読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



ちりかんすずらん 


父方の祖母と母と娘の3人暮らし。
父親はコロンビア女性と7年前に出奔し、母とは離婚し、現在コロンビアで新たな家庭を持ち、そんな父でありながら、父方の祖母と母が共に暮している。
妙な組み合わせのようで、この3人、相性がいいのだ。

タイトルの「ちりかんすずらん」。
「ちりかん」とはもちろん「地理感」のことも「塵缶」のことでもない。
日本舞踊でもしている人間が身近にいない限り、見たことのある人は少ないのではなかろうか。
かんざしの種類の中の一つで先の金物が当たりあってちりちり音のするもので、その音を小さな鈴にさせるものもある。
何を隠そう、身近に日本舞踊を習っていた人がいたことがあるので、小生はお目にかかったことはあるが、和服を着ている人をみかけても、このちりかんにはそうそうはお目にかかれない。
祇園の舞妓さんあたりならしているのかもしれないが、小生、そういう場への縁もゆかりもないのは少々残念である。
いや、小生が知らないだけで案外、成人式の時の和服女性はしていることがあるのかもしれないな。
「ちりかん」に「すずらん」がついているということはちりかんそのものが「すずらん」の花の形をしているものなのだろう。
そんな日本舞踊でもしない限り身に付けないものをプレゼントに贈る男というのはどんな神経の持ち主なのか。
いやはや、さほど重要に考えるものでもないわな。
モンゴルへ行って先の尖がった帽子を土産に買って来る輩もいるのだから。
どうやって、どこへ行くのに被ればいいんじゃい!などともらう立場などはお構いなしである。

てなこんなでタイトルの「ちりかんすずらん」はさほどストーリーには関係ない。
それを贈った男と不憫なすずお姉さん(実際には主人公母の妹なので叔母にあたるのだが年齢的にはお姉さん)の話が出だしで始まり、同じ主人公達による、小編がいくつか。
ただ、この作者は「すずらん」が好きなのかも、と思い当たるのは、すんなり読み飛ばしてしまうような箇所、例えば四編目の「赤と青」のなかにさりげなく、すずらんの花に似る風鈴がちりちりと鳴る風情が織り込まれていたりすることで窺がえる。

なんだか、とてもいい一家を見せてもらった気分になる作品だ。
お祖母ちゃんにしても夕方のある時間になると、ビールにするかい?と飲み始めるあたり、なんとも居心地の良さそうな雰囲気が出ていることこの上ない。

本来なら妻子を捨てて海外へ飛び出した男、という辛い立場のはずの父も平気で電話して来て家族の安否を尋ねるなどは、この一家ならではだろう。
フットマッサージ店をチェーン化しようという事業家の母は、この一家では父的な存在で、いつでも家を守る祖母が母的な存在だからなのだろうか。本当の父の出奔に戸惑った様子がない。
寧ろその方が自然だったみたいな。

話のそれぞれに家庭の温もりが伝わって来るのは、ストーリーのせいだけではないのだろう。
この作者、食べ物のことをとても大事に書いている気がする。

「ホオシチュー」という料理そのものが主題の小編はさておき、

・イカの身は箸をあてただけでほろりと割れ、ワタには滋味がある。

・冬瓜を薄味で煮含め鶏そぼろあんかけをかけたものと、・・牛肉とごぼうの時雨煮を出し・・。

・ふろふき大根をことこと煮ながらワインをちびちびやり、残り物のひじきの煮付けを入れた卵焼きと常備薬のしらたきのタラコ和えをつまんで・・・

本題のストーリーとは関係なく、至るところにこういう美味しそうな家庭の味を表現したくだりが全くさりげなく織り交ぜられている。
安達千夏さんという方、かつて芥川賞の候補作品を書いたということ以外には全く存じ上げないので、料理を作るのが上手な人なのかどうなのかなどは知る由もないが、祖母が作るような料理を大事に大事に思っておられる方だということが伝わって来、それが温かい家庭、家族を表現する上での何よりの味付けになっているのではないか、などと勝手に思っている次第である。

