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世界不思議発見 南インド大紀行


世界不思議発見 南インド大紀行

ここはスタッフが読んだ読み物を元にあれこれ好き勝手な事を書くコーナーであるが、今回はテレビの番組で面白い光景を見たのでそれを書いてみたいと思う。

南インドにはまだジャイナ教と呼ばれる宗教が残っている。
ジャイナ教は生き物を一切、殺さない。
水を使用する際にもわざわざ布で濾してからその水を使用する。
それは水に含まれる混在物を取り除いてきれいな水を使用しようという目的かと思えばさにあらず。水の中に混ざってしまった生き物を間違って殺してしまわない為だという。
徹底している。
また、当然ベジタリアンであるにも関わらず、根菜の食を禁じている。
仏教にも不殺生の考え方はあるが、根菜の食までを禁じてしまうなどという話は聞いた事が無い。根菜、要は大根、人参、玉葱、芋などの根っこの部分の野菜、これらを収穫する際に小さな虫を殺してしまう可能性があるという理由で、その食を禁じてしまっている。究極の不殺生宗教ではないだろうか。
エルデストに登場するエルフもベジタリアンで、不殺生であるがさすがにジャイナ教には顔負けだろう。
ベジタリアンの食事から玉葱、芋類、大根、人参などが無くなったらどれだけ味気ない食事になるのだろうか。豆類だけで果たして満足出来るものなのだろうか。

ジャイナ教の信者はその聖地シュラヴァナベルゴーラにある世界最大の仏像、ゴーマテーシュワラを祭っている。奈良の大仏さんよりはるかに大きいし新しく見えるが、実際には1000年以上前に建立されたものだと言われている。
その巨大なゴーマテーシュワラ像はなんと驚く事に全裸なのだ。衣服を一切纏っていない。それはジャイナ教の中の一派が物を所有する事を禁じているところから、衣服ですら所有しないという思想がゴーマテーシュワラ像に表れているのだ。

その聖地で12年に一度行われるというマハマスタカゼェーカ祭という祭りの映像が流れていた。ゴーマテーシュワラ像に貴重であるはずの牛乳などの飲料を頭から全身が真っ白になるほどにぶっかけてしまうのだ。かなりの贅沢な行事だろう。
そんな贅沢をしてでも惜しくないというほどに信心が深いという事であろうか。

貴重な発見を見せてもらった。



エルデスト


「エラゴン」の続編がようやく出版された。『エルデスト』今度は上下巻二冊になった。あまりに期間が空き過ぎてしまって、「エラゴン」の最後を再度読み返さないともう登場人物の名前も忘れてしまって話が繋がらない。
前作ではど主人公のエラゴンのみにスポットが当って影が薄かったローランに今度はスポットがあたって行く。
エルフの国でアーリアへの思いを押し殺しながらも修行に励むエラゴン、
エラゴンの故郷であるカーヴァホールでのローランと村人たちと帝国軍の戦いそして旅立ち、
ナスアダに率いられたヴァーデン軍のいるサーダ、
この三つの拠点を物語は行ったり来たりする。

2006年には映画公開も決定したとの事なので、映画をご覧になる方のためにはあまり詳細を書くのはよろしくないので、この上下巻にて初めて明かされる意外性には触れずにおきます。

しかし、この著者「クリストファー・パオリーニ」という人、「エラゴン」を書いた時はまだ若干17歳だったとは驚かされました。

実は、私、この手の冒険ファンタジーは何冊も読んでいます。
息子にせがまれて買い与えているものを自分も読んでしまい、はまってしまう、というのが毎度の事。
ただ「指輪物語」やら、なんやらなんか似てるところがありますよね。

確かにおもしろいのですが、なんで息子はこうも新刊ばっかりを欲しがるんでしょうね。昔の世界名作全集やら、伝記の類ならいくらでも家にあるのにそんなものには目もふれない。
まぁ、大人の私がはまるぐらいですから、仕方が無いですが・・・。

暇があったら読んでみて下さい。分厚い本ですが、大人なら二晩で読みきってしまえますよ。

ドラゴンライダーⅡ エルデスト 宿命の赤き翼(上) (ドラゴンライダー (2))



