月別アーカイブ: 9月 2011



深海魚チルドレン


授業時間の50分さえ持たないぐらいにおしっこへ行きたくなる。
一日の授業時間の合い間の休憩時間には必ずトイレに行っているというのに、それでもなお、授業時間が持たない。
別に勉強が嫌いなわけでもなんでもないのに、ギリギリまで我慢して保健室へ行って来ます、と言ってトイレへ駆け込む。

そんな女子中学生のお話。

授業中以外の時間はそんなことにはならない。
一日中家に居る日には数回のトイレで済む。
入ったばかりの学校でそんな状態なので、休み時間に誰と口を聞くわけでもなく、自然と友達は居なくなる。

彼女の母親はおおらかな性格というのか、無頓着というのか、外交的な性格なだけに娘の悩みが理解出来ない。

彼女にすれば重大な悩みなのに、 「気のせいよ」 の一言で片づけられてはあまりにも可哀そうだ。
明らかに心因性の頻尿なので、しかるべき治療を受けるべきところだろうに。

浅い海に棲む魚は、彼女の母親のように明るく外交的で活発に動き、仲間と群れるが、深海に棲む魚は、重い水圧の中でも耐えられるが、あまり群れず、明るいところよりも暗いところで辛抱できる。

作者の河合二湖さん、現在図書館勤務と巻末の略歴にある。
図書館の司書さんって、たまに来た本を貸し出しの子に「はい、どうぞ」とスタンプを押すだけで、日がな本に囲まれて好きなだけ好きな本を読みたいだけ読んで・・・なんて素晴らしい、なんて羨ましい職業なのだろう、と勝手に想像で思っていた頃があった。
そんな職業なら仕事中に読書ところか小説まで書けてしまうのではないかと思っていた頃があった。
が、実際の図書館の司書さんを観ていてるとその素晴らしいは消え去った。
あれほどハードな仕事をしながら業務時間中に本を読むなんて有りえない。
もちろん公立か私立か、図書館の規模や運営方針によって実態は様々なのだろうが、政令指定都市の市立図書館なんてまるで物流センターの如くだ。
オンラインで入った予約を元にX区のXX図書館からの搬送業務の一員みたいに。
業後には一部の心無い人がした落書きを消したり破れてしまった箇所を修復していたり・・・本を愛する人たちならではの作業である。
最も驚いたのが、彼女ら、いや彼らか、の大半は非正規雇用の方々だったことだろうか。

漫画家志望の子なら好きなことをやってんだから低賃金でいいだろ、と同じ感覚で「本が好きなら非正規雇用社員だろうが、本に囲まれているだけで幸せなんだろ」みたいな雇用側の傲慢さを感じてしまう。
それが市立なら雇用しているのは我々市民ということになってしまうのだろうか。

合い間が長くなったが、そんな司書さんが書いた本なら応援したいな、と言う気持ちが大いにある。

この本を河合二湖さんが執筆中にまさにあの震災が起きてしまった。

本人が「あとがき」に書いている。
「多くのものを失い、傷つき、真っ暗な闇の中にしかいるようにしか思えないときも、どうか、しっかり目を開けていてください。底にいたからこそ見つけられる宝物が、必ずありますから」
と被災者と「深海」を結びつけてしまっているが、なんか違うんじゃないかなぁ。
明るいところに棲む魚はそのように生き、暗い深海が好きな魚がは暗い処、人にはそれぞれの道、生き方があって暗い深海から希望の光が見えたりするが、それは被災者にも主人公にも当てはまるのだろうか。
多くのものを失って、傷ついたかもしれないが、真っ暗な闇の中なんかにとどまっているよりも寧ろ、国が動かないなら、と自らの力で出来得る限りの復興をしようとなさっておられる被災者の方々は少なくとも深海ではないだろう。

主人公も暗い処のままいるのか、暗い処から光を見出すのかの選択肢の前に、本当に彼女は暗い処が棲みがなのかが疑問になる。
確かに人にはそれぞれの個性に合った生き方というものが有り、なんでもかんでも外交的で明るくなければならないものでも無いだろう。
勉強好きは勉強好きなりの。音楽好きは音楽好きなりの。スポーツ好きはスポーツ好きなりの。読書好きは読書好きなりの・・・。それぞれの生き方があってしかるべき。
まだ、ほんの中学一年生だ。
何がきっかけで大化けするかどうかもまだまだわからない。
それどころか、心因性のものも放置すれば、もっと大変なことになるかもしれない。
どんな生き方を選ぶのかの前にしかるべき治療をした方がいいのではないか、と思えてならない。

