月別アーカイブ: 9月 2009



人間の覚悟


五木寛之の書いた小説に関しては、出版されたものはほとんど読み漁ったと思う。
小説ではそれだけ引き込まれるのだが、どうしてもエッセイに関しては殆ど好きになれなかった。
だからずっと五木寛之の書いたエッセイは避けて来た。
その理由が何だったのか忘れるほどに遠ざけて来た。
今回、手にとってみたくなったのは、一つにはタイトルである。
「覚悟」という言葉が好きなのだ。
また別の理由は五木寛之の年齢に思い至ったからかもしれない。
厚生労働省が命名したところの後期高齢者の範疇に入ってから書いたエッセイだ。
それなりに達観した「覚悟」が読めるに違いない。大いに非常に興味をそそられた。

そして、・・・果たして、もはや達観をはるかに超越していた。

第一章は「地獄の門がいま開く」から始まる。

自殺者が10年連続で3万人を超えた。
秋葉原の無差別殺人。
格差社会。
サブプライム。
教育もダメ。医療もダメ。年金も全てダメ。
果てはスポーツの世界にまで話は及び、相撲界の不祥事、ボクシングの亀田兄弟の記者会見・・いや命に関わる問題だけならまだしも、よくぞまぁそれだけ並べ立てたものだ。そんな分野まで?と思う分野に至るまで悪いニュースのオンパレード。

北京オリンピックで日本の野球の惨敗にはふれても北島康介選手のアテネに続く100M、200M二冠、2連覇達成という偉業にはふれない。ソフトボールの金メダルにもふれない。イチローの活躍にも、日本人宇宙飛行士にも、日本人ノーベル賞受賞者にも目をつぶる。

明るいニュースには全て目をつぶり、悪いニュースばかりをかき集めりゃ、そんなものなのだろう。

それをもって現代を地獄だという。

この平成の世は応仁の乱の前の状態に近いという。

賀茂川の河原に餓死者が積み上げられた時代と同じ貧困だという。

精神的な貧困を言うならどの時代になぞらえようが、それこそ考え方の問題だけなので構わないだろうが、氏は精神問題ではなく現実問題として格差地獄、貧困地獄と言っている。

この国が今現在、飢餓状態だと。
北朝鮮の飢えた人民に対してでは無く、アフリカの飢餓難民に対してでもなく、平成日本に対して五木氏はそう言ってしまう。

貧困な国に自殺者は皆無だというが、五木氏の耳には入らないだろう。

飢餓にあえぐ国民が食品の偽装問題で大騒ぎをするだろうか。

自殺者の多さや無差別殺人をもってして、戦前を通して今が一番命が安くなったと五木氏は言う。
果たしてそうか。

お前の代わりなどいくらでもいるが銃弾の代わりは無いなどといった、たった一つの銃弾より命の安かった時代よりも現代の方が命が安いのか。

国を愛しても国を信用するな。
国は何もしてくれない、と氏は言う。

国に何をしてもらえるかでは無く国に何を出来るかを考えよ、的な発想であれば、ケネディの演説を想起させられるが、国は何もしてくれないと覚悟せよ、ではちょっと意味が違う。

あの阪神大震災の時、テレビであまりにも象徴的に何度も放映されたのは高速道路の寸断。
メディアでは報じられなかったのは画像としてのインパクトが少ないからだろうが、そこらじゅうの道路が至る所で陥没状態になっていたし、北大阪と大阪市内を結ぶ幹線道路の十三大橋などは橋の付け根に軽程度なら充分に落下してしまうほどの大きな亀裂があって、こりゃ道路の復旧だけでも半年ぐらいはかかるんだろうなぁなどと思っていたのだが、何たる復旧の早さだっただろう。十三大橋は三日後には復旧していたし、あちらこちらの道路の陥没も半月も経たない間にどんどん復旧して行った。

あの時につくづく思った。
税金は無駄遣いもされるかもしれないがちゃんと有効にしかも時には極めて迅速に使われるのだなぁと。

五木氏がどれだけの納税者なのかは知らないが、そりゃ高額に納税している人がそれだけの見返りを期待をしたってそんな高額のサービスがバックされるわけはない。
高額納税分を国に期待するな、と言うならわかる。
一般の読者に対して国に一切期待するなと言う。

五木氏は少なくとも一般の読者よりはるかに世界を旅して来たのではないのか。
なら、わかりそうなものではないか。

この国の行政が国民サービスをないがしろにしただけではないことぐらい。
世界の中には首都を一旦出たら至るところ、まるで震災後の陥没みたいな穴ぼこだらけの道がえんえん続く国がそこらじゅうにあることを知っているんじゃないのか。

そんなこんなで現代を悲観的に悲劇的にこれでもか、というほどに悲観し、達観を超えた世界から我々に「覚悟」という言葉を使う。

「覚悟せよ」はいい。
だが、彼が言う覚悟は単なる「アキラメロ」なのだ。
この時代を鬱状態と言うが、自ら過去何度か鬱状態になったという氏はこれを書いている最中も極度の鬱状態だったのではないだろうか。

覚悟の意味は「あきらめる」ことだと断言し、あきらめることこそ良いことなのだ、というのである。

いやはや、なんとも。

覚悟というものは何かを成し遂げる際の決意の時に必要なものなのではないのか。
ただ、「こういう時代なんだ。あきらめろ」というのを覚悟と呼ぶのか。

こんなもの「青春の門」の作者が書くなよ。

戦前氏は朝鮮半島の平壌に住んでいたのだと言う。敗戦の最中、ソ連軍が押し寄せ、居留民はほうほうのていで帰って来た。

その際にソ連兵に接触した居留民は女性を三人ほど差し出さざるを得なかったのだという。その連れて行かれる女性には行く時には皆で拝み倒しておきながら、運よく生きて帰って来ようものなら、感謝はおろかねぎらいの言葉も無く、病気をもらってるかもしれないので近づくな!だったという。

その人間のエゴイズムには吐き気がするが、だから生き残った日本人は悪人なのか。
日本人は悪人だとして女を差し出せと言って、ボロボロにしてしまったソ連人には何故何も言及しないのか。
ソ連人はハナから悪人だから、とはどこにも書いていない。生きている人間は皆悪人だ、と親鸞聖人の言葉はひいているが。

仲間が死んで行く最中を生き残ってしまったことに負い目を感じた人は大勢居たのかもしれない。
だからこそ、逆にその負い目を糧に覚悟を持って復興を成し遂げようとされたのではないのだろうか。当時少年だった五木氏の一世代上の世代の人たちは。

もっと大局から読むべし。というご指摘を頂戴するのは覚悟の上。(あきらめの覚悟じゃないですよ)
しかしながら、どんなに広い心で読んだところで「人間の覚悟」をこんな流されるままにあきらめることと割り切る考えに同調出来る余地はこれっぽっちもない。

もはや運転もままならなくなった自分にあきらめた境地で「人間の覚悟」をあきらめる事だ、などと説いてまわってほしくはない。
自らをあきらめた境地を読者と共有しようとしないで欲しい。

かつて五木寛之の小説に魅了された一読者としてつくづく思うのである。



文学少女と飢え渇く幽霊


太宰で終わりじゃなかった。
続き物だったんですねぇ。

しかしまぁ、難しいテーマに取り組んだものですねぇ。
この本、「嵐が丘」がモチーフです。
「嵐が丘」という名前は大抵の人は知っているでしょうが、ちゃんと読んだ人も稀なら、読んだとしても内容までちゃんと覚えている人は稀なのではないでしょうか。

私見ですが、太宰とは違ってなかなか感情移入出来る部分がほとんど無いからではないでしょうか。
愛だの憎しみだの復讐だのっていう小説はいくらでもありますが、自分の理解を超えてしまうと、なんだこりゃ、と途中で投げ出した人も多いはず。
実は私もその口です。
あらためて読めば、読みおおせたかもしれませんが・・。

それにしてもこの野村美月という人、チャレンジャーですねぇ。

本って読んでいますと、読み手の傲慢な判断ですけど、あぁこの作者はさぞ楽しみながら書いているんだろうなぁ、と勝手に想像してしまうことも多々あるのですが、この本の場合、作者がうんうんとうなっている場面を想像してしまいました。

こういう何かをモチーフにした作品というもの、かつてもあったでしょう。
小説ではなく神話などをモチーフにしたものは当たり前の如く存在します。

でも、こんなになじみにくい素材をモチーフにして、尚且つそれを掘り下げて、自らの登場人物に再現させながらも、原作の意図を反映させながらも違うストーリーを描ききり、且つミステリーとしても成り立つように全く別の形で再現してしまう。

何か新たな分野の開拓者のようにも思えます。
もちろん私が知らないだけで、そんな作品はあまたあるのかもしれませんが・・。

ただ途中放棄してしまうような作品を再度読んでしまいたくなるほどの書き手となるとどうでしょう。
そんな力がこの作者にはあるのかもしれません。

こうなったら、とことん野村美月さんには書いて欲しいですね。
モチーフにする題材ならヤマほどあるでしょうし。

ただ、イラスト作者には大変失礼なもの言いですが、、出版社の方針とも違うのかもしれませんが、イラスト一切無し、表紙もシックなデザインにしてもらえませんかねぇ。

その方が一応大人としては人に薦めやすいんですよ。



文学少女と死にたがりの道化


「恥の多い生涯を送って来ました。」という出だしで始まる。
ご存知、太宰治の『人間失格』。
その人間失格をそのままモチーフにしてストーリーは進んで行く。
まるで、人間失格をそのままなぞらえるが如くに。

ここでは10年前の人間失格に染まりきった高校生と現時点の人間失格に染まりきった高校生が登場する。

そして人間失格の主人公そのままに道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているはずの自分の実態を見破られた人間を怖れる彼ら。
そう、人間失格の中でお道化で笑いをとっている最中、唯一「ワザワザ」とささやくあの同級生に出会った時の主人公さながらに。

この本、本の装丁から言えば、女子中学生ならまだしも、いい大人がちょっと人前で読むには憚られるような少女ものっぽい表紙なのだが、中を読み進んで行くうちに、あまりに太宰への造詣の深さに驚かされる。

主人公の先輩で自らを文学少女と名乗る文芸部の先輩が、羊よろしく、人の書いた文章を食事代わりに食べて行く、なんていうあたりはご愛嬌だろう。
肉筆のものが味があるなんて言って、書いては食べてしまっていては、この文芸部では一切作品は残っていかない。

そんなことよりもこの天野遠子という先輩文学少女が太宰の生き方共感者に投げつける言葉が素晴らしい。
太宰の作品を全部読み終えるまでは死んではダメ!

走れメロス その一番素晴らしいところはメロスが全裸で走っていたところである、と。なるほろ、原著を読んだ人しか知り得ないことだ。
メロスが全裸だったなんて。

「葉桜と魔笛」を読め! 優しさと希望と光がある!

「雪の夜の話」を読め!「皮膚と心」を読め! みんな優しくて純情で愛らしい!

「ろまん燈籠」を!「女生徒」を!

「おしゃれ童子」のユーモアを!

「如是我聞」で見せる太宰の人間臭さを!

「斜陽」の力強さを読め!

 読め!読め!読め!読め!読め!と。

太宰は「人間失格」だけじゃない!

ハニカミ屋で優しい人たちがいっぱい登場するが強くもなれる人たちだ!

決して破滅型の作家じゃなかったことがよくわかるだろう・・・と。

なんとこの本はまさに太宰の入門本そのものだったんだ。

それにしても太宰という作家、平成のこの世においても何故こんなに人気があるのだろう。

昭和前期と平成という時代の違いは過去の歴史のどの時代の差より大きいに違いない。
それでも時代を超えて、感情移入させる力が太宰の作品にはあるのだろう。

かくいう私は「トカトントン」なんかが好きだったりします。