なずな


「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」などとよく言われる。
赤ちゃんから3歳までのあの可愛らしさ。
その可愛い笑顔をみてどれだけの元気をもらえることか。
その笑顔をみただけで親はどれだけ幸せになることか。
だから、そんな幸せな期間を味あわせてもらった親は一生分の孝行をもらったようなものなのだ、ということなのだが、その3年間の中でも幸せでありながらも最も辛い時期というものもある。
産まれてから3カ月までの間というのは、まだ笑顔という表情を作ることも出来ないし、昼間も夜中も、やれおっぱいだ、やれおしっこだ、やれうんちだ、とに何度も何度も起こされ、初めての親には一番しんどい時期である。

この本の主人公、そんな最も大変な時期だけを任されたという感がある。

弟夫婦のところに産まれた赤ちゃん。
産まれた後すぐ、旅行代理店にて海外を飛び回っている弟が海外で交通事故に遭い、重傷でしばらくの間帰国出来ない。
時を同じくして弟の妻は感染性の病に罹ってしまい、こちらも入院。
こちらの入院は弟に比べればさほど遠くの場所でもないのだが、赤ちゃんに感染させるわけにはいかないので、会うこともままならない。
そうして、子育てはおろか、結婚をしたこともない四十男が赤ん坊を預かることになる。

通常の会社勤めならまず不可能なところ、彼の仕事は小さな地方新聞の記者。
タブロイド版の新聞で発行は二日に一回。ともなれば果たしてそれは新聞社と呼べるものなのか、新聞記者と呼べるものなのか、とも思ってしまうがそれはさておき、この本では記者と呼ばれている。
その記者の仕事を在宅勤務でさせてもらうことでなんとか預かってはいるが、夫婦二人でも大変な乳飲み子の時期を男手ひとつでというのはなかなか出来るものではない。

正確な生後何カ月~何カ月までという記述があったわけではないが、生後2ヶ月と話すところとその後生後3ヶ月と話すところが有ったので、おそらく生後2ヶ月前から3ヶ月すぎの一か月以上の期間は間違いなく手元に居たのだろう。

そこまで入れ込んでしまうとあとあと手放す時が辛いだろうに、と読者が心配してしまうほどに、主人公氏はこの赤ん坊「なずな」の面倒をみ、愛おしく可愛がる。

たかだか一ヶ月強のために愛車シビックを廃車にしてチャイルドシートの取りつけ可能なアコードに買い替えたり。
自分のお気に入りのベビーカーを購入したり。

この本、育児を体験した人には懐かしさを覚えるだろうが、ただ、これだけ長編にする必要があったのだろうか、と思えなくもない。
読んでいて、少々間延びし過ぎじゃないのか、と、少々退屈に思える読者もさぞかし居たのではないだろうか。

こちらも中盤まではそんな気にさせられたが、だんだんとその退屈さにも慣れてしまったのだろうか、中盤以降は面白く読めた。

この本、育児日記であると同時に、地方紙の記者ならではで、このとある地方都市のそのまた限られた一角の地域日記でもあったりする。

赤ちゃんが居ると、その周辺は赤ちゃんを中心に廻るようになる。

赤ちゃんを連れているだけで、これまででは想像もできないほどに人の輪が拡がる。

そりゃ四十男が一人暮らしをして居たってろくすっぽ近所付き合いもないだろうが、赤ちゃんがいると、何かと話しかけられやすくなるだろう。

そんなリアリティがいくつもあるこの話。
この著者はたぶん実体験したんだろうな、と思わずにはいられない。

なずな 堀江敏幸著 集英社