読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



バターサンドの夜 


児童文学新人賞受賞とあるが、果たしてこれは児童文学という範疇に入るのだろうか。

中学生の女の子が主人公。
それもたぶん中学一年生じゃないのか。
発育がいいせいか、見た目は高校生か。
考え方や発想などはあまりにもしっかりとしていて、そこらの高校生や大学生より上かもしれない。

それでもアニメの主人公に憧れるあたりは年相応か。
ロシア革命を舞台としたアニメらしくその登場人物にあこがれ、そのコスチュームを着てみたい、と。
その題名は「氷上のテーゼ」。

モデルをやってみない?
と声をかけられるがまるで相手にしない。
そりゃそうだろう。
声をかけたのが、場末の町の商店街の本屋の中。
しかも声をかけた相手が読んでいたのは「ロシア10月革命」。
乗って来ると思う方がおかしい。

声をかけたのは同じくその場末の商店街のつぶれかけた洋品店の娘で大人の女性。
亡くなった父母の跡を継いでしまったはいいが、その店で物が売れるわけも無し。
ネットショップをたちあげて、自前のオリジナルブランドを広めようという腹積もり。
そのネットショップのモデルを探していたわけだ。

その女性との掛け合いも面白いが、この本のテーマは、もっと別のところか。

中学生の女の子の他人との距離の取り方。
女の子というのは中学生の時からそんな面倒くさい人付き合いを気にしながら生きるものなのか。
クラスにはいくつかのグループが出来あがっていて、クラスの中の子は誰しもどれかのグループに属さなければ浮いてしまうような。
お昼ごはん一つとったって誰だれと一緒に食べるかどうか、どのグループに入っているのかだとかがそんな重大事なのか。
政治家の派閥じゃなるまいに。

同年代の男たちには到底理解の範囲外だろう。

この主人公の女の子はそういう面倒な付き合いから、一歩身を引いたところで生きたいと思っている、つまりは本来ならごく一般的な思考回路の持ち主だと言うことなのだろうに。

ただ、一歩引いた先がアニメのコスプレというところがまたユニークだ。
結局、他人と何か一線を引いてしまう人は何かのオタクでなければならないのだろうか。
結局そういう世界が好きだから、逆に一歩引けることが出来るのだろうか。

ブランド造りの大人の女性は彼女をいっぱしの存在としてちゃんと認めてくれている。
周囲の女子中学生よりやっぱりこの子の方がはるかにまともなんだろう。

バターサンドの夜  河合二湖 著 講談社児童文学新人賞受賞



床屋さんへちょっと 


「やっとるかね」

それが先代の社長の口癖。
職人で中卒で一から菓子メーカーを築いた先代。

後を継いだ宍倉勲はたったの15年で会社を倒産させてしまう。
二代目として後を継いだ後も先代を慕う社員が多く、一度も会ったことのない若い社員までもがその「やっとるかね」 の口真似が口をついて出てしまうほどに先代の存在は大きかった。

オイルショックの影響があったとはいえ、誰しも二代目と先代との経営者としての才の差だと感じたことだろう。

いくつかの章立てで仕上がっている本で、各章は年代順ではない。
寧ろ年代を遡って行く。

冒頭の賞を読み始めた際には年老いた頑固オヤジと出来の悪い娘の話か、と思ってしまったが、そんな思いはだんだんと吹っ飛んで行く。

章を重ねる毎に宍倉勲という人の人生に対する誠実さがあらわになって来るのだ。

二代目として会社を継いだ時も、倒産をさせてしまった時も、倒産の後の再就職先での仕事においても、どの段階でも宍倉勲という人は誠実で真剣そのものだった。

章が進んで娘が小学生の時、父の仕事ぶりを独占密着取材する、と言って父の再就職先の仕事場へ付いて来た時の話などは圧巻だろう。

その頃からちゃんと娘は父の仕事ぶりを見て来たのだ。
父の言葉を、仕事ぶりを、ちゃんと取材したノートの内容を頭に刻み込んでいた。

そして父は単に平凡で真面目だけが取り柄の人ではなかった。
多くの人から信頼され、慕われる人だった。

娘にはちゃんと伝わっていたし、孫にも。

「さいごまでかっこよかったよ、おじいちゃんは」と孫から言われることは、おじいちゃんには最高の褒め言葉だろう。

各章に必ず一度は床屋が登場する。
それは同じ床屋ばかりではではなく、旅先の床屋、海外出張先での床屋だったり。

その床屋の場面がこの小説のいいスパイスになっているのかもしれない。

床屋さんへちょっと [集英社] 山本幸久 著



きつねのはなし 


昔、京都に住んでいたことがあるが、この本を読むとその界隈の風景がまざまざと目の前に現出するように、懐かしく思いだされる。

京都の一乗寺にある芳蓮堂という骨董屋、古道具屋か?を舞台にする「きつねのはなし」。
「果実の中の龍」
「魔」
「水神」
の四編が収められている。

怪奇小説、と言うが果たしてそうだろうか。
「きつねのはなし」「魔」「水神」などは何やら京都を舞台にした日本昔話のような気がしないでもない。
京都で怪奇と言えばなんと言っても深泥ヶ池か。
自分が住んでいた頃も深泥ヶ池の幽霊話は良く聞かされた覚えがある。

四編の中で個人的に気に入っているのが「果実の中の龍」。
主人公が気に入っている先輩の実家は明治維新後に成り上がった大地主だったのだという。その先輩のお祖父さんは還暦を迎えてから自伝を書き始めたと先輩曰く。
幼少時代からの思い出を書き始めたはいいが、構想が膨らんで、明治時代の栄華を書き、更に構想が膨らんで明治ははるか遡り、古事記、日本書紀の時代まで遡ってそこからの家系の物語を書き始めたのだという。
無数の物語を集めて来てはその断片をつなぎ合わせ、長大な物語に仕上げて行く。
もはや妄想によって作られた一族の年代記なのだが、それを妄想と言ってしまうのはどうなんだろう。
どんな時代にも日本も他の国でも、成り上がった者が一族の箔をつけるために作り物の年代記を作って、それが年を経るうちにいろんな話が織り交ざって、今や史実になってしまったなどと言う話は山ほどあるのではないだろうか。

だが、作者の落とし所はそんなところではなかった。

先輩は祖父の血統をまさに継いでいた、いや、そうではなく先輩が祖父そのものであった・・・。
短編をあまり詳しく紹介してしまうわけにはいかないが、まことにその先輩こそ作家稼業そのものではないだろうか。
この一篇のみ他の三篇とはかなり違った味がある。

帯に「祝山本周五郎賞受賞」とあったが、なんのことはない。作者が別の本で受賞したということで、この本のことではなかったようだ。

もちろん、賞がどうしたなどは読者にはどうでもよいことで、他の三篇も何やら不思議な空間へ行って返って来たような読後感を感じる作品だった。

きつねのはなし 「新潮社」 森見登美彦著