そんなこんなもありながらもやはり感想として、ついつい思ってしまうのはこの父親の存在か。
何のトラブルもなく、妻と娘を放って、コロンビア女性と家庭を持ち、コロンビアでは、妻と5人の娘を持ちつつも、長女である日本の娘(主人公)の結婚式前日に置き場所が無いほどの100本の赤いバラをお祝いのプレゼントとして送りつける父。

それで娘が嫁ぐから涙声だって?こんなにめでたく幸せな男はそうそういないだろう。

ちりかんすずらん(祥伝社)安達千夏 著



乙女の密告 


乙女なんていう言葉、久しびりに聞いた気がする。
ピアノを習ったら必ず弾かされると言われる「乙女の祈り」以来ではないだろうか。

京都の外国語大学、女子大とは目指す志しが違うと言いながら、教授は学生を「乙女」と言い、実際に男子学生は登場しない。
卒業せずに留年した四回生は○子様と様付きで呼ばれる。
ファーストネームで呼び合うのがルールの大学にあって、留年上級生を呼び捨てにはなかなかしづらいので、ファーストネーム+様で呼ぶのだという。

その大学では毎年ドイツ語のスピーチコンテストに出場することになっており、そのゼミの担当がバッハマン教授という人。
なんとなくではあるが地震学者のゲラー博士を連想してしまった。
このバッハマンという人の個性が強く、いつもアンゲリカ人形という少女が持つような人形を抱えて、話しかけるという変わり者。

話の主題は「アンネの日記」。
ナチス・ドイツ占領下にあって、ナチスのユダヤ人狩りの中、息をひそめて隠れ住む少女の残した日記として世界的なベストセラーのこの本の原文を暗記してスピーチコンテストで暗唱せよとバッハマン教授は学生に命じる。
日本人はアンネ・フランクをロマンチックな悲劇のヒロインとしてしか見ていないが、原題「ヘト アハテルハイス」を読みこめば読み込むほどにユダヤ人のアイデンティティとは?という命題に突き当たる。
ユダヤ人はどこの国の国籍を取得したとしてもどこの国の言葉でで語っていようと、ユダヤ人であるという自己は国籍とは同化しない。
「乙女」という曖昧模糊とした定義の存在と第二次大戦中の「ユダヤ人」という存在を重ねわせて構築された物語で少々戯画的でありながら主題は重たい、という変わった作品である。

この本は2010年上半期の芥川賞受賞作。

文芸春秋の9月号に芥川賞選者達の選評が掲載されるていた。
今回の選者評は面白い。選者方の評価が見事に真っ二つ。真逆なのである。

この本を推挙しなかった側の意見をいくつか。
石原慎太郎氏は毎度のことながら辛口な評で作品を嘆く。
そう、毎度まいど日本文学の衰退を嘆くだけのワンパターンではもはや評とは言えない。
石原氏個人については決して嫌いでは無い。。
政治的な信条やら、自治体の首長としてのご活躍など寧ろ尊敬申し上げるほどである。

ただ、知事職だけでも大概ご多忙だろうに、日本文学の衰退を嘆くために何作も何作も毎度読まされる仕事など健康衛生上もよろしく無かろうし、そんな仕事などご辞退なさって後進に道を譲られたらいかがなのだろうか。
その方が選ばれる方も幸せだろう。

村上龍氏はアンネ・フランクのユダヤ人としてのアイデンティティに関して主人公が独自の解釈を行い、おそらくユダヤ人と思われる教授がそれを肯定してしまう、そういう誤解を生むかもしれない書き方に違和感を感じ、作品そのものにも感情移入出来なかった、と書いておられる。
感情移入が出来ないという意味では全く同感である。そんなものが出来る類の作品ではそもそもないだろう。