愛と幻想のファシズム


以前にこの本を読んだのは何年前だっただろうか。
10年、いや15年前かもしれない。
どちらかと言うと村上龍が芥川賞を受賞したあたりから、だんだんと芥川賞の受賞作品というものも嫌いになりはじめ、そのあたりから芥川賞の受賞作家の書いたものから遠ざかっていたと思う。
三田誠広の「僕って何」などを読んだ時は思わず、むかついてきてしまい、読後には捨て去った覚えがある。
「限りなく透明に近いブルー」も当然の如く読んだ。
何故こんな退廃的で堕落的な作品が大騒ぎされるのか、当時流行りの若者の退廃的思考への迎合ではないのか、などと書くとよほど年寄りの様であるが、村上龍氏よりははるかに若年の私は当時そう思えてならなかったものである。
実は「限りなく透明に近いブルー」にはもっと違う意味での、例えば第三者的な視点で「私」そのものを描写するという意味においてこれまでに無い作品、という様な、画期的な側面があったらしいのだが、当時の私にはそんな事は気が付かなかった。
再読すれば、また違った見方が出来るかもしれない。

10数年前、そんな村上龍への評価を100%変えたのがこの「愛と幻想のファシズム」だった。当時読み始めた時の衝撃は未だに忘れられない。
鈴原冬二や「狩猟社」はどこまでやってくれるのか・・・
今回、たまたま本棚にこの「愛と幻想のファシズム」を見つけ、久しぶりに読み始めた。読み始めたのはいいが、上下巻の内の下巻が見つからない。
そういえば、10数年前に読んだ時に最後の終り方に何かしっくりしないものを感じていた事を思い出し、そのまま下巻を読まない方がいいのではないか、などと考えつつ読み出してみるともうたまらない。
即座に下巻を購入して読みつづけた。
何故今回、「愛と幻想のファシズム」だったのだろう。
先日の選挙にて小泉圧勝を目の当たりにし、小泉のある種のカリスマ性が連想させたのかもしれない。

「ファシズム=悪」というのがこれまでのある意味、常識的な考えだった。
いやそういう教育を受けて来たのではないだろうか。
「農耕民族は隷属を好む」
「人から指示されて生きるほうが楽だ」
こういう考えを100%否定出来るだろうか。

あらためて歴史というものを考えた時、この永い人類の歴史の中で現代の様な民主主義、(それはエセ民主主義と呼ぶ人もいるだろうが、それは話題が逸れるのでここではふれない)と呼ばれる体制に変わってからの時代というのはほんの一握りでしかない。

日本も中国も西洋も王侯貴族や殿様という絶対権力の元でそれぞれの文明・文化が築かれて来ており、民衆は常に圧制に苦しんでいたのだろうか。
飢きんや疫病、圧制に苦しんだ時代もあれば、善政をしく王を戴いて栄えた時代もあっただろう。
現代の制度の中でも指導者が無能であればそのとばっちりは民衆へ跳ね返る。

何も全体主義やファシズムを肯定している訳でも中世の絶対君主制度が正しいなどとも言っている訳では無い。

ただ、国家がなんらかの危機に直面した時ほど、民衆は強い指導者を求め、よりカリスマ性の高い人物を指導者に求める。
だからこそ、この「愛と幻想のファシズム」内の日本においては鈴原冬二に皆惹かれて行く。
この本にはあまり余分な感想文など不要であろう。
人の感想などに興味を示すよりも読めば、それで事足りる。

いずれにしても、ファシズム=悪 という短絡的を打破し、真っ向から既存常識を打ち破った村上氏に拍手、である。
もう一点拍手を送りたいのは、
「米国という強い男にいいように蹂躙(じゅうりん)されている弱々しい女。それが、戦後から現在までの日本の姿だ」
「そんな国で日本人はプライドを持って生きていけるのか」
というプライド無き日本、プライド無き日本人への作者へからの強いメッセージである。
まさに村上兵衛では無いが、「国家無き日本」に対する強いメッセージ。
これをあのまだまだ左派勢力がマスコミの大半を牛耳っていた当時に書いている事は驚嘆に値する。

最後に下巻の最後まで再読してみて、10数年前に感じたあの「尻切れトンボ」の様な感想は今回は抱かなかった。あの当時はもっと過激な最後を期待していたのかもしれない。
もう一点。文庫本のあとがきにて著者そのものがふれているが、
冬二とゼロとフルーツは「コインロッカーズベイビー」のキクとハシとアネモネに相当すると言うが、私にはそうは読めなかった。
やはり、もう少し読み込みが必要なのかもしれない。

愛と幻想のファシズム  村上龍 著