読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



神さまの貨物


昔、昔あるところに、と昔話のような始まり方をするが、綴られていくのはかなり残酷な話なのだ。

貧しい木こりのおかみさんは、子供を授けて欲しいと神に祈り続けるが、叶わないまま産める年齢を過ぎてしまう。
彼女は森を走りぬける貨物列車を気に入って、毎日毎日、近くまで行って眺める。
そんな時に貨物列車から天の授かりもの、そう願い続けた赤ちゃんが列車から降ってくるのだ。

その貨物列車とはナチスがユダヤ人捕虜を乗せて行く列車なのだった。
赤ちゃんを投げた父親は苦渋の決断だった。

彼女は字が読めない。世の中の事も知らない。ユダヤ人がどうなっているのか、戦争がどうなっているのかなんて全く知らないし、興味もない。ただ、神が与えてくれたこの小さな命をひたすら喜び、命懸けで守ろうとする。

ナチスドイツが敗北すると赤い兵隊(ソ連)がやって来て、彼女を守ってくれた人も殺してしまう。
が、彼女はその人が残した羊の乳からチーズえを作り、それを売ったお金で子供を育てる。
「ただ一つ存在に値するもの。それは、愛だ」
この本の訴えたいことはその一点。

この作者の父と祖父が実際に収容所行きの列車に乗っていたという。

このおかみさんの視点から物語を書くに至るまでには子供を投げた父親の境地から何度も何度も脱却をしなければならなかっただろう。

神さまの貨物  ジャンクロード・グランベール 著



逆ソクラテス


伊坂幸太郎氏の書いたもので短編というのはあるにはあるが、どちらかと言えば少ない。
小学生が主人公となるともっと少ない、というよりそんなのあったっけ。

人を見た目だけで判断するのというのはありがちなことだ。
偏見というのもありがちなことだ。
自分の小学生の頃ってどうだったっけ。
見た目、というより、そいつの行動で判断して揶揄したりしていた気がする。
授業中にうんこをもらしたやつをその後もえんえんと「うんこ」というあだ名で呼んでみたりした。
二十歳を過ぎてから「うんこ」に再会した。取り巻きからは「フンコはん」と呼ばれ、かなり慕われている。喧嘩も強けりゃ酒も強い。強引で押しが強く、怖いもの無し。知的で機転が利き、後輩の面倒見もいい。
彼は「うんこ」という呼ばれ方を捨てなかったのだ。
彼はまわりから「うんこ」と呼ばれる事など平気で逆にそれを楽しみ、周りの方が、気を使って、うんこをフンコに変え、さらに敬意を込めて「はん」までをつけてもらっている。

そこまでで無くてもそんな話はいくらでもある。

教師が偏見を持っては行けないのは当たり前なのだろうが、我々の小学生時代どはそんな教師ばかりだったように思う。

教師がピンクの服を着ている生徒に「女みたいだな」と言った事から彼は他の生徒達から馬鹿にされるようになると言う話。
それをなんとかくつがえそうとする正義感溢れる友人。
「できない生徒」から「できる生徒にしてやろう」と奮起し、やりすぎて危ない橋まで渡りかねない。
生徒を見た目だけで判断してしまう教師に対する、伊坂氏の憤りが良く伝わってくるのだが、 彼の奮起で変われたこの生徒はそんなに奮起してやらなくてもいつかは変わったのではないか、なんて思ってしまう自分は時代遅れの人間なんだろう。

この馬鹿にされていた生徒の行く末があまりにも痛快で、こういう痛快なところが伊坂氏らしくて大好きなのは変わらない。

「逆ソクラテス」「スロウではない」「非オプティマス」「アンスポーツマンライク」「逆ワシントン」の5篇。
5篇を通して、伊坂氏の訴えたかったことは、

・人を見た目で判断するな。
・先入観で決めつけるな。
・怒鳴ってばかりいるのは指導者失格だ。
・失敗はやり直せる。

というようなことだろうか。
主人公の小学生はどちらかと言えば、常識的でおとなし目。彼の横に居るのがぐいぐい積極的に動くタイプの友人。

一作目の「逆ソクラテス」でも主人公の隣に必ずいる安斎という少年。
彼はいいキャラクターだ。

この安斎君の様に筋の通らないことにはいつでも「僕はそうは思わない」とはっきりいえる人間になって欲しいという伊坂氏の願いが込められている気がする。

案外「フンコはん」もどっかのタイミングで安斎君に出会っていたのかもしれない。

逆ソクラテス  伊坂 幸太郎 著



首里の馬


昨年(2020年)夏の芥川受賞作。
私は大抵寝床に入ってから読書をはじめる。
読み始めたら、どうにもページをめくる手を止められず、ついつい睡眠不足になる事多々であるが、久しぶりに全然ページが進まない本に出会ってしまった。

最初に読み始めたのは何か月前だろうか。
途中で停止して別の本を読破することたびたび。
それにしてもなんでこんなにだらだらと長く書く必要があるんだ?

この作家さん、当初は小編を書いていたところ、勧められて5枚を10枚、10枚を20枚、30枚と書き足す様になっていったという。一旦30枚にしてから、今度は20枚に削る作業もした方がいいんじゃないのだろうか。

さて、中身だが、値打ちがあるのかどうなのかさっぱりわからないものを溜め込んだ資料館というところへ通い、そのアーカイブの手助けをする女性の話。資料館の運営、収集ははるか前に本土から移住してきたかなりご高齢の女性が行っている。。
その助手の作業の傍らで彼女が行っている仕事はかなり異様な仕事で世界のどこに住んでいるかわからない人とオンラインで会話し、与えられたクイズの問題を出して、解答を答えてもらいというもの。
海外の外国の人でありながら日本語も流暢。日本の問題などにも蘊蓄が深かったりする。

しかしながら、なんのためにそういう事が行われているのか、雇い主は世界中にそういうことをやっている場があるなどと言っているが、目的もわからなければ、どういう基準で解答者が選ばれたか、どういう機関がこのシステムを構築したのか、何もわからない。

毎回クイズの出題で顔を合わせる人とはもう顔なじみになってしまい、彼らの居場所もだんだんと明らかになって行く。一人は空爆に合うような戦場のシェルターの中からだったり、宇宙空間だったり、南極の深海の中だったり、究極の孤独な環境の人ばかり。

せっかく解答者達とも親しくなってきたという頃に彼女はその仕事をやめてしまう。
また、資料館の方も維持してきた年配の女性が亡くなったことで、取り壊しとなる。

彼女は彼女の家の庭でうずくまっていた沖縄の固有馬をなんとか乗りこなすようにはなるのだが、どうやって生計を立てているんだろう。

小さい事務所から世界とつながってクイズを出すというこのシステムって結局なんだったんだ。
何かのメタファーなのか?

そもそも資料館のアーカウイブにしたって漠然とした表現が多い。クイズにしたってこの描写は漠然としたものばかり。
もっと表現して頂けないものなのだろうか。
3人の外国人に職を去る際に3つのWORDを問題として提供するが、それすらも投げっぱなし。

孤独をテーマにした作品ということはわかったが、結局何を伝えたかったのかさっぱりわからない。
小説ってそもそも誰かに読んでほしい、とか何かを伝えたいとか、そういう気持ちで書くものじゃないのだろうか。
この作家の場合、自分が書きたいから書いている。ついてこれる人はついてこい、みたいに思えてならないがいかがだろう。
おそらく当方の読み込みが浅い、足りないということなのだろうが到底二度読みする気にはなれない本だ。
あまりにも退屈。

芥川賞選者の選評としてはわりと佳作だったとか、評価がそこそこ高いのには驚いた。
選者の中に村上龍さんの名前が無かったが。もうやめちゃったのかな。
龍さんなら、「伝えたい事の不明な小説は好まない」とか言って推さなかったんじゃないかな。