高樹のぶ子氏は生死のかかったアンネの世界に比べて、女の園の出来事が趣味的遊戯的なところに違和感を感じられたと述べ、
宮本輝氏は隠れ部屋で息をひそめるアンネの居場所を密告したのはほかならぬアンネ自身だったという運びに憤りを感じておられる。

方や推挙する側は真逆でベタ褒めなのだ。
登場人物を大好きだ、みたいなもはや選評ともいえないことを書いている人も居れば、すごい深読みに驚かされる方も居られる。
「乙女」という非現実的な言葉に「密告」という重い言葉をつなぐことで内容を見事に要約している、という褒め言葉もあった。

本当に要約しているのか?

大先生方はタイトルからして読み方が違うのだなぁ。

主人公の名前が「みか子」という名前に漢字さえもらえないのは、話を導く者を自信の無い影の薄い存在にしたかった計算だろう、などと主人公の命名にまで意味を見いだして評価する、本を書いた人よりそこまで深読み出来る才能に驚いてしまう。

今回の選者評はいつもに比べると長文が多いように見受けられた。

どう読むのかは人それぞれだろうが、選者達にそれだけ長い評を書かせたというだけでも話題作になる値打ちがあるということなのだろう、と勝手に解釈した。

印象に残ったフレーズはこれか。

「ユダヤ人とは、ユダヤ人であるという運命を自ら引き受ける者だ」



ブルー・セーター


幼い頃、もしくは少年少女時代に、
「世界をもっと素晴らしく!」
「世界を変えてみたい!」
「世界から貧困を無くそう!」
なーんてことを思ったことのある人は結構いるんじゃないのかなぁ。
それでもそんな気持ちを成人して大人になってもずっと持ち続けて、それを実践しようとする人、となるとそうそうざらにはいないだろう。

著者は学生時代に気に入って着ていた青いセーターをアメリカのバージニアのリサイクルショップで出すのだが、その後そのセーターはどこをどう辿っていったのか、10年後、著者がアフリカのルワンダを歩いていた時に少年が来ている青いセーターと再開する。

この「ブルー・セーター」というタイトルはそこから来ている。
そのセーターを見た著者は世界は繋がっている、と実感する。

この本は「世界を変える!」という気持ちを持ち続け、それを実践し続けて来た一人の女性のドキュメンタリーである。

著者は大学を卒業した後にチェースマンハッタンへ就職するのだが、「世界を変える」を捨て切れず、単身アフリカへ渡る。

著者の持論は、無責任な慈善と言う名の援助が最も悪い、という事。
その考え方は、『傲慢な援助』(ウィリアム・イースタリー 著 東洋経済新報社刊)と相通ずるものがある。
『傲慢な援助』では、「プランナー」と「サーチャー」二つの立場を説明し、机上でプランを立てるだけの無責任な援助計画を批難している。

論点は似ている。
だが、ジャクリーン・ノヴォグラッツさんは述べる人ではないのだ。
行動する人なのだ。
この人は実際に現地へ行って、現地の人と共に今後、自立し、自尊心を持ってメシが食える道を模索する。

初就職が銀行だけあってか、その手法は女性向けのマイクロファイナンスというという最貧層の女性への貸付を行うことからスタートする。
それはあくまでも貸付であって、資金援助ではない。
だからあくまでも返済されるべきお金として取り扱う。

最初に彼女が実務として手掛けたのがルワンダでのマイクロファイナンス。
それを立ち上げつつ、ルワンダ女性が何か起業出来ないか、と製パンを行う女性たちを教育し、ルワンダ女性によるベーカリーの店のオープンまでこぎつける。

このあたりを読んでいる時には、かなり押し付けがましくも見えないこともないなぁ、という感想が頭をよぎる。
彼女にしてみればまさに孤軍奮闘。獅子奮迅の活躍なのだが、押し付けがましくという表現を用いたのは、やはり各地域地域にはそれなりの伝統、文化というものがあり、彼女がそれはおかしい!と激怒しながら邁進して行く姿は、戦後アメリカ式民主主義を押し付けた占領軍を彷彿させられてしまった面があるからかもしれない。

彼女が忌み嫌う、役人、警察、軍隊の賄賂など当たり前の国がまだまだ世界にはわんさとあるのだ。
男性と女性の関係にしたって各国の文化や風習によって各々まちまちのはず。
どの国もアメりカのように女性が男性と同等に扱われるべき、などという考えはまさに押し付けだろう。

それそのものを一つ一つ潔癖にダメの烙印を押して自分を通し過ぎても無理は出るだろう。
ある国では車で移動すれば、各所各所で地元軍隊に止められて、パスポートの提示を求められ、なかなか思うように移動出来なかったり、という場面に遭遇した人は多いだろう。そんな時にほんのわずかな小銭を掴ませるだけで、すいすいと通してもらえる。
それは効率を考えればどうしてもそうなる。
そこで、それはおかしいだろう、と我を通してみたところで、時間が無駄になるだけなのだ。

ベーカリーにしても彼女はルワンダ女性たちにセールスへ行くように指導するがなかなか進まない。
何故か?彼女は問う。
「女性は見ず知らずの人に物を買ってくれ、とは言わないものです」
との答えの更に何故?彼女は問う。
「失礼にあたるからです」
こんなやり取りなどはまさに、彼女達のお国の文化なのであって、そこへアメリカ式のビジネスウーマンスタイルを持ち込んで、さぁやれ、とばかりにはっぱをかけるのは、少々勇み足では無かろうか、などと読んでしまう。

ともあれ、ベーカリーは軌道に乗り、それまで、日がな寄付という名の援助を待っていただけの女性達が自ら稼ぐ、ということの魅力を知ることになるのだから、やはり軍配は彼女に上がったということなのだろう。

彼女がルワンダを去った後に、あのルワンダ紛争、いや紛争というよりフツ族によるツチ族へのジェノサイドが行われる。
人口800万の国で100日で80万人が虐殺されるという、とてつもない大事件が起こってしまうのだ。

それでも彼女は立ち止まらない。
とにかく動き続ける人である。

むやみな援助は返って人をダメにする。
製粉業を行え、となかりに製粉機を押し付ける援助プロジェクト。
製粉機があったって、使い方を知らなければ何もならない。
メンテナンスの仕方がわからなければ、わずかな期間で故障と思いこんで使わなくなる。
オイルが切れただけでももう機械はゴミになっている。

善意のお金は学校は建てても、そこで腰を据えてものを教える教師までは育て無かった。その結果、学校は空虚な箱として残るだけとなる。

そんな援助が彼らをダメにするんだ、と。
まさしくその表現があたっているのだろう。

人は貧しい人のために何か自分でも出来ること、という名の下の施しを行おうとするが、その善意の施しが返って世界の貧富の差を拡大する。
彼女が最終的に辿りついた、アキュメン・ファンドは施しでは無い。ビジネスを創設させるための社会投資型ファンドである。

幼い頃に「世界を変えたい」と思い、25歳でアフリカへ渡り、ルワンダでマイクロファイナンスを軌道に乗せた、初の女性ベーカリーを軌道に乗せた、と言っても、彼女は挫折の連続である。
コートジュボワールではアメリカの小娘に用は無いとばかりの扱いを受け、最後は脅しの毒までもられてしまう。
援助プログラムについて、こんな無駄がある、という類の報告書は提出した役人に捨てられてしまう。
そして、唯一成功と言えたルワンダが、ジェノサイドによって無茶苦茶になってしまう。
ベーカリーの女性は全員、殺されたのだとか。
それでも、その後20年を経ても尚その志を変えない。

まさに不屈の人である。

ブルー・セーター<引き裂かれた世界をつなぐ起業家たちの物語>ジャクリーン・ノヴォグラッツ(Jacqueline Novogratz)著 北村 陽子 (翻訳)