深海魚チルドレン 河合二湖 著



はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか


近未来を扱った短編四篇。

◎「深海のEEL」
駿河湾で突然獲れた巨大ウナギにとんでもない量のレアメタルが含まれていて、という資源問題から、最近話題の尖閣問題までが盛り込まれている小編。

日本近海の深海にはイラク一国の石油埋蔵量をはるかに超えるメタンハイドレートなどの天然資源があるのだ、とどこかで聞いた話を思い出してしまった。

それともう一つ。
ウナギの天然卵を世界で初めて、ハワイ沖だったかグアム沖だったかで採集することに成功した、というニュースを聞いたのは今年ではなかっただろうか。

何かそんな直近の話題を思い起こしながら読んでいると、なんだか半分実話じゃないのか、なんて錯覚を起こさせてくれる話。

◎「豚と人骨」
遺産相続した土地をマンションに、とマンションを建設しはじめたら、その地下から大量の人骨が出て来て・・・。
すわ、大量殺人事件か!いやいやそんな話じゃない。
縄文時代の人骨なのだが、何故そんなところに大量に・・という謎と奇妙な時代を超える寄生虫の話なのだが、そんなことよりも家を建てようとして、その地下から遺跡が出てきてしまうとどんな目に会うのだろう、とそっちの方に興味を注がれてしまった。

元近鉄バッファローズの梨田選手、現日ハム監督がかつて家を建てようとした時に、その地下から遺跡が出て来てしまったという話を思い出してしまった。

◎「はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか」
高性能のストーカーロボットに追いかけられる女性。
実はこのロボット、「ボノボ」という熱帯に生息し、生殖行動が人類に近いと言われるサルを姿は全く模していないが思考、行動を限りなく模したロボットだった。

村上龍の近未来小説の「歌うクジラ」の中には、人類がボノボの真似をするというシーンがあったのを思い出した。

ボノボって流行りなのか?

◎「エデン」
この小編がなんと言っても圧巻だ。
本のタイトルになっている「はぐれ猿は・・」よりもはるかにインパクトがある。

日本へ帰国したら、禅宗の雲水になってひたすら修行の道が待っている。
その日本への帰国間近のパーティで、大麻を吸ってしまった青年。
オトリ捜査でパーティ会場に居た連中が次々と警察に引っ張られて行く。

警察に捕まったとしてもアジアのどこかの国のように死刑になったりと、とんでもないことにはならないだろうが、簡単に領事館に連絡を取って釈放というわけにもいかないだろう。

そんな時に救いの手を差し伸べてくれた女性の車に乗ってしまったのが運のつき。
厳寒の雪の平原を何時間もぶっ飛ばして到着した集落で、いきなり彼女の父から彼女との結婚を迫られる。

厳寒の地で逃げ場はどこにも無い。
当たり前の如くに強要された作業。
2050年に完成させるトンネル工事だ。
酒もコーヒーも無ければ、テレビも電話も無い。
外の世界から切り離された世界。

地球の裏側で起こっていることを知って何の意味がある?
大地震があった。干ばつがあった。テロリストが事件を起こした・・・。
どんなニュースも我々に何の希望も与えてこれやしない。

彼女の父でもあり、その集落を率いる存在でもある男が言う。

そうなのだ。一昔前の、情報というものがその村落の中だけで閉じていた世界へとやって来てしまったのだ。

果たして近未来小説なのか。
最後、やはり近未来なのだ、と実感させられるが、何不自由の無いと思っていた世界が果たして幸せだったのか、という大いなる命題を突きつけてくる。
そんな小編でした。

はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか 篠田節子 著 文芸春秋<br />”  width=”62″ height=”90″></P></p>
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一刀斎夢録


時は明治がまさに終わり、新しい時代である大正へと移らんとしている。

天然理心流を極めた剣士でもある近衛将校の主人公に明治天皇の御大喪として八日間もの休みが与えられる。

その休みの間、夜毎通い続け、酒を傾けながら明け方まで話を聞きに行った先がなんと、往年の新選組副長助勤、三番組組長斉藤一。

そう。この話、ほとんど斉藤一の一人語りなのだ。
ひょうきんで明るいと一般には言われる沖田と対比され、無口で薄気味が悪いとされる斉藤一が語る、語る。
数年前に壬生義士伝が映画化された時、斉藤一を佐藤浩市演じているのに、さほど違和感が無かったのだが、よくよく考えてみるに斉藤一は若いイメージのある沖田よりさらに若く、新撰組に在籍していたのは20~25才ぐらい。今で言うとさしずめ大学生から社会人1~2年生といった年齢だ。
佐藤浩市じゃ少々歳が行きすぎているはずなのだが、この斉藤というあまりに際立ったこの人をそんじょそこらの若手俳優が演じられるはずがない。

もっとも斉藤に言わせれば、沖田こそ人を斬るために生まれて来た男ということになるのだが・・。
斉藤はことあるごとに人間みな単なる糞袋じゃねーか。と言う。
壬生義士伝の中でも坂本龍馬を暗殺したのは実は斉藤一だった、みたいなことがさらりと触れられていたが、この話の中ではもはや確信的だ。
浅田次郎は絶対にそう確信しているのだろう。
薩長連合の橋渡しをしたばかりか、大政奉還までも成し遂げ、国内での戦を回避させようとする龍馬は長州にとっても薩摩にとっても、もはや除外せざるを得ない存在だったのだろう。

西郷は血の雨を降らさなければ、新しい時代にはならないという考えで、鳥羽伏見はおろか、戊辰戦争を終えて後でさえ、まだ血の量は足りなかった。この浅田説によれば、西南戦争は西郷と大久保利通の図り事であったのだという。

士農工商はこれで終わりね、といきなり言われたってそう簡単に人間変われるもんじゃない。
御大将自らが壮絶に討ち死にすることで、世の不平士族を黙らせ、国軍を国軍たらしめる、そのために西郷と大久保は、壮大な画を描いた。

おそらく西郷蜂起の一報よりも派兵決定の日が先だったり、というのはこの話の中の作り話ではないだろう。
確かに不平士族を黙らせるための征韓論なんていうのもあまりにお粗末だ。

そんななぁと思いつつも、だんだんとなるほどそうだったのかも、と読者に思わせてしまう。
特に西南戦争の真っただ中で今度は官軍側の抜刀隊として斬って斬って斬りまくった斉藤一が、戦というものを熟知する男である斉藤一が語ったのであれば、尚更である。
そういうところが浅田次郎の新鮮さなのだ。

浅田次郎はこれまで人が散々書いて来た題材を扱う時、必ずや自分ならではの視点を持って来る。

大政を奉還したって日本最大の大大名であることに変わりはない徳川が何故いとも容易く、恭順の意を示してしまったのか。
勤皇の空気が漲る水戸出身の将軍が最後の将軍になったから。
そしてそれを実現させたのが、薩摩出身で大奥へ入り、大奥を牛耳る存在にまでなった天璋院。天璋院を動かすべく画策したのは西郷だという。

なるほど、なるほど。

読めば読むほどに目からうろこ。
まことに面白い。

上・下巻通しで結構の分厚さの本でありながら、一気に読まされてしまった。

斉藤一は言う。

始末に負えぬ将には三つの形がある、と。
己の功をあせる者、死に急ぐ者、思慮の足らぬ者。

その将の典型が203高地の乃木将軍だったと。
そしてその真逆が西郷隆盛であり、土方歳三だったのだろう。

斉藤からすれば乃木将軍でさえ年下なのだ。
殉死にあたって言い訳を書き残すやつがあるか。
後の始末をせねばならん妻までも道連れにしてどうする。
なかなかに手厳しい。

方や五稜郭を土方一人が御大将であったなら、永久に陥落しなかったであろうと、斉藤は言う。
その後の軍隊が乃木将軍を軍神と崇めてしまったところが昭和の軍人の不幸だろうか。
開戦から敗戦に至るまで、思慮も足らない、命を大切にしない将校が日本をあの無残な敗戦に追いやったのかもしれない。

そんな斉藤が百年後のこの日本を見たらどう言うのだろう。

たぶん、同じことを言うのだろう。
どいつもこいつも糞袋ばかりじゃわい、と。

一刀斎夢録  浅田次郎 著 文藝春秋