月別アーカイブ: 7月 2010



海峡の南 


北海道から神戸へ移住して来た父。

大局の無い小さな金儲けのネタがあれば、ハナを効かせ、飛びついて何でも手を出しては失敗する。
大した商才もないのに儲け話にだけは、飛びついてしまう。
そんなやついるよなぁ。今となっては「いたよなぁ」になるのかな。
とはいえ嫌いじゃない。そういう生き方も。

どうせすっかんぴんで出て来たんだから、すっかんぴんになったところで恐れる何があるのか。
失うものがないところからのスタートなら失うものはない。
失うものを持ってしまうと重荷になる。
ならば常に失うことを怖れずに好き勝手に生きるのも一つの生き方だろう。

まぁ、そんな父を持った息子には災難かもしれないが。

それにしてもおもしろいなぁ、この伊藤たかみという作者の表現は。

思わずそうなのかなぁ、と思えてしまうし現にそうなのかもしれないと思えるところしばしば。

それを主人公の”はとこ”の歩美に語らせる。

子供が母親似なら昔一度は好きになったという遺伝子を引き継いでいるはず。だから母親似なら父親が好きになる要素をたっぷり持っているはず、という理屈。ほーんなるほど、などと思ってしまう。

「不在という名の存在」これはこの本を読まなければわからないかもしれない。
それを聞いて主人公も、んなわけあるか、と思いながらも案外そうかもな、と思えるところはあたりで主人公の意識が読者に伝播するのである。

北海道は時間がゆっくりとながれているのかもしれない。
北海道は距離感がつかめない。
そうなのかもしれないなぁ、と。

”はとこ”どころかこの主人公の男性も父はホームレスになっているのかもしれないと言われた時に、「今なら親父のことが好きになれそうな気がして来た」というあたり相当な変わり者か。

北海道の人が本州を「ナイチ」と呼ぶあたりに「そうだったのか」などと思ってしまうが、この舞台の大半にあたる紋別や遠軽というところから見れば、距離的にはロシアの方がはるかに近い。

かつて父親が渡った北海道から本州へと海峡を渡ることの重み。
本のタイトルである 『海峡の南』 という言葉の意味を何度も想起させてくれる本だった。

海峡の南  伊藤たかみ 著



瘡瘢旅行(そうはんりょこう) 


この作者、この本を読むまでは存じ上げなかった。
なんとも文体というか表現の仕方が古めかしい印象を持ったので、さぞかしお歳を召した方なのだろうとばかり思っていたが、巻末の略歴では1967年生まれ、とある。
40過ぎの方であった。

その文章表現から発せられる、古めかしい人のイメージの源泉は一体何が源泉だったのだろう。
この本には、「廃疾かかえて」、「瘡瘢旅行」、「膿汁の流れ」という三部が納められている。
本のタイトルでもある「瘡瘢旅行」の中で主人公は藤澤清造という大正時代の私小説家の虜となり、その作家の書いたものなら如何なるものでも収集しようという、熱烈な収集家である。

そんな大正時代の私小説家を師と仰ぐのは主人公だけではないだろう。
私小説家を師と仰ぐ主人公を描く以上、作者そのものも私小説家なのだろうし、主人公は作者そのもののデフォルメなのだろう。

それにしても救いようのない男が登場する。

DV(Domestic Violence:ドメスティック・バイオレンス)という言葉、今では誰でも知っている言葉になりつつあるが、こんなに一般的な言葉になったのはいつごろからだろう。
夫が妻に暴力をふるうなどという行為、許されるものではないだろうが、そのようなことは江戸時代だって平安時代だって、そういう家庭はあっただろう。

「DV」という言葉が定着したのはこの10年ぐらいの間ではないか、と思うがいかがだろう。
統計資料などではここ数年で急増したかの如く言われること、しばしばだが、果たしてどうなのだろう。
そんな話まともに扱ってもらえなかった。
もしくは家庭の恥をさらしたくなかった・・種々の要因が考えられるが、昔からあったが表面化しなかった、社会問題の一つとして取り上げられるようになってはじめて、表に出て来たというのが実情なのではないだろうか。
別に江戸時代まで遡ることもないだろう。
明治、大正、昭和の戦後しばらくあたりであっても都会か地方かの差はあれ、離婚率の低かった時代なら妻という存在、亭主を尻に敷くまでは、嫁という立場の存在はどれだけ理不尽な思いをしても、それが暴力だったとしても、誰にも文句を言う事もなく耐えていたのかもしれない。

今や、DVの被害者には男性が急増しているという話もある。
なんじゃそりゃ、と言いたくもなるが、まぁ時代は明らかに変わりつつあるのだから、それしきのこと、驚くには値しない。

話を本に戻すと、三部作とも同じような主人公が登場する。普段は妻に対して優しいが、いざキレると暴力をふるう。酒に酔えば暴力を振るう。
ところがしらふに戻る、もしくは冷静に戻ると妻へ詫びを入れ、尚更優しくしようとする。
外では気が弱いが、家の中で酒が入ると大口をたたく。
なんだか世に聞くDV亭主の典型じゃないか。
妻は妻で詫びを入れられ、優しくされると、その暴力を許してしまう、なんだかこれも世に聞くDV被害妻の典型じゃないか。

主人公は性犯罪を犯して監獄に入れられた父を持つ。
それがあるだけにとことん行く前には一応自制が効いている。

なんなんだろう。
こういうのが今時の私小説なのだろうか。

檀一雄は家庭を崩壊させたかもしれないが、その人(主人公)には愛着を持つことが出来た。
ポルトガルのサンタ・クルスで人気ものになる彼を羨ましかったし、ポルトガルを大好きにさえしてくれた。
今東光にしったて「十二階崩壊」をはじめはちゃめちゃでありながら、男としての憧れを抱かせてくれた覚えがある。

この平成の私小説家からどんな憧れを若者に見いだせというのだろう。

と、貶してしまっているが、この本はたまたま新聞の書評欄で見つけて出会うことになったのだが、これが大正時代の作家が書いたものなのだ、となれば案外違った感想になったかもしれない。
もちろん大正時代に新幹線は無いのでそのあたりはかなり差し引かなければならないが・・。