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戦場の掟 (BIG BOY RULES)


すごいものを読んでしまった、という実感。
逆に言えばこんな世界があるなんてこの本を読むまで一切知らなかった。

傭兵という存在はあるのは聞いたことがあったが、傭兵の実態などというのは映画や小説の中でしか知らないものだった。

傭兵を雇っているのは、警備会社という名目の軍事会社。

彼らの存在、人員は公には世間しない。
米軍兵士の死者数は公にされても傭兵の死者数はどこにも出ないし、誰も知らない。

軍事ももはやアウトソーシングする時代に入っていたのだ。
そんなことは露ほども知らなかった。
警察や軍を民間に委ねた社会がその民間会社の独裁状態になっていたりする近未来映画などがよくあるが、もうそれに近い状態が起こりつつあるのだ。

彼らには国際法も無ければ、イラクの国内法も無い。
反対通行の道を平気で全速でぶっ飛ばし、障害物は片っ端から撃ちまくったところで誰からも裁かれない。

今日は誰かを殺したい、そんな動機だけでイラク人が殺されていく。

イラク戦争後のイラクと言えば、シーア派やらスンニ派やらのイラク人によるテロばかりが取り上げられてきたが、そんなイラク人よりはるかにひどいテロ行為をこの軍事会社の連中は起こしていた。

彼らは軍隊を警護するのだ。
要人警護も行う。
アメリカはもとより、イタリア軍も日本の自衛隊の名前も出ていた。
警備会社に警護される軍隊・・・。

イラク戦争は、ある人々にとってはとんでもないビジネスチャンスなのだった。
当初は輸送を行うビジネスを始めるつもりが、輸送には武装が必要となりやがてそちらの武装し、軍事を行う方が専門になって行く。

そんな軍事会社の傭兵の数は多国籍軍の兵の10倍はいるだろう、と言われる。
傭兵には各国の人間が集まる。
イラク人も雇われる。

そんな軍事会社もやり過ぎれば歯止めがかかる。

唯一歯止め無しの会社がブラックウォーター社という巨大企業。
アメリカ国務省の後ろ盾があり、もうやりたい放題。
何をしてもお咎めなしだ。

15分間で17名を撃ち殺すなんて、もうがむしゃらに撃ちまくらなければ出来ない所業だと、軍のプロをして言わしめる。

アメリカはこのイラク戦争で何を得たかったのだろうか。
フセインの独裁による犠牲者がいたとしても、戦後のこの無政府に近い状態よりははるかに治安は良かっただろうに。
おそらく戦後の日本のようなアメリカ主導による安定平和統治を目指したのだろうが、このブラックウォーターという会社もアメリカの会社だ。
米軍はやっていない、はイラク人には通用しない。
この会社の人道無比な虐殺行為の為にアメリカ人憎しは深まる一方。
結果、治安はますます悪くなり、米兵の死者も増えれば、イラク人の死者も増える一方。
そこに得た物はあったのだろうか。

このスティーヴ・ファイナルという人はワシントンポストの記者。
同じアメリカ人でアメリカ人憎しのイラクの中でよくこれだけイラクの人にも取材が出来たものだ。
イラクの民間人はもとより、傭兵の人、民間警備会社(軍事会社)の経営者、イラク政府高官、アメリカ政府の高官、まんべんなく取材をして書かれたこの本、原著「BIG BOY RULES」はピューリッツァー賞を受賞している。

民間警備会社の傭兵5名がイラクで拉致される事件が起きる。
米軍兵士が拉致されたとなると何千人規模の捜索隊が編成されるのに、彼らが傭兵だったがために誰も助け出そうとしない。

まだ、生きていることを証明するビデオテープが交渉用にアメリカ寄りのイラク高官の手に渡されるが、彼は知らぬ存ぜぬで関わらないのが一番とばかりにそれを公表しない。

本の中でかなりのページが割かれているのは、その傭兵達のアメリカに残された家族達の姿。
最終的に動かない政府のためか、彼らは死体で発見され、そのむごたらしさに家族達は憤る姿が描かれるが、そのあたりはウエイトとしてどうなのだろう。

傭兵達に何の落ち度も無い、普通に暮らしているはずの民間人が何人も何人も殺されて行く中、自らの意思を持ってその傭兵になりに行った5人の死はイラクの人々の命より重かったのだろうか。

同胞ならでは、なのだろうか。
ならば、やはりイラクの人にとってはこのピューリッツァー賞も憎いかもしれない。

戦場の掟 スティーヴ・ファイナル 著  伏見威蕃(翻訳) (BIG BOY RULES)



神様のカルテ


信州にある病院での話。

主人公の医者は2時間ばかりの仮眠をとっただけでまるまる二日間働きづめのフラフラ状態。

でようやく家へ帰れたんだから、寝りゃいいものを同じアパートの隣人のすすめにのって飲み始めてしまう。

それでまた睡眠時間を擦り減らして、病院から緊急のお呼びがかかり、またまたフラフラで治療にあたる。

そんな状態で治療にあたって大丈夫なのかいな、と思ってしまうが、どうも大丈夫らしい。

慢性的な医師不足。

研修医だろうが専門外だろうが、医者なら緊急医としてOKなのだ。

地域医療の実態をコミカルなタッチで描いている。

主人公の話す古風な言葉遣いが、その誠実さを強調している。

ご自身、信州の医学部を卒業後、信州で医療を行って来たということなので、かなりの部分は実体験にもとづいたものなのだろう。

大学の医局へ行って最先端の医療を身につけて来い、との友人からの忠告。

果たして最先端の医療とは何なのか?
最先端を使えば、生き永らえさせることは出来るだろう、だが、そこに人間としての尊厳が残っているのかどうなのか。

どんな人にも必ず訪れる死。
その時を迎えるにあたって、その人は幸せだった、と言い切れるのかどうか?

まさに最先端医療というものの首根っこにやいばを突き付けたような作品だ。

神様のカルテ  夏川 草介 著



幸福の王子


ご存じの児童向け図書の名作。
金で覆われた銅像「幸福の王子」が越冬に出遅れたつばめに頼んで、自分の身体をついばんで貧しい人、病気で苦しんでいる人へ届けてもらう、サファイヤの眼をくりぬいて運んでもらい、ルビーの刀の柄を運んでもらい、身体中を覆っている金を運んでもらい、ついには、かつて金ピカだった王子の姿はボロボロになり、破棄され、つばめは疲れ切って死ぬのだg、街には貧しさやひもじさで腹をすかせたり、凍える人はいなくなった・・・・という有名なあの話だ。

この児童書を曽野綾子さんが翻訳したというので、読んでみたくなった。
曽野綾子さんが翻訳したからといって本の内容が特に変わったわけではない。
訳者として一カ所だけ。王子とつばめが神様の元へ召されてかけられる言葉の箇所のみ手を入れたとご本人は書いておられる。

曽野綾子さんいわく、この本は子供向けの本では決してない、と。
字を読める年齢になった子供から、字を読み続けることの出来るすべての老人までを対象にした本なのだ、と。

曽野さんは「作家にこの一冊を書き終えれば死んでもいい」と思える作品があるとすれば、自分がオスカーならこの本を選ぶだろうと言い、もし生涯で一冊だけしか本を読めないとしたら、どんな大作よりもこの本を選ぶのだという。

何をしてそこまでのことを曽野さんに言わしめたのか。

つい先日も衆議院選挙があったばかりだが、立候補者の中には平和や愛の達成を口先で声高に叫ぶ人は多い。平和は平和を叫ぶだけでは達成しない。

その平和や愛の達成には、それなりの対価を伴う。

この王子はその対価として目を差しだし、やがては命さえ差し出す。
つばめにしてもしかり。

平和や愛の達成のために自身が盲目になることも厭わず、命さえ差し出してしまう。

その行為の尊さに曽野さんは胸をうたれたのだろう。

幸福の王子 オスカー・ワイルド著 曽野綾子訳