月別アーカイブ: 6月 2010



ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 


絶対に女性にしか書けない本なんだろうな。

正直言って、途中で読むのを断念しかけそうになってしまった。
地方に住む女性ならではのコミュニティ。
そのコミュミティのなかでの生き方、ルール・・えーい!面倒くせえ!と放り出したくなったが、最後まで読んでやはり良かった。

大人しくて素直で、母子の仲はむつまじい幼馴染の女性。
そんなかつての親友が母を刺して逃亡している。

都会で雑誌のライターをしていた主人公は彼女を探し始める。
しかも事件が起きてからしばらく経ってから。

何故彼女を探そうとしているのか。
何故富山の赤ちゃんポストに執拗に拘るのか。

何故、ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナなどというタイトルなのか。

最後まで読めばその意味がわかる。

女性の勝ち犬とか負け犬とかという言葉はあまり聞いたことがなかったが、本当に流行った言葉なのだろうか。
勝ち組、負け組と同様に嫌な響きの言葉だ。

勝ち犬か負け犬かは知らないが、幼馴染みの同僚の及川という女性の言葉は、その元親友やその親しい人には反感を覚えるかもしれない言葉だが、かなり物事の本質をついているような気がする。
・母親が子離れ出来ていない。
・娘も親離れ出来ていない。
・自分の人生へのモチベーションが低すぎる。
・自分の人生の責任を人に求めて不満を口にするだけ。
・格差は学歴にあるのでも仕事の形態にあるのでもない。意識そのものに格差がある。

上の言葉はこの本の本題とは無関係なのだが、これらの言葉は地方で働く女性だからではなく、都会であれ地方であれ、男性にも女性にも、若者にも壮年にもいや老人にさえ当て嵌まる人には当て嵌まるのではないだろうか。
ストーリーそのものはそれはちょっと・・という展開ではあるが、なかなか考えさせられる本であることは確かだろう。

ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 辻村 深月 著



幼女と煙草 


死刑囚が刑の執行を前に最後の煙草の一服を要求する。

ところがこの国、煙草に関する規制がことのほか厳しく、非禁煙場所での喫煙は法律で禁じられており、この塀の中もまた禁煙地帯。
方や「死刑囚は刑の執行前に習慣に適った最後の望みを果たすことが許される」とこれまた法律に謳われている。

塀の中の責任者はなんとか別の望みを・・と懇願するが、その死刑囚は「俺は単に煙草を1本吸いたいだけなんだ」と譲らない。

すったもんだのあげくになんと「死刑囚の健康を守る」というまさにブラックジョークのような展開で刑の執行は留保される。

それがお話の始まり。

この国では煙草に対する規制が厳しいばかりか、子供を極端に大切に扱う法が施行されている。

主人公の男性はバスに乗り合わせた子供達が座席を占拠し、後から乗り合わせた勤め人やら、ご老人が立ったまま耐えている様子に耐えかねて「子供は座席を譲るべきだ」と言ってしまうのだが、子供達の指導員から白い目で見られ、それどころか大人たちからも呆れた目で見られてしまう。

どうもこの国では子供に文句を言うと厄介なことになるらしい。

市長は選挙の人気対策のために、行政センターのオフィスの半分をまるごと託児所にしてしまう。
行政サービスの低下よりも子供を大切にするという施策の方が選挙では有利なのだ。
その結果、オフィス全体が子供の遊び場所と化してしまうのだが、職員は彼らに文句や注意すら与えない。与えることが出来ない。
また子供に害を為す危険性があるものを排除する理由でそれまであった喫煙所は廃止され全面禁煙に・・・。

主人公はトイレで煙草を吸っていたところを幼女に目撃されたことから悲惨な目に会ってしまうのだが・・・。
と、あまり内容にはふれないでおこうか。

この作者、フランス人である。
ではこの本はフランスが舞台かというと否、架空の国が舞台であるということになるのだが、フランスでは2008年にカフェやレストランなど公共の場所での全面禁煙となっている。

この本そのものはフランスでは2005年に刊行されているのだが、そうした世の中の風潮は2005年でも始まりつつあったのだろう。そういう風潮が背景にあることは容易に想像できる。

この本の主人公氏の子供嫌いはかなりのものである。
子供は人間ですらない。動物だ、クソガキだ!とはあまりに子供を過大評価し、尊重してしまい、「子供は嘘をつかない」「子供は正しい」とのたまうその周辺への反発からの言葉なのかもしれないが、子供とは未発達で未完成なものと再三再四その言葉が出てくるあたり、案外作者そのものの考えそのものなのかもしれない。

「この本は私達の社会に潜む危うさを強調している」と訳者があとがきで述べているが、そうした危うさはフランスのみならず、かつての先進国と呼ばれた国での共通したことなのかもしれない。

WHO(世界保健機構)は先日の5月31日(世界禁煙デー)を前に各国の煙草メーカーは女性に対する販促活動を強化している、と問題提起し、各国政府へ規制強化を呼びかけたのだとか。(2010年5月31日 日本経済新聞)

日本においても健康の押し売りみたいな施策はかなり進みつつある。
本来個人に帰するべき責務であるはずの健康というものを国家や自治体が押し付けてくる。健康ファシズム。
煙草に限らず、メタボにしてもそうだ。
平成15年に施行された「健康増進法」の条文のなんたる愚かさ。
「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」
ってねぇ。
健康の増進に努めなければならないってそんな押し付けってなんなんだろう。
そればかりか、選挙に向けて子供を大切にするという名目の政策を是が非でも通してしまうような政権の考え方などはほぼこの本に登場する為政者に類似してやしないか。

この本、フランスではかなり話題となった作品なのだという。
英訳されたものはイギリスでも話題に。

邦訳ものはどうなんだろう。
「幼女と煙草」というタイトルは違った内容を連想させてしまう。

一昔前に筒井康孝の小編で「最後の喫煙者」という喫煙者が弾圧されるという、少々これと似通ったところのある作品があったが、タイトルだけでもだいぶんと伝わるものが違う気がする。



セピア色の凄惨 


とある探偵事務所に「親友を探して欲しい」と女性が訪れる。
手がかりは年代の異なる写真が四枚のみ。

そこからこの探偵の調査が始まるのだが、彼の調査結果は全く親友の行方を探しているものでは無かった。というより、その友人のことなどかすりもしていない。

たまたま写真の中に居合わせたかもしれない一人ひとりの人の身の上話を調査結果として報告しているのだ。
その調査結果がそれぞれ「待つ女」、「ものぐさ」、「安心」、「英雄」という四編に綴られている。

「ものぐさ」
一家の主婦である。その主婦が面倒くさいからと食事を作らない。
面倒くさいから洗い物をしない。
夫の帰宅が遅くなるので食事はコンビニ弁当で済ませるようになる。
ゴミを捨てに行くのは面倒くさいから部屋に放置する。
洗濯も面倒くさいからしない。
電話が鳴っても立ち上がるのが面倒くさいから放っておく。
玄関のチャイムが鳴っても面倒くさいから放っておく。

これだけの面倒くさがり屋が良く出産など出来たものである。
出産しないのもまた面倒だったのだろうか。

夫も妻が電話を出るのに立ち上がりもしないほどに面倒くさがりなことを容認しているのであれば、携帯電話でも買い与えておけば良かったものを・・。
それがあればその後の事態は変っていたかもしれないのに。

それだけの面倒くさがりでもコンビニへ出かけるのだけは面倒くさがらずに続けている。気になるのはその生活費。
一家の稼ぎ頭を失ってしまって、この女性の怠惰な生活では仕事に就くなど有り得るはずもなく、生活保護でも受けるしかないのだろうが、役所へ出向いて届けを出すなどという面倒なことをどう考えてもしそうに思えない。
生活費を賄ってくれる裕福な親でも居たのだろうか。
それな親が居たなら、こんな生活を放ったらかしにするはずがない。
・・・などという現実的なことをついつい考えてしまうのである。
もともと探偵さんの作り話かもしれないような話なのに。

話はどんどん凄惨さを増して行く。

心配性という世界をはるかに超越してしまっている女性。
不安神経症とでも言うのだろうか。いやそんな世界もはるかに超越してしまっているだろう。

物を購入してもその物が壊れることを異常に怖れるためにあろうことか、その購入物を破壊することで、ここまでしても壊れなかったと安心する。
携帯電話を落として壊してしまったらどうしよう、その恐怖を取り除くために2階から買ったばかりの携帯を投げ落とす。
無事なら無事でさらに高いところから落としてみて・・と最後に破壊されるまでの一通りの確認作業を行わなければ気がすまない。
幼いころからそうだったようで、金魚を飼うと死んでしまったらどうしよう、とあろうことか漂白剤を水槽に入れ続けるのだ。

ある意味、この確認作業なしですまない人が良く大人になるまで生きてこられたものだ、と驚くばかりである。

この二人の異常さに比べたら「英雄」の主人公などははるかにまともだろう。
ただ、その地方そのものが少々異常。
岸和田のだんじりを知っている者からすれば、何よりも祭り優先の地方があってもおかしくはない。
中にはそこで命を落とすことこそが名誉、という考えの地方があってもおかしくはない。
ただ、凄惨さの描写はこれが一番かもしれないので、気の弱い方にはお勧めではない。

著者はこの異常さを日常の延長だと言いたいのだろうか。
「待つ女」の異常さ、初対面の時にその人が前日ナンパした相手じゃなかったことがわかったところでどうだというのか。
その後、今の妻とはずっと付き合い続け、子供もいる。それのどこが偽りの夫婦なのか、読者はそう思うが、常に別の見方を作者は提示し続けるのだ。運命の人ではなかった、と。

「ものぐさ」ではだって面倒くさいんだからしようがないじゃない、と。

ジャンルではホラーということになっている。
確かにホラーなのだろう。
お化けも幽霊も登場しないが・・。
現代版のホラー小説か。
いや本の背表紙にある通り「悪夢のような連作集」というのが妥当な表現なのだろう。

セピア色の凄惨 (光文社文庫) 小林 泰三 (著)