでもちゃくちゃくとやってのけたとも思えるのですが・・・。

幕末史  半藤一